納期に間に合わせるために必死に仕事をした後は瞬間的には爽快だ。あせる

これが働くということだ、という実感が持てる。走る人メラメラ

だが、あくまでも働く自分は、自分ではない客観的なものであって、実際の自分とは関係のないものだ。

そこのところを履き違えると、おかしなことが起こってくる。

高慢になったり、苛立ったり、といった現象である。

働く自分は、真の自分とは異なる。

このことを分かっていれば、社会人として生きていくことが若干楽になる。天使

言うならば、我々はいつも生活のため?に真の自分を働く自分に置き換えている。ロボット

働くことはその人にとっての人生観やプライドをつくるものであるが、そういったことは真の自分とは何の関わりもないことだ。ナゾの人

働くことによって自分をつくるように思えて、働くことによって自分を見失っているということもできる。星空

真の自分とは生きることに真っ直ぐで、何かの成果を出すためのものでもない。いて座

真の自分は、人生観やプライドや能力とは無関係のものだ。宇宙人

ここのところを理解すれば、働くことに腹が立ったり、他者との比較に腹が立ったりすることがなくなる。クラッカー

一番大事なものは言うまでもなく、生きることに真っ直ぐな真の自分であるはずである。カエル

ところが、そこのところが見えなくなってしまうから、妙なストレスを感じることになってしまう。オバケ

真の自分があれば、他はどうでもいいと言っているようにも見えるが、そうではない。ドンッ

真の自分があれば、働くことも充実させることができる。UFO宇宙人

この微妙な関係が成果に繋がっていくような気がする。クローバークローバークローバークローバー






私たちは何かを得たときなどには、先がパッと明るくなるような気がして、外に出ていこうと思うものだ。

外に出ていくのは、自己の発散であり、現状に満足していないからだとも言える。

仲間をつくりたいと思うことは本能的なことだろう。

それと同時に関わりたくないものからは目と遠ざけようとする。

関わりとは、同趣(同種)の集まりという程度であろうか。

類は友を呼ぶとの言葉が示す通り、同趣でない集まりには参加しにくいものだ。

私たちの趣味は狭く限られた範囲のものに留まる。

この狭い範囲から抜けて、仲間をつくることは難しいことだ。

外に出ていかなければ新たな刺激が得られないのは事実だ。

人を刺激と反応を繰り返す生き物だと思えば、新たな刺激がなくなることは死活問題となる。

だが、人を刺激とは無関係な安定した生き物だと思えば、新たな刺激は気休めの程度にしかならない。

刺激と反応を繰り返すことこそが活性化された生であり、刺激と無関係なものは化石のような死とも思える。

人は生であることを望み、死であることを恐れる。

刺激と無関係になれば、死が連想されるのだろう。

ならば、ひたすらに生を求めて行けるかと言えばそうでもない。

生を求めても、死から切り離されることはない。

死を忘れるために生を求めても、本当の生は浮かばれない。

生を求めることは、真理から遠ざかって、自らを盲目の状態に置くことにもなる。

光と闇があれば、動と静があり、生と死がある。

こうして新たな刺激を求めるだけでなく、刺激を求めないことも望めるようになれば、どれだけかの安らぎは得られよう。

生は死があって初めて生かされ、動は静があって初めて生かされる。

人が生きるということは、気持ちの持ち方だけであり、気持ちには中身が何もない。

気持ちというものは、どこかで生じてどこかで消えていくものだからだ。

中身があると思っていることは、気持ちを拘束して、中身があるものと思い込んだことにすぎない。

果てしない繰り返しの中に生きる。かたつむり雨
半分眠っているようなそんな日だった。ぐぅぐぅ

眠く集中力が切れそうになると、何か興味あることを思い、目を覚ます。

新しいものに目を引かれるが、そこには本当に必要なものなどない。

本当に必要なものは自分のなかに眠っている。

その眠りから少しだけ覚めるとき、何とも言えないありがたさと、何とも言えない安心感を感ずる。

人が人として生きるために、少しだけ覚醒して生きるために、身の回りにある「もの」に囚われないようにすることが必要だ。

さもすれば、世間の噂、世間の愚痴に呑み込まれてしまっている。

いたずらに頑張れば頑張るほど、あるいは怠ければ怠けるほど、本来がどういう姿なのかが分からなくなる。

都合のいいように世間を見る。

それは皆が流されるルールであるから、常識とされる。

常識とされることには、さほどの意味はない。

毎日やっていることはほとんど意味のないことだ。

意味のないことであるから、人は人として生きる。

意味のあることを求める必要はない。

意味というものは人が作り出した感覚にすぎず、感覚は変わり行く。

意味を作るために右往左往しているのが人だ。砂時計
土曜日の肉体労働でかなり疲れたが、大分元に戻ってきたようだ。

肉体を使って何かをすると、その時はいいのだが、しばらくの間、頭にも疲れが来て何もできなくなる感じだ。

車庫内の使わなくなった機械や、不要な電線や、いろいろ買い取ってもらって¥をゲッツ!!

一番多かったのがステンレスだが、これは相当な¥になった。

面白いことに、金属や電線はかなりの単価で買い取って貰えるが、古い機械はかなり微妙だ。

鉄としてスクラップに出すのとほとんど変わらない。

買い取りもいろんなものがあって、家庭で出るものはリサイクル料金が発生するものを除いて、ほとんど買い取って貰える。

不用品回収屋がエアコンなどを回収する意味がよくわかった。

1kg当たり~円で買い取って貰えるから、重いものは結構¥になる。

明日になれば、この疲れから解放されるだろうか。カエル
遂に、というかようやくスマートフォンIS01を新しくして、iPHONE5に変更した。

IS01のキーボードにはかなり活躍してもらった。

今さらキーボードからは離れることができない状態だ。

IS01はWi-Fi専用機として使用するが、iPhoneがテザリングを行う機種として認めてくれない。ドンッパンチ!

まことに残念だが、家でしかインターネットに繋ぐことができない。

0円でゲッツしたiPAD-miniとIS01の使い分けになりそうだ。

いつもの木曽三川公園霧

家族4人、自転車でお散歩自転車DASH!自転車DASH!自転車あせる自転車汗

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ぼんやり昼間に仕事をしていたら、夕方に急きょやることができてダッシュ走る人あせる

ありがたいことに非常にやり易い案件なので、ダッシュすればできた。

お金をもらって早く片付けられることはありがたいことだ。

急ぎのときになって、急に目が覚め、頭が冴えるものだ。

やっぱり人には、信頼されることと程好いプレッシャーが必要だ。

特に仕事に関しては。

いつもダッシュはできないが、たまにダッシュをするのは心地よい。

仕事にはダッシュして間に合ったが、電車にはダッシュして遅れた。ドンッ

ダッシュして電車に乗れないショックはそれなりにある。

でも16分後に次の電車が来たのでよかった合格

30分待ちかと思ったので汗

明日は野暮用でこれまた忙しいあせる
人には人らしい本能が必要だ。

人は学習して理性で本能を抑えるようになる。

本能には自己中心的な醜い面も存在するが、それだけではなく、愛や慈しみも本能のひとつである。

本能は計画的でなく意図するものでもなく、自然に沸き上がる感覚だ。

長く本能から離れると、何が本能で何が理性なのかよく分からなくなっているだろう。

実際には、衣食住が一番の本能になって一番の理性になる。

それだけでもほとんどの本能を満たせそうだ。

だが、それではどうしても満たされない愛や慈しみの本能は、形を変えてでも人に現れ、人を戸惑わせる。

愛や慈しみの本能は、人の思考を一歩超えた安定した境地から訪れる。

そのための霊性とでもいうものを養うのが生きるということだ。

行き着くところは、良き本能と一体化することにある。

それが自然であって、人を苦しみから解放させる成り行きだ。

無理せずに、その境地に至れるように生きていることが心地よい。天使キラキラチューリップ黄 霧くもり
世の中、情報社会と言われながら、本当に欲しい情報なんてあるのだろうか。

情報の裏には人の意図がある。

人の意図があるから情報となる。

情報を追い求めると、必要なことが見えなくなる。

必要なことは自分が一番よく知っている。

本当に必要な情報は、先入観を捨てて、自分を捨てたときにやって来る。

今まで気づいていなかったことを他人から教わるときだ。

情報とは気づきであると言えるだろう。

そして、成功させる鍵は情報ではなく、意志や気持ちにある。

気づきに基づいて、ひた向きになるしかない。カメあせる テレビ音譜
この二日間は、これまた忙しい日に。

家の庭工事は座敷前と目隠し格子の石が出来上がったが、石張り工事がこれからだ。

梅雨前に終わって欲しいと思っていたが、どうやらちょっと難しそうな状態だ。

家の正面側にお金を掛けるので、家の裏側はできるだけ安く、防草シート+砂利だけの工事だ。

少しでも金額を下げるために、自分達で何往復もして砂利を運んでいる。

体力の限界まで作業だ。ドンッ

それからずうっと放置してある車庫の整理も。

二束三文で機械類を引き取ってもらう。

それにまだ、読むことのない専門書を買い取りに出したり、車庫のペンキ塗りがあったり、畑の防草シート敷きがあったり、まだまだだ。

えら~い(疲れる~)爆弾走る人汗

疲れたと思うのは、本音に逆らい建前を通さねばならないときだろう。


仕事にしても遊びにしても同じだ。


本音で居られるときには疲れを感じない。


生きていくためには、やらなければならないことがある。


それが仕事であろうが家事であろうが野暮用であろうが同じことだ。


いつでも本音で居られると言っても、建前がなければやっていけないのが社会における共同生活だ。


だから、人は建前を大事にし、本音を忘れていくこともある。


しかし、醜い本音を忘れてもいいが、快い本音を忘れてしまうと、疲れやすい人になってしまう。


働くことが生きることであれば、生きることを本音に近づければ、働くことも本音に近づいてくる。


そんな感じで生きていたいね。ドクロ音譜ヒヨコ音譜かたつむり雨