庭が完成し、あとは車庫の塗装及び整理が残されたというところか。



あいにく庭の写真のアップは控えることになった爆弾宝石白



自慢してもしょうがないので・・・・・・。



かなりいい感じに工事をやってもらい、趣味で飾り付けをしたのだが。





時間があると思えてくると、どこかに出掛けたいと思えるものだ。



最近買った自転車で、子どもと一緒にサイクリングにでも出掛けるか。



奈良、京都の風情はいいなぁ。



最近、BSテレビの日本風景、古寺巡礼などの番組をよく見る。



そういう年齢になってきたかなぁ。汗



何もせずにはいられないのが人だ。



何もしていないと何か取り残されたような感じになる。



何もしないと思える中に、自分を見るというのが落ち着きであるか。



しかし、何もしないよりも何かをする中で、自分を見る方がやりやすいようだ。



悪あがきをするように。カエルカエルカエルカエルカエルカエルあせる



庭には一体何匹のカエルがいるだろう!?



久々に石のカエルたちの登場だ!!

職業と人は如何に関連するか。

人は職業を選び、職業は人をつくる。

人が職業をつくり、職業が人を育てる。

如何にも職業がその人を表すかのようだ。

職業を除いてその人を見ることはできないのだろうか。

職業によって自らを固定していくかのようである。

一生の長い時間を費やす職業はその人の性格をつくるかのようだ。

職業を伴わなければ、何ら認められないかのようにも見える。

職業を越えたところで活動することや、主張することは、嘘のような何か偽物のように見えてしまう。


しかし、本物は、職業の枠を越えたところにあると思う。


職業とその人とは本来は関係がないからだ。


職業は、人をお金儲けの手段として見るものである。


あいにく、職業人としての自分は人を収益の対象と見ないわけには行かず、自分は収益のための道具として見られないわけには行かない。


職業からは損得勘定を切り離すことができない。


だからこそ、職業を越えて行う活動には意味があり、そこにこそ本物があると言える。


職業とするならば、何事も収益に繋がらなければ成り立たないからだ。


真のその人は、職業から離れたところに置かれて当然だろう。


しかし、職業を離れた活動をすることは難しい。


時間もなければ、コネもなく、ましてや想像しているだけに留まるからだ。


こうした現状において、人から職業を取ったら何が残るだろうか。


砂時計ビル走る人  ブタ汗

誰でも社会人としての価値が身につくようになってこれば、自分が大した価値を持っていないことに気づくだろう。

自分が価値ある人間だと思うのは自惚れである。

ここで言う価値とは働き手としての価値のことであり、生きる人としての価値のことではない。

大した価値を持っていないことに気づくから、何事にも必死になれるのではないか。

自分をちっぽけであると思っているから、努力しようと思えるのではないか。

自分をちっぽけだと思えば、いたずらに作為を持つことも忘れるだろう。

そもそも価値とは何であるかが分からないままだ。

通常、我々が価値あると思っていることは作為によって思い込んだことである。

人に、動物を超える大した価値などない。

だが、価値がないと思うからこそ、自らを投げ捨てる気持ちも生じるのではないか。

中途半端に価値ある者になろうとするから、価値によって封じ込められる。

自らを解放するものは、価値なきことを認める自己否定に他ならない。

自己否定するほどの大きなものに気づけるかどうかである。

そこに動物を超えた人の価値が生まれる。

ほとんど価値など持たないことばかりだ。

価値を捨てて、無作為に見えるほどに生きられれば、自ずと価値あるものが身に付くかもしれない。

人は食べて喋って寝るブタと言っても大して違わない。

そのブタが価値あるものになるには、作為に偏らず、無作為にも偏らない生き方をすることにあるのではないか。

と、食べ過ぎのブタブタが申しております。

ぶーぶーあせるうり坊DASH!ぶーぶーあせるうり坊DASH!ぶーぶーあせるうり坊DASH!ぶーぶーぐぅぐぅうり坊汗ぶーぶーぐぅぐぅうり坊ぐぅぐぅ

旨い、旨い!!と思いつつ、貰ったひやむぎラーメンを食べ過ぎてしまった爆弾


自分の食べる量を制限できない、自分の食べられる量を分かっていない。


食べている時はいいのだが、後から腹が痛くなる。ショック!


何とも情けないことである。ガックリ


脳と体が分離している証拠だろう。


食べたい、という脳の一時の感情に引きつられ、内臓のもういい、という声が分からない。


だから、後になって内蔵が傷む。


こうして、脳の刺激を活発化させることによって、自らを破滅の道へと誘う。


人生とはそういうものであろう。


嬉しさの感情に興奮し、必要以上のことをついついやってしまう。


それで、見えなかった部分を痛みつけ、気づけば病と化すこともある。


自分が見えないのが人であろう。


脳と体の連系が取れていなかったりするのだ。


我が身を滅ぼしてしまう典型的なパターンだ。


それにしても旨いものは旨いビール割り箸


だから、身を滅ぼしてでも食べつくそうと言うのが、人の生き方であろう。ブタ


その時だけ満たされればよい、というのも確かにある。


食べたいと思う時に、食べたいだけ食べるというのも、見方によっては自然であるとも思えるだろう。霧


内臓に悪いから、寿命を延ばしたいからという思いを巡らせるのは、意図があってのことだ。得意げ


だが、制限を解除して馬鹿に生きるということが、欲望の虜になるという意味であってはならないはずだ。


だから、自分を分かっていれば、食べ過ぎることもなくなる。


自分が見えない無明さから訪れる、食欲の塊。


これが生きるブタという証拠かはてなマークはてなマーク


ドンッ ぶーぶー ぶーぶー ぶーぶー DASH! ドンッ

自分は何のために生まれ、何のために生きているのか。


それを感じとるところから始まる。


自分というものを意識するのは考える時であるが、嬉しくも悲しくもない自然な状態において、一体自分は何のために生きているのか分からないものだ。


ただ言えることは、親から生まれてきたのが事実であり、また自分も親になるという事実である。


それは人の思考を超えたものであり、気が付けばそうなっているという事実である。


一体どこに目的地があるものか。


もともと目的地というものは設定されていない。


思い込みによって目的地があるかのように見せ付ける。


親が居たから生まれるのであって、子が居るから生かされる。


自然に任せるということは、自分がそれほど重要でなくなるとも言えるのだろう。


しかし、自然に任せることによって人が本来持っている力も発揮されるはずだ。


自然になれば、理由はどうでもよくなってしまうのだろう。


理由は分からなくても、そこに居るという事実がある。


自分の考えが及ぶ範囲は狭いものだ。


自分でもよく分からないところで世界は創られている。


星空あじさいあじさいあじさい星空 お月様

大きなお金が出て行く一方で、小さなお金が転がり込んでくる。


家の庭などで大きな出費がある一方で、不要品を売ったり、ハイム実邸見学などで小さな収入が沢山ある。


大きなお金は仕事でしか稼ぐことができないが、そのお金はどちらかと言うと、あって当たり前のもののように捉えてしまう。


これに対して、小さなお金は、その時々のお小遣いになるので、意外と嬉しいものだ。¥


小さなお宝で言うと、例えば、真鍮(銅)を使ったバルブなどは、kg当たり430円で買い取って貰えた。


家電線などは、kg当たり200円で買い取って貰えた。


それなりに量があると、結構なお小遣いになる。


まだ、ステンレスや鉄が結構残っているから、整理すればバイト代が出る感じだ走る人
食べ過ぎになると分かっていながら食べ過ぎてしまう。

食後のデザートはそういうものだ。

口触りがよく美味しい。

これがなければ食事の締め括りはないかのようだ。

腹八分目までを越えてしまい、腹十分目までいってしまう。ぶーぶー爆弾

これが生きるブタとしての定めであろうか。

食べることに執着し、食べなければ損だと思ってしまう。

それで後から腹が痛くなる。

全くもって愚かなブタがそこに存在するわけだ。ブタDASH!

デザートは癖になるから、これまたタチが悪いのだろう。

体重は増加し、中性脂肪、血糖値が上がりそうだ。

ところが不思議なことに血圧が下がっている。

甘いものは血圧を下げるものなのか、それとも普段の生活に落ち着きができたからなのか。

頭に血が昇るようなプレッシャーを自分に掛けなければ、怒ることもなく、血圧も下がるのかもしれない。

プレッシャー、これが一番厄介な存在なのだろう。台風

それがなくなった感じがあれば、血圧は下がるのかも。はてなマークはてなマークはてなマーク(そんなことあるかなドンッ!?
生きることは誰にとっても迷い子になることなのかもしれない。

どこからか、いつの時点からか、自分のやることとして、社会人として職業人たる自分になる。

よき職業人になれる人もあれば、よき職業人になり切れない人もいる。

どこかの時点での選択によって、職業人を目指すことになるわけだが、そもそも職業人である自分は本来の自分を忘れさせる。

いつのまにか職業人たる迷い子になっているようだ。汗

人の人生で、迷い子にならないことはないかのようだ。

誰しも迷い子となることだろう。パンダ

誰しも本当の自分など分かってはいない。夜の街

分からないまま、迷い子のまま一生を終えていく。キラキラ

それが人の定めであるかのように。

職業人から離れれば真の自分に近づくとも思えそうだ。

そのためには、ただ離れるだけであってもならない。

本当の自分の正体は迷い子であって、決して分かるはずがないものだ。くもり

だから追い求めても何も得られず、見れば見るほど何もないことに気づく。ひらめき電球

人は迷い子として生きることを強いられている。

どのような行いの中にも迷い子たる精神を捨て去ることができない。

いつでも、迷っていながら迷っている自分を打ち消そうとする。

自己否定から入らなければ、いかにも思うままのように見えるが、思うままであるためには、何もない精神が必要になる。

迷い子でない自分を演出したくなる。クマ

その演出は自然なものであれば痛まないが、自然でなければ痛々しいものである。霧雷

結局は迷い子たる自己否定を除いては、自己肯定も生まれなくなる。

何とも不思議な存在が人であり、人から不思議を除いてしまっては何も残らないだろう。

宇宙人流れ星宇宙人流れ星宇宙人流れ星 みずがめ座うお座 宇宙人流れ星宇宙人流れ星宇宙人流れ星
男であっても女であっても、かっこよかったり、かわいかったりする人が、結婚せずに残っていることが多い気がする。

ちょっと不格好な方が結婚できたりするのかも。

人の楽しみは家族をつくることにあれば、子供を育てることにもある。

独身のままでも楽しみはあるだろうが、本当の楽しみは苦労することにあったりする。

運よく結婚できた組にとってみれば、家族を養うことや子育ては大変なことだと思う。

だが、これをなくしては何も楽しみは残らないだろう。

人が今の資本主義社会で働き続けるには、楽しみ以上に苦労が多いだろう。

この苦労は、生活するためであり、養うためであり、自己形成のためだ。

社会のためになることもあるだろう。

しかし、どんな仕事も基本は生活するためにあり、本当の自己を形成するためのものとはならない。

仕事はあくまでも収入が得られることを前提とした手段である。

その手段のために多大な時間を割き、多大な労働をする。

仕事が手段である以上、そこから形成される自分は手段以上のものにはならない。

そんなことを分かっていながら、働かないと言う選択はない。

苦労するために働くことを止めることはない。

独身でいると何のための苦労か分からなくなってしまうだろう。

だから家族になるという意味は、自己を形成することでもあるし、苦労を背負うことでもある。

苦労を苦労と感じなくなることも大事だ。

不運に独身でいる人には頑張って欲しい。

たまたま機会に恵まれていないだけだ。

苦労を背負う覚悟ができれば独身はおさらばだ。

おやしらずおやしらずおやしらず 天使キラキラ天使キラキラ天使キラキラ おやしらずおやしらずおやしらず
ちょっと頑張ると、腰の痛さや眠さに引っ張られる。

こういう状態も至って自然なことであるかもしれない。

長い時間座り続ければ腰が痛くなる。

寝ていても起きたときには腰が痛くなる。

痛みとともに眠さもやって来る。

逃れることができないかのようだ。

この痛みと眠さに対処する方法は一つ。

どうしても眠くなったときに少しの時間眠る。

そして痛みと眠さを忘れる。

生きていくことは楽しさであるとともに苦しみである。

痛みと眠さと戦いながら、仕事のために座り続ける。

座っていることの苦痛さから解放されることはない。

眠さを覚ますには、ネットを使って興味本意に気晴らしをするしかないようだ。ブタ汗ぐぅぐぅぐぅぐぅぐぅぐぅひらめき電球