この時期に頂戴する¥を受け取り、さあ後半戦だ~。

働くことは¥ではないが、働くことの報酬は¥でしかない。

¥は、自分だけで稼ぐように見えて、家族全体で受けとるものだ。

実績に応じて頂戴できるのは、割合が多い少ないにかかわらず、透明化されていていいことだ。

きつい会社時代を抜けて、もう14年近くになる。

よくここまで続けてこれたと思うべきか。

姑息な感情はさておき、おおらかな感情に一体化するべきだ。

おおらかな感情に不満や不安はない。

おおらかな感情は、執着やこだわりを手放し、生きていること、食べていけることに感謝するところから生まれる。

高望みするのではなく、すべて満たされていると思うことに高望みがある。

おおらかな感情は、清流のごとき心境を想像することにあるのかもしれない。

あるいはものを産み出す母親のような心境を想像することにもあるのだろう。

流れ星長音記号1長音記号1長音記号1富士山

あせるたまたま、家に帰る途中で沈む夕日を撮影できたカメラ


夕日が山に落ちかけると、わずか1分ほどで沈んでしまうようだ。


少し車を走らせると、もう見えなくなっている。


人の一生もあのように、最後はあっけないものだろう。


夕日には、なんとも言えない哀愁が漂う。


極楽浄土のイメージが夕日にある。晴れ王冠2


天に昇った太陽はまともに見ることはできないが、夕日になるとしっかりと見ることができる。


人の最後にも、夕日のように、しっかりと見れる何かが残るだろうか。


元気有り余るときには見えないが、余分なものが全て除かれた境地になれば、最後に根本にあるものが見えるに違いない。


って、一体何がはてなマーク


何かが分からないブタが申しております。ブタあせる


photo:01
容姿、財産、能力、環境、そういったものは誰にでも備わっているわけではなく、全く不公平なものだ。

それらのものを得ようとするのが人の計らいである。

いつでもそれらのものが足りないと思っているのが人だ。

この人の計らいは正しい。

今よりもよくなろう、今よりも多く得ようとすることは、生きることを活気づける。

これとは違って、形に見ることができない気持ち、思い、慈愛、そういったものは誰にでも備わっており、公平である。

だが、形に見ることができないものは、どう意識に持ってこれるかが人によって異なる。

誰でも持っていながら、これを意識に持ってくることが難しい。

その難しさを追求していくのが、人を抜けた道を求める人である。

特別でなければ、何も凄いところがない。

至ってシンプルで、良さも分からないが、そこに形に見えない気持ちがある。

この誰にでも備わった心を生かすことが、人生の醍醐味といってもいいだろう。

これを抜かしたら、何をやっても無機質で、自分が活かされていないと感じるだろう。

誰にでも備わっている慈愛を活かすことはとても難しい。

これが本当の働く人を作り出す。

生きることの大きさは、この無機質から抜け出した、愛するということからしか測れないようだ。

愛することは皆平等に備えたものである。

全ての人は自分が活かされるものを備えている。

クローバーカメクローバーカメクローバーカメあせる
打ち合わせのための出張。

効率が良いときもあれば、すごく効率が悪いときもある。

案件をまとめてやってもらえることは本当にありがたい。

効率があまりよくなく、遠出をするときには、これはほとんど遊び、仕事をしない時間だと思えばいいのだろう。

もちろん仕事に違いないが、書かなければ何も得られない仕事から見れば、書く前の前準備だ。

効率をあまり追求すると、気持ちが窮屈になる。

なるようになる。

できるときにまとめてやればいい。

きつい仕事がたまにあっても、ゆるい仕事に救われることも少なくない。

余計な詮索をせず、やれるようにやっているのが一番幸せなことだ。

よき仕事をするのであれば、自分を見失わず、窮屈にならず、のんびり構えることも必要だろう。

と、愚かなブタが申しております。

ぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーうり坊むかっぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーDASH!DASH!DASH!DASH!DASH!
暑いドンッ

ものすごい暑さだ。

昨日から、エアロバイクを再開したつもりだ。

3日も持たない可能性があるが。

家の2階はサウナみたいな感じになっている。

サウナでのエアロバイクはてなマーク

20分が限度だろう。

毎日やれば多少は中性脂肪が下がっていくかな。

ずうっと中性脂肪が高い状態で、結構ヤバイ爆弾ドクロ

油物が好きではないのに中性脂肪は高い。

甘いものを食べることによって高くなっているのだろう。

アイスは旨いから、手放せないかソフトクリームドンッ

アルコールと食べる量を控えめに。雷ぶーぶー汗
何もないと思える平和な日常にこそ、生きるヒントが隠されている。

よく特別に何かしてやろうと思うものだが、普段と特に変わらない日常に全うに生きる道がある。

普段、普通に生きるということが、修行でもあり、恵まれたことでもある。

そうすると、意識はつまらないと思える日常を照らし、つまらないと思える日常にこそ修行の道があると思えるようになる。

僧侶の修行は主婦の毎日と変わりなく(BS番組で住職が言っていた。)、人生の修行は毎日の仕事とも変わりがない。

どんな人にとってみても、その日その日を生きることが修行となっている。

そう思うと、特別に何かをしなくても、十分に満たされるのであり、すでに修行の道を歩んでいる。

先を案ぜず、今のままで生きる目的を果たしていると思えば、憂いなど消えていることだろう。

小さな欲に生き、小さな楽しみを感じるだけで、目的を果たしているというのは、本当に恵まれたことだ。

生きる目的からは、欲も楽しみも決して退けられない。

そのままでも、普段のままでも、寂しくもなく、不満もなく、不快もない、そんな浄土の近くに住んでいるのではないだろうか。

ベル音譜ベル音譜ベルビックリマークベル音譜ベル音譜 王冠2 天使くもり
家の中で彫刻したり、テレビ見たりして、普段のことを忘れて、何の計画性もない、まったりした時間はいいね~。

BSの番組はゆったりしていていい。

それで眠くなったときに眠る。

昨日は屋内プールに行ったが、あまりの猛暑にものすごい人だった。晴れ波

出掛けると結構疲れる。ショック!

まったりした感じが、体にも頭にもいいようだ。ぐぅぐぅ

まったりしているのと、どこかに出掛けるのとでは、腰の痛さがかなり変わるようだ。

それよりも肉体労働をほとんどしなかった今週は、腰の痛みがかなりなくなっている。ブタ音譜

かわいい仏像彫刻を再開したためか、体の調子が少し戻ってきた。カメ足あと

農家といえば肉体労働。



昔はもっと多くの家が少なからず肉体労働をしていたに違いない。



肉体労働という言い方は違って、体を張った真の労働というところだろうか。



生きていくための労働であるが、人工的でなく何か自然な感じの労働だ。



家族のために働く、家族一弾となって生きる昭和の時代。



我々のような知識労働者では通用しないのが体を張った労働であろうか。



休日に少し野良仕事をするだけで腰が痛くなる私には不可能なことだ。



働き方の変遷が、働く意識から人を遠ざけてしまったのかもしれない。



机の前に座って何かを書いているような労働が、果たして真の労働といえるだろうか。



我々は益々仮想世界の住民として、働く意識をどこかへ置き去りにしていく。



真の働く意識は人を支えることにあり、何かを売りつけるようなことにはない。



知識労働者が働くことを収益の対象に置き換えてしまったのかもしれない。



我々のような使い物にならない者が、働く意識を収益の対象に変えてしまったのだろう。



考え方を偏重すれば、使い物にならない者が益々増えていく。



考えに足らないような考え方を固持しようとするから、益々使い物にならない者となる。



そういう生き方なのかな。ドクロクローバードクロクローバードクロクローバー  おやしらず音譜

働くことの楽しさを求める若年。

働くことのつまらなさを悟る中年。

働くことの苦しさを知る老年。

ほとんどの時間が仕事に制約される者にとってみれば、働くことはこのように変遷していくだろうか。

楽しさがあると信じているのが若年であるが、あるときからどんなことでもつまらないものだと気づく。

それは逃げ出すためのつまらなさでもなく、むしろ継続するためのつまらなさだ。

このつまらなさを感じるようにならなければ、まだまだ気は移ろいやすく一定していないことだろう。

つまらないことと言い切れるところに安定感がある。

仕事、社会、自分のあり方に納得してのことだろう。

つまらなさを理解すると、それがありがたさに変わる。

つまらないことと自覚しながら継続できることに、また、つまらないことで成り立つということにありがたさを感じる。

社会はつまらないことを大切にしているということに気づく。

どんなことでも、どんな人でも、つまらないものには変わりがない。

人はそれをいかに装飾して、楽しみであるかのように見せかける。

こうした見せかけが起爆剤となって、社会を牽引していくことにもなるだろう。

その一方で、人を装飾せず、つまらないものをそのまま受け入れることも必要だ。

人を装飾しようとするあまり、つまらないという安定感を壊そうとすることになるからだ。

存在を肯定することと共に、存在を否定することも同時に持ち合わせなければ、装飾した自分に惑わされることになる。

つまらなさを悟る中年には、安定したパワーが生まれることになるだろう。

その後の老年はよく分からないところだ。

つまらなさを突き抜けて、生きるという行為自体に一体化できるだろうか。

これができなければ、苦しさのみを知ることになるのではないだろうか。

そういう風に働くことの意識が変わっていくのかな。

ぶーぶー汗DASH! オバケオバケオバケドクロドンッ
最近?では面白い習い事もあるようだ。

子供(小学生)向けの茶道教室。

子供のうちから習って意味があるかは分からないが、集団行動の一つとして作法を習うという意味はあるあろう。

子供にしてみれば、茶菓子が出るのが楽しみということがあるようだ。

学習塾に通う子も結構いるようだが、それよりは風情があっていいかな?

本人がやりたいという気持ちを生かしてやることも大事か。

意外と月謝が高いが、習い事と考えればそんなものかという感じだ。

友達がやっているからやりたいというのは、確かにあるだろう。女の子お茶お団子アップ