悟りを得ようと仏を拝んでも、悟りを得ることは難しい。

仏は生きる者、生きた者の心にある。

生んでくれたありがたさと、生まれてくれたありがたさを思うときに仏は存在する。

仏とは生きる者へ向けた暖かい感情だ。

空を強調するが、空は生きる者の中にある。

生きることでしかありがたさの感情を持つこともできない。

生きることが仏を示す。

人はいつも本当には生きられない。

やらなければいけないこと、やれなかったこと、やろうとしないことなどのいろんな感情によって、生きることは遮られる。

全く情けないことだ。

人として生きていくと、弱っていく体、痛んでくる体と格闘することになる。

痛みとは切っても切れない縁となっている。

頑張るほどに痛みも強くなり、頑張らなければ何もできない。

痛みから解放されるために仏を思い起こす。

痛みから解放するものは和みであり、感情であり、感謝である。

生まれたありがたさを感じる、あるいは好奇心が生まれれば、一時だけ痛みを忘れることができる。

痛みを忘れられるときが今を生かせてくれる。

生まれ持つ仏の心を忘れるべからず。宝石紫王冠2宝石紫

昨日は、木曽三川公園に行った後は、最近お約束の食堂へお団子


ちなみに、食堂と言ってもプレハブで作られた簡易食堂ラーメン


お目当ては、お決まりのみたらし団子とフライドポテトだビール


みたらし団子は2本150円、フライドポテトは150円と、どちらも安い。


子どもからのリクエストだ音譜


というか、言いだしっぺはいつも父ちゃんで、父ちゃんが喜んでいるのだが!?


家の近くに建物があるので、自転車ですぐに行ける。自転車


どこにもお出かけしなくて、家の周りの作業をした後の一腹とでも言うところか。お茶



昨日は、畑に生ったびわ取りを再開した。オレンジ


バケツに3杯ほど、相当の量だ。オレンジオレンジオレンジドンッ


消費し切れないので、お寺さんを含め近所の家に分散した。走る人


まだ、畑に生っている。霧


びわジャムを作ってもらうと、かなり旨い。グッド!


ジャムと言うよりも、びわのコンポートって感じで結構イケル。


来週、最後の収穫といくかさくらんぼ走る人

インターネットの普及、スマートフォンの普及によっていろんな人との関係を容易に作れるようになった。

この関係には、濃いものも薄いものも様々だが、我々の生き方にどう影響するだろうか。

一つには、会いたくても会えなかったり、本当に連絡の必要がある人との関係は良好になる。

連絡を取ることが簡単になったからだ。

だが他の面から見ると、退屈凌ぎ、寂しさ凌ぎ、あるいは暇潰しのために仮想世界を歩くことにもなる。

まるでストレスの発散場所のように仮想世界が利用されるとおかしなことになってきそうだ。

まず人として五感を作用させる感覚が薄れてしまう。

仮想世界はあくまでも仮想世界なので、自分とは関係のない自分になってしまうこともできる。

いろんな成りすましなどもできる。

仮想世界にも当然感情を移入することになるが、それが現実と離れたものになると、現実世界を歪めてしまう。

現実世界は五感でもって対処する世界であり、仮想世界では、頭でもってのみ対処する世界となってしまう。

現実世界において大切なことはもちろん、頭で対処することではなく、心で対処することだ。

しかし、人としての思いは、口に出して言うのは難しく、文章に置き換えて言う方が伝わりやすい。

文章にすると、よほど普段から意識していない限り、思っていることが間違って伝わってしまうことも少なくない。

仮想世界には表現の自由と言うメリットがある一方で、表現に惑わされると言うデメリットもある。

仮想世界を生きる鍵は表現の仕方にあるようだ。

この表現の仕方を誤れば、あるいは意識しなければ、人にとってより住みにくい社会が形成されてしまうことになりかねない。

顔が見えない相手には何を言っても平気だと言う感覚を作ってしまうと、仮想世界と現実世界とは繋がっているので、現実世界をも歪めてしまうだろう。

我々に問われているのは、表現の仕方であり、伝え方である。パソコンロボットパソコンロボットあせるあせる


自分に中身があると思っていても、周辺を取り除いた自分に一体何が残るだろうか。

中身があると思っているのは、中身ではなく周辺のことである。

関わり合う人との関係、物との関係、立場との関係、それらは皆周辺のことにあれば、中身ではない。

中身を見ようとすると空であることに気づくはずだ。

人も動物、元々中身は空である。

そこに中身があるように関係を作っていくが、関係は自分自身ではない。

自分という眼を持つとき、あたかも他人と自分を区別し、自分は良い意味でも悪い意味でも特別であると思っている。

それが人の限界であるかもしれない。

区別しないことには何らの文化も生じ得ない。

区別することによって人らしくなる。

そんな人であることは、中身が空であることを忘れ、あたかも中身のある自分が存在するかのように振る舞う。

思うことを進めれば、空であることの効用に気づく。

空であることは周辺を寄せ付けるための器となる。

中身はどこにあるのか。星空流れ星
台風が見事に不発に終わってくれて、今日はなんと暑い日だったか。

こんな日は特に部屋のなかで仕事をできることが嬉しい。

やり残していることの多さに気づく。

人生は何とも短いことを、ふと思う。

短いからやり残しが生じるように見える。

だが、やることもやり残すことも最初からないと思えば、人生の短いことを思うこともなくなる。

誰でも責任を果たしながら生きることになるが、責任を強調する必要もない。

それが必要なことであれば、責任を感じることなく、自然になされるであろう。

人が自然であるためには、思う時間を持つことにある。

考える時間ではない。

考える時間は人を自然から離れさせ、責任を強調する。

考える時間は小手先の成功を掴もうとする。

思う時間は成功も失敗も同じものだと捉える。

思う時間は穏やかになり、考える時間は厳しくなる。

考える時間が長いから、思う時間がなくなり、考える時間を持たないから、思う時間も持てない。

考える時間と思う時間とは、同じように見えて、違いがある。

それは意識することとしないことの差のようにも見え、建前と本音との差のようにも見え、外側と中心との差のようにも見える。

考えることを強調することなく責任を果たし、思うことに集中して穏やかに生きる。

そんな感じだろうか。カエルあせるカエルあせるカエルあせる雨
怒りと同じように疲れもその人を覆い隠す。

疲れは脳の働きを弱め、想像することからその人を遠ざける。

疲れは肉体的にも精神的にも起こる。

肉体的な疲れからの回復は早いが、精神的な疲れからの回復は遅い。

ダメージが小さいときに回復を図る。

疲れはやりきったときにも訪れるが、やりきらなかったときにも訪れる。

疲れは人にとって本質的なものである。

年をとるごとに疲れることも多いだろう。

年をとるごとに増すのは肉体的な疲れだ。

年をとるごとに精神的な疲れが増さないようにメンテナンスしたい。

人は年をとるごとに精神的な疲れは減っていくよう生きることが望ましい。

年をとるごとに精神的な疲れが増すのであれば、生き方に問題がある。

年をとるごとに、ものの見方、考え方、感じ方を変えていけばよい。

これをいつまでも変えずに居いると、精神的なダメージを受けることがある。

肉体的なダメージは生きていれば必ず受ける。

疲れを肉体的なものだけに抑えていけば、表面的には疲れても、内面は疲れにくい。

疲れとどう付き合うかが人生の課題と言っても問題なさそうだ。

人は疲れるために生きている。

されど人は疲れに飲み込まれるために生きているのではない。

疲れとの付き合い方が肝心だ。

アップカエルダウン流れ星アップカエルダウン流れ星アップカエルダウン流れ星アップカエルダウン流れ星アップカエルダウン流れ星
本音と建前、善い自分と悪い自分、気にしたいことと気にしたくないこと、見せたい自分と見せたくない自分。

そういった相反する自分が誰にでも存在する。

普段は理性によって温厚であっても、一歩違えば本能によって冷酷であるかもしれない。

本能は咄嗟の怒りとして姿を現す。

怒りほど恐ろしいものはない。

怒りは全てを飲み込んでしまう。

怒りを制することが自分を制することにもなろう。

亡くなっていった先人たちは、何を教えてくれるのか。

それを想像しなければ、人というもの、何を思えばよいのか分からなくなる。

中心がなくなってしまうのだ。

怒りによって中心は覆い隠される。

怒りを捨てて中心を思い起こす。

それでも怒りは捨てきれない。

怒りが本当にその人を表すのだろうか。

怒りは突如訪れて、突如去る。

怒りはその人ではない。オバケドンッドンッドンッ
石、石、石宝石ブルー宝石緑宝石赤宝石紫宝石白

庭の石の工事が大分進んだ。家

今は石のことばかり考えている。

車庫の整理もまだ終わらない。

砂利運びはあと少しだ。

家の周りのやることが多すぎる。

これでも相当片付いた。

石は面白い。メラメラ

庭も凝ると面白い。クローバー

それとは別に、20年ぶりにゲームに嵌まってしまったロボット

IPAD-miniでやるガンダムのゲームだ爆弾

アラフォー親父の定めかモグラ
家の庭工事が始まってから、どのように石を置けばかっこいいか考えた。

だが、やはりプロの石屋さんがいいと思うようにやってもらうのがベストのようだ。

リビングの窓の前にデッキを置こうかとも思っていたが、邪魔になるとの考えに変わり、止めた。

デッキを置く代わりに石畳の面積を拡大し、石のベンチを置いた方がかっこよさそうだ。

それから、家と家の渡り部分に中途半端な屋根を付けることも、とりあえず止めた。

受注生産の通路屋根になり、かなり割高な見積もりだったからだ。

それにしても相当な量の石板を使うため(130平米ぐらいはあるか。)、近くではあまり見かけない相当な庭になりそうだ。家宝石白宝石緑宝石白

最近は、価値観の変化より、庭にお金を掛ける人は少なくなったようだ。

私も元々は庭にできるだけお金をかけないように考えていたが、気づいてみれば大分と凝った庭になりそうだ。

芝と木と花+草の庭から、石と砂利と少ない木の庭に生まれ変わる。クローバー宝石ブルー

石板の上に車が載るため、石が欠けないかの心配は若干残る。

ノミ切りの石板は、意図的に表裏方向に台形状になるようにカットされているようだから。

中国産の安い石板であるためか、錆(茶色)の石板は色に違いがあったりもして。

白の石板の方が、色のばらつきはないようだ。

完成には、まだしばらくかかりそうだ。

宝石紫宝石白宝石白宝石白宝石紫宝石白宝石白宝石白宝石紫宝石白宝石白宝石白宝石紫ベル