何とか昨日一日の仕事を終えた。

黙って考え、黙って書き続けるということは思っている以上に大変に思うときもある。

何が大変かといえば、一歩違えば考えて書くための機械と化してしまうからだ。

誰しも生味の人間でいたいと思うから、そのような機械になりすますことは辛いことだ。

この世の中の多くの仕事というのは、人にとっての苦痛を強いるものである。

若い時に思う苦痛の意味と、年を取ってから思う苦痛の意味とはだいぶん違う。

若い時は社会勉強だと思えばいいかもしれないが、年を取ってからはこれが仕事だと割り切ることしかなくなる。

年を取ると、言うならば仕事に見切りを付け、社会のルールに堪忍することしかないようだ。

一日一日は何も意味のない日である。

それはやるべきことをやると言ったサイクルの繰り返しである。

このサイクルに何も意味はない。

ただし社会で認められるルールに則っているからこそ、報酬が得られる。

その点に意味があるだけであり、できることなどたかが知れたものだ。

そう思うからこそ、余裕ができてくるとも言えるのだろう。

よき仲間を得たいと思うものだが、この仕事を続ける以上難しいことだ。

人生は常に、どこで諦めるかであり、どこで満足するかである。

すべてが得られたと言えるのは唯一、他を諦めたときだけである。

不足していると思う気持ちを捨てない限りは人生は暗いままである。

不足を感じないようにするには、自己否定から始まって自己を破壊することにあるようだ。

ヒマワリ晴れ ドクロ
人の意識とは気まぐれなものだ。

良い方向に誘導すれば気は晴れる。

探し求めずに自然に湧き上がる気持ちに任せれば、意識は良い方へ働く。

これと反対に理想を探し求めようとすると、意識は悪い方向へ働くことの方が多い。

足りないものに意識が行ってしまうからだろう。

どのように意識しても外から見ては何も変わらず、全く違いがないようだ。

このどこからか生まれる意識は自我によって作られているようであるが、この自我というものが不可思議なものである。

しゃべったり、集中したり、外のものに一体化できるときは、自我が意識されることもそれほどないだろう。

ところが、しゃべれず、集中できず、外のものに一体化できないときは、考えるという行為によって自我が意識される。

この考える行為によって意識する自我は、良い気持ちは作らない。

考えると、足りないものを認識してしまうことが多いからだ。

考えずに思うという行為があるかということだが、自然に任せる行為はこれに近い。

見える景色にぼんやりと一体化する行為だ。

趣味に合わせて自由に気持ちを発散させる行為だと言ってもいいだろうか。

素でしゃべれない環境で仕事をする人が少なくなく、こういった環境では自我をうまく制御する訓練を毎日しているようなものだろう。

自分の中で心を無限に解放できる訓練をしているというところか。

情熱もなく、雑談もないような環境では、自我をどのように制御するかで気持ちを癒していくしかない。

それは静かな無限の慈悲という心によって癒される。

くもり雨カエル
人として生きる場合に一番やりたいと思うことは何だろうか。

やりたいと思う思わないに拘わらず、できることは限られているが。

人はそれぞれの自我に執着し、自我の完成を目指すかのように振る舞う。

自我の完成は、執着によって成し遂げられるかのようだ。

人がそれぞれ望むものは、自我を満足させるためのものであろうか。

だが、本来の人の完成は、自我の死を認めることによってしか望めないものかもしれない。

人は小さなところに自我をおき、小さなところで自我を完成させようとする。

この自我に同一化する限りにおいては、充分に機能し、人の役目を終えられそうである。

現に、社会には、自我を完成させる欲求が必要とされる。

これが原動力となって社会が変わっていく。

自我の完成を追求することこそ、社会で認められる唯一の方法と言うこともできる。

それは義務を伴った個人の尊重として認められるものだ。

どこまで行っても、この欲求から離れる術を知らない。

ただ言えることは、極まれに自我の完成を超越して、行動する社会人もいると言うことである。

ただし、この超越する者は、もはや自我を完成させ、自我の死を認めた、相当に恵まれた者であるに違いない。

我々は、自らの自我を完成させること以外のことは望まれてもおらず、自我を完成させるだけで完全であると思われているようだ。

それ以上の者になることもできず、このことを認めることが、自我の死を認めることに繋がるようだ。

我々は、無能者であり、無能者であるからこそ、毎日懸命に働くことしか道は残されていない。

我々の通る道は、たかが知れたものだ。

だから、生きるということについて敏感になれるのではないだろうか。

ウサギウサギウサギウサギウサギ足あと 新月 カメカメカメカメカメあせる

やがてはこの身も心も消えてなくなることを思い出すと、なんとも切ない気持ちになるものだ。


この切なさが、生きるということを一番よく指し示しているのかもしれない。


時間は、意識するとなんとも早く過ぎ去ってしまうと思うものだ。


同じ時間がやってくることはない。


子どもの成長を追ってみると、時間の経過は早く、余計に時間が短く感じられる。


人にとって切なくなることは必ずしも都合のよいことでもないが、切なくなることに生きる実感があると言ってもよいだろう。


思考を凝らさなければ、昨日という日は昨日、今日という日は今日として、淡々と過ぎていく。


子どもの頃の記憶は、時間の経過が遅く、よき思い出となるものだ。


子どものときにどのように過ごすかは、大人になるときに大きく影響する。


切ない気持ちは、そんな過去のよき思い出とも繋がっており、人を落ち着かせるものだ。


生きるということ-image

昨日は地元の夏祭り盆踊り大会へ、子どもの付き人?として行ってきた。お月見

結構、くじ引きなどにお金を使ったなぁ~。


さすがに最初から最後までいると疲れる。

昨日、一昨日の他の時間は静かに彫刻を。

彫刻は立ちながらでも作業できるところがいい。

現在彫っている大日如来さまと不動明王さまが途中の状態で、虚空蔵菩薩さまの形取りを始めた。王冠2

いろいろ手を付けたくなってしまうのが初心者というところかドンッ

みんな1.5等身ぐらいのSD(スーパーデフォルメ)仏像だがパンダ

 (SDガンダムの名前のパクリクラッカー)

ノコギリで全体の形を切り出すのが意外と楽しい。

ただの四角い木から、形を想像できるぐらいの仏像さまが現れてくるときだから。霧

宇宙人富士山宇宙人富士山宇宙人富士山

我々は何か仕事ができるようになったり、人に認めてもらえるようになったりすると、一人前になったような気になる。


だが、生きるということについては、全くの半人前あるいは素人と言わざるを得ない状況にある。


生きるということは、普段我々が捉えている事柄とは全く別のところで捉える必要があるようだ。


我々はいろいろなものを手にしても、本当に生きる実感を得ていない。


生きるということについては、本当の虚しさを感じずには半人前にもなれないようだ。


虚しさや暗さこそが、その人の本質的なものである。


その本質的なものから、満たされた感じや明るさが生じてくる。


その本質的なものを除外しての、満たされた感じは妄想であり、明るさは人工的なものである。


暗く思える人ほど、力強いと感じた瞬間はないだろうか。


負の力、諦めの力は、正の力、やる気・願望の力よりも強い。


自分の本質的な暗さを受け止める。


八方は塞がれている。


ところが八方が塞がれた状態が当たり前だと思えば、微々たることに嬉しさを感じる。


人は誰しも、本当の暗さを感じるには未熟すぎる。


だから、暗闇を恐れ、忘れたいと思う。


そこに生への執着が生まれる。


暗くて絶望的な社会が当たり前であると悟れば、社会は明るく見えてくるに違いない。


ほんとかなはてなマーク ドクロドクロドクロドクロドクロ   ぶーぶーあせる   オバケ

人は持っている才能を使い、見せようとする。

菩薩は持っている才能を隠し、隠していることを忘れてしまう。

人であるから、力を試してみたくなる。

人は、力を試してみなければ力はないものと同じであると思い、虚しくなる。

菩薩は、力を試すこともなくそのまま保持するから目立たない。

力を試せば、嫉妬や恨みや衝突が生じる。

力は外に出ると、誰かを排除してしまう。

菩薩は力を見えない形で使う。

力の性質を知っているから。

人は人であるために人に気を使う。

菩薩は気を使うこともなく自由に人を救う。

それはまるで子供が遊ぶかのように。

人は何もしないと虚像をつくり虚しくなる。

菩薩は何もしなくてもあるがままを捉え満たされる。

我々は人のままでいることで満たされるのだろうか。

それとも菩薩にならないと満たされないのだろうか。


これは逃れられない人の宿命だ。


走る人オバケ走る人オバケ走る人 ねこへび


生きるということ-image

誰かのために生きるということ。


人は自分のために生きるだけでは満たされない。


人は常に外に係わりを求め、それによって自分を知る。


そもそも他人を思うことが一番自分を思うことに繋がり、自分のためとなる。


他人のために生きるということは存在しないのかもしれない。


他人のために生きようと思うことは妄想であり、思い込みであるかもしれない。


結局は自分が一番満たされたいと思っている。


どこを取っても自己中心的であることが、人を行動に結び付ける。


この自己中心性は、主体的な行動となるからだ。


何かを得たいという願望は、人の本当の願望ではない。


人には、それだけでは満足できない孤独感が常に付きまとう。


誰かのために生きると思い込むこと。


それは自分を一番活かそうとする活力となる。


人は見返りを求めて誰かを思うことなどしない。


見返りを求めるのは、人の本当の願望ではない。


そんな風に思うことが、人には極限られた行動しかできないことを思い出させる。夜の街流れ星


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仏教から、観念する、諦めることの重要性を思い出す。

人は理想を持つから、現実が空虚であると思う。

しかし、この理想こそ空虚なものであると気づく。

理想は根拠のない憧れである。

理想を捨てると、そこには堕落しかないように見えるが、堕落ではなく真実の諦めが見えてくるかもしれない。

諦めには、叶わぬこと、衰えること、儚いこと、病むこと、憂えることなどがある。

すると諦めはマイナスの要因ばかりに見えて、プラスになることがなさそうに見える。

ところが、これは誤った諦めであることに気づく。

諦めは自らを闇に陥れるものではなく、自らを光に導くものである。

足りないものを望むより、満たされたものに喜ぶことが真実の諦めであろうか。

所詮自分は自分、他の何者にも替えることはできない。

自分に対する諦めは、負の感情から人を解放するものである。

上手く諦めた者には喜びが感じられるようになる。

この喜びは、過去からも未来からも切り離された、現在のことだけに満足する喜びであろうか。

この喜びは、強いて言うならば、生きている喜びである。

それが最も基本的な諦めであり、プラスの要因となりうる諦めである。

ヒマワリかおショック!しょぼんシラーむっえっにひひヒマワリ
人は誰しも寂しい生き物だ。

そのことに気づかされるのは、一人になるときであり、眠るとき又は眠りから覚めるときである。

人は人を求めるから、ずうっと寂しいということはない。

孤独から解放されるために人を求めるのか、それとも人を求めることによって孤独をないものにしようとするのか。

人には寂しさから解放されるだけの何かが備わっている。宝石紫

だから、人は何とかやっていける。ペンギン

人は自分にこだわるから、寂しさを深める。

好きか嫌いかという感情によるこだわりだ。

人は好きだと思うものを受け入れ、嫌いだと思うものを見ないようにする。新月

人を寂しさから救うものは多いが、人は自らの感情の妨げによって救いの手を断ち切る。

それが人のプライドであろうか。

だとしたら、プライドとはただの自己主張に過ぎないものだ。

知らず知らずのうちに、多くのものを見ないようにしていることに気づいているだろうか。

たとえ好意を持たれたとしても、相手によって嬉しくなったり嫌に思ったりする。

それが典型的な人の寂しさをつくる。

菩薩として、菩提心を起こす心には、人のような好き嫌いは無いのだろう。

人は人として、好きなものと嫌いなものを選択し、好きなものに近づきたいと思う。

だが、好きと嫌いは相対的なものであるので、時と共に変化することがある。

これが人としての定めであろう。

好きと嫌いは、経験のうちに備えた感覚、意識から生じているようだ。

自らを隠し、プライドを固辞する者は好かれにくいようだ。

自らを隠さず、プライドを固辞しない者は好かれやすいようだ。

そこに人としての限界もある。

寂しさのためにプライドを捨てることは、逃げの行為なのか、それともさとりの行為なのか。

どちらでもあって、どちらでもない。

何が人らしいのかは分からないままだ。わんわんぐぅぐぅ