自分さえよければそれでいい。

後輩に対する気遣いもないままだ。

人生の後半に入ったおじさん、おばさんにしてみれば、人からの気遣いはあってもなくてもさほど気にならないだろう。

しかし、まだこれからという若い世代の人に心配りをしないという職場は何ともおぞましい感じだ。

無論、人からのどう思われようが気にもしない強い感情の持ち主であれば、気楽でいいかもしれない。

また、違う世界を勝手に見つけて巣立って行ける人は問題ない。

しかし、一般的にこの業界に来る人は、勉強がよくできた優等生タイプが多い。

それに私を含めデリケートなタイプが多い気がする。

間違いなくほぼすべての人が、寂しさに打ちひしがれる。

気にしなくなることは大抵はできるのだが。

会社というものはそんなに人にとって冷たいものだったのだろうか。

この業界では実績を重んじるばかり、最も大切な人の幸せを考えていないようだ。

私も含め、変人が多いということもあるだろうが、それにしても冷たいばかりだ。

簡単に言えば、普通の会社ではなく、極めて特殊な職業ということだから、それで普通なのだろう。

全く人に惨い業界である。

冷静になると、涙が出るような感じだ。

そんな私も、自分さえよければあとは知らない無関心な群衆となっているのであり、理想からは程遠いばかりだ。

私の本来の理想は人に優しくありたいということなのだが。

情けないことである。

空回りすることが当然の状態に陥っている。しょぼんしょぼんしょぼんあせるドンッドクロ
気分が晴れないモヤモヤした感じの裏には反感がある。

自制によって反感を消滅させようとする。

分別の人であることを止めると、反感という感情自体がなくなる。

しかし分別の人を止めてしまうのは非常に難しい。

一時的には止められても、分別を意識から除外してしまうことは難しい。

反感を消滅させておくには、正しくもなく悪くもなく、明るくもなく暗くもなく、嬉しくもなく悲しくもない、中道の境地に居ることしかないようだ。

みんな正しくてみんな間違っているという見方をするのが良いようだ。

極端に走らないということだろう。

しかし分別すること自体が極端を強調するものだから、極端に走らない中道を行くことは極めて難しい。

浮かんでは消える心は、喜怒哀楽を求め、極端になることを望んでいる。

そこを分別から離れた人になって抑える。

自然体で居られない自分を制するのは中道でしかない。

それがその人を反感から救うことに他ならない。

分かり合える場面では反感はそのまま反感であってもいい。

しかし世の中は人の反感を受け入れるほど甘くはない。

分別の目が強いほど、世の中の成功者になっているかもしれない。

反感は自分自身の問題であれば、自分が中道を心掛けねばならない。

うお座うお座うお座みずがめ座うお座うお座うお座汗
人は明るさを求めて旅立った。

その先に何があるかは知らない。

明るさを求めて無理をした。

不自然だ。

意識して自分の中に集中する。

それはまるで瞑想するかのように。

気づいてみれば職場で笑うことが極端に少ない。

それを補うかのように外に出たくなる。

だがそれほどの余裕はない。

家で笑ってバランスをとる。

職場という場所、誰がこんなに冗談を取り去ってしまっているのか。

それは笑わなくなった、笑えるような自然体でいられない自分に問題がある。

気にし出すとキリがないのがこの問題だ。

無関心になり、つまらないと決めつける気持ちが、笑うことを喪失させていく。

自分に合わないと決めつける気持ちが笑いを喪失させていく。

かなり異常だ。

この異常さに慣れようと必死になる。

いつしか社会は無関心な群衆となる。

諦めた気持ちと笑えない気持ちが増える。

冷静でありながら、全く冷静でない。

だが、冷静さを打ち破ることはもはやできない。

休みを待つだけだ。

社会は苦しみに溢れている。

社会ではなく個人で生きるところに、笑いや自然な空気がある。

宇宙人流れ星
脱力して生きる。

これは一見消極的なようにしか感じられないが、我々のような特殊な業界を乗り切るには必須とも言える気力かもしれない。

脱力には怠けるという意味もあるだろうが、良い意味で気を抜けば執着や理想から解放されて少しは楽になる。

なるようになる、なるようにしかならないという脱力だ。

脱力は人生の終着点が病気や死 にあるという基本に立ち返れば、至って自然なことである。

普通、自然でいたいという願望は、時として欲望以上の執着となる。

我々は置かれた環境に順応するために、普通、自然であることから離れなければならない。

しかし、脱力を持ってすれば、悪い方向へ考えることもなく、ただぼんやりと過去、未来の楽しきことの中に居れば良い。

それで他人と衝突することもなく、自分を窮地に追い込んでしまうこともない。

社会の多くの人は脱力の中に飲み込まれて行くかのようだ。

我々の力では変えられないと思っていることを、良いように諦めてしまうこと。

脱力的な生き方は肩の荷を降ろして、成り行きに任せる水の如く大きな生き方である。 ぶーぶーオバケオバケオバケ

父親の必要性はどこにあるか。

一番には一家を養う経済性にある。

働いて稼いでこなければ父親と言いにくい。

しかし、経済性があっても、嫁、子どもと同視点に立つ人間性も必要であることはいうまでもない。

それで良いかと思えばそれだけでもダメで、自分自身の人生を生きられなければならない。

自分があってはじめて、経済性、人間性も生きてくる。

人一般的には、自分が優先されて、その次に経済性、人間性が必要とされる。

自分を健全に保つ力がなければ、すべてが崩れ去ってしまう。

より高い志向を持つものは生きずらい。

経済性で見れば、善よりも悪である方が得をすることが少なくないとも思える。

ルールに反しない程度にうまくやって行くのが成功に近いかのようだ。

少なくとも現役である間はそうであるかな。

であるならば、経済性を必要とされなくなる老後が楽しみという発想はよくわかる。

それぞれ年相応の生き方があるようだ。

簡単に年をとってしまうこともできない。

一日一日を噛みしめるように。

自分に逆らわず、世間に逆らわずに生きることしか残されていないのかな。ナゾの人夜の街
誰にでも悩みは付き物だが、私の場合の一番の悩みはずうっと変わらず職場だ。

仕事だから稼げればいいとの割りきりの基に生きているのが現状である。

私の特殊性にあるとともに職場の特殊性にある。

これだけ負担が少ない状態にありながら、幸せを感じにくい場所も珍しいかもしれない。

まあ、毎日図書館に出勤しているという感じだから、図書館に好きな本を読みに行く感覚で、ネットなどもやって楽しめるが。爆弾

私にとっての職業は忍耐の場であって、修行の場である。

先のことはどうでもいいが、10年の長さが実質的には1年ぐらいの長さであるかのような無になる修行の場である。

そういう場に居るから生きることの訓練にはなっているだろう。

ただし、基本が空なので、目標とする場所も空だ。

個性的な?感情を出す人は辞めていく職場である。

だから感情をできるだけ出さないようにする。

残されているのは空という悟りに近いものだ。

この業界では、どこの職場でもあまり変わらないことだと思うが。

強い者が残り、弱い者は排除される。

排除される理由は自分にあり、自己責任というところだろうか。

それが生きていく上でのルールには違いない。

耐えることは一番の強さとなる。

問題なのは、空の状態とどう対峙するかだろう。

そこのところの考え方が、働くこと、感じることに大きく影響してくる。

悩みは人それぞれだが、悩みのない者はないだろう。

生きていくことはこの社会に執着することだから、悩みがなくなることはない。

ドクロとかげロボット
こんな感じの写真もカメラ

ブログに載せるためにパシャッ!!





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カモ?アヒル?違う違う。

ガチョウだってビックリマーク

確かにガチョーン!ガチョーン!!って鳴いている爆弾

おじさんが土日に餌付けしているから、この公園から離れないのかな~。

今までアヒルって言っていたわ~。

おかしいと思ってはいたが・・・・・・。ブタ汗

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いつもの公園に自転車で朝からお散歩に。

おにぎりを持って家族4人でサイクリングだ。

ハスの花を見に行ったのだが、大方散ってしまった後だ爆弾

だいたい気づく時にはちょっと遅かったというパターンかな。

この公園は本当にいい合格

川と水門の雰囲気が最高だ!

散歩を毎日の日課にしてもいいくらいだ。

ハスと言えば、泥沼に咲く清らかな花黄色い花

仏像さまに繋がっているね~王冠2

おにぎり、外で食べると美味いね!!

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iPhoneからの投稿
誰にも自分の性格とは切っても切れない縁がある。

良い方向に捉えれば明るさとなり、悪い方向に捉えれば暗さとなる。

自分の性格は選択できるものでもあるが選択することが非常に難しい。

置かれた環境にどう反応するかだけが性格を決めるかのようだ。

嫌に感じることでも前向きに捉えることが明るさを作り、嫌に感じることを後ろ向きに捉えることが暗さを作るようだ。

ときに暗さに支配されてしまうことがある。

前向きにという意味が抜け落ちてしまったようなときだ。

人は他人を見て、自分の嫌な部分を見る。

だから、そんな嫌な部分を出す他人を嫌う。

前向きに捉えて、嫌な部分と認識しないようにできればいいのだが。

だが、どうしてもそのような前向きな気持ちを持てなくなるときが来る。

後ろ向きにしか捉えられず、暗さばかりが際立ってくる。

こんなときは暗さに同一化してしまうのが、暗さから抜け出すための方法となる。

自分が嫌な部分になってしまうということだ。

それは自分を受け入れることだけでなく、他人を受け入れることにもなる。

自分が脱力そのものになって、勝手な思考を遮断してしまう。

これは暗さではなく、暗さが明るさに変わって行くきっかけとなる。

自分の暗さ自体になることが、自分を許容することに繋がる。

明るさの意味が暗さを除いたことにあるならば、明るさは他人を拒絶する。

暗さを意識すれば、譲歩的になり、一歩身を引いた状態になる。

今の社会で足りないのは暗さの認識であるのだろう。

明るさを追求するあまり、暗さを隠滅しようとする働きだ。

暗さは他人にあり、自分にはないものとしようとする。

それで割り切ってしまえる者が勝者となり、割り切ってしまえないものが敗者となる。

暗さの中から得られるものは、生きていることに喜びを感じる気持ちだ。

暗さはそれ以上のものを作らず、それ以下のものも作らない。

だから、生きるということ自体に同一化する。オバケオバケオバケクローバー
私、という自我を忘れてしまうのは難しい。

私が存在する限り、物事はいいように捉えられない。

私という自我は、自己中心的である一方で、自己表現をしきれないものだ。

人を敬うように見せかけて、本当は人をバカにしている。

バカにしているから、日々のつまらなさを感じるのだろう。

私という自我は、人を見下している。

だが、それは表面的に見下しているだけで、本当は羨ましくも思っている。

バランスを欠いた自我は、自分を傷つけてしまう。

忘れたいと思うこと自体が問題であり、自我が私から乖離している状態だ。

自我を自分で選択することは難しい。

自分よりも自我が先行してしまう。

それは誰もが病んでいることであり、生きることに正面から向き合うことができていない結果生じてくるのだろう。

後悔は常につきまとう。

自我が出る前に自分を出していることは極めて難しいことだ。

元々空っぽであるのに、そこに何かを求めようとするから自我の乖離が生じる。

人の性格、行いには元々対した意味はなく、自我が勝手に意味付をしているに過ぎない。

人を見下してはいけない。

それは自分を見下すことと同じだからだ。

パンダ汗