人とは、ただ生きるだけにもの足らず、考えなくてもいいようなことまで考えてしまうものだ。
人は、働いて、食べて、寝て、ということだけでは足りないと感じている。
どうして人は自然から離れて、不思議なまでにも密集して生きるのだろうか。
普段、当たり前に思っていることは冷静になってみると不思議である。
過疎地には家を建てられず、住む選択肢が計画された場所に絞られているからであろう。
人は自然を忘れ、命を忘れ、一体何になろうとしているのだろうか。
ただ生きることに必死であるとも言えるだろうが、それは働いて、食べて、寝てというサイクルを意味するのだろうか。
人は単純なサイクルを望むのではなく、突発的な躍動や歓喜を望む。
人はそのことを最も重視する。
だから主観的な幸せから遠退いてしまうとも言えるのだろう。
主観的な幸せは極めて単純なことからの方が得られやすい。
人は生きるための最小限の事柄を得るだけで幸せを感じられる。
その幸せは何処にも行くことはないが、遠く忘れられて何処にもないかのようだ。



サービス。
今までもこれからも、これがキーワードになるのだろう。
サービスの意味には、サービス業という言葉に始まって、サービス残業、値下げのサービス、無償のサービスなどがある。
サービス業は、何も無償のサービスをしている訳ではないが、顧客に喜んでもらえるサービスをするという意味で、無償の付加価値である何かを入れ込んで行くことも必要だろう。
無償で行うから仕事ではないということはできない。
サービス残業であっても、仕事であることには代わりがなく、有給の残業と区別することはできない。
無償で行う仕事も、有償で行う仕事も、どちらも顧客に向けたサービスであるにはかわりがない。
時代は、無償化、値引き等に代表されるサービスの存在を要求している。
このサービスが入らない考え方であれば、競争に負け、淘汰される運命にあろうか。
働けるということは非常にありがたいことである。
このありがたさを維持したいのであれば、時代の要請でもあるサービスの強化を図らなくてはならない。
会社においてサービス残業が正当化されるということには問題があるだろうが、少なからずサービス精神がない限り働くことを維持して行くことが難しそうだ。
いつ仕事がなくなるかもわからない。
有償、無償を問わず、常に最善を尽くさねば、働くことを維持することは難しいか・・・・・・。

・・・・・・
怒りは持続させると恨みになってしまうが、怒りとして終わらせれば活力にもなる。
怒りは人を眠りから目覚めさせる。
怒りはどのようなところからでも作られる。
怒りを恨みに変えるのではなく、怒りを自分が成長する糧とすればよい。
人はどのような時にでも、平穏を失わず、冷静でいられる能力を持つ。
それを発揮できるのであれば、もはや菩薩の境地に近くなる。
一定の基準を設けるのではなく、基準がないことを基準とする。
そのことはいい加減に見えて、最も合理的である。
本来の合理的という意味を我々は取り違えているようだ。
確定されない何者にも変化できる態度が、最も合理的であるのだろう。
そのことに気づかず、我々は一つの場所に留まり、思い悩む。
そこからは何の変化も生まれない。
人が人として生きることは、簡単そうに見えて難しいことである。





人として生きることは、特別意識を持つことか、仲間意識を持つことかのどちらかに集約されそうだ。
他人とは違う、あるいは他人よりも優れていると思うことによって、自分を勇気付けるのが、特別意識を持つということだろう。
これとは違って、他人と同じであると思うこと、あるいは他人を励ますことによって自分を勇気付けるのが、仲間意識を持つということだろう。
特別意識を持とうとする者は、周囲に左右されず、信念を貫く強さがある。
このタイプが今までの社会で、あるいは今後の社会でも出世することが多いように思う。
何かを初めたり、新しく社会を変えようとするのは特別意識を持つものである。
知的労働者には、特別意識を持つものが多いように思える。
特別意識を持つものが苦手とするのは、特別な何かをできなくなった時である。
また、特別意識は、ある意味他人を見下すことを自分の力に変えるから、競争や孤独に強い。
しかし、特別意識は、その場を和ませることはなく、調和に馴染まない。
特別意識は、無味乾燥した職場、殺伐とした職場を生み出すことになりかねない。
特別意識は、働くことと、人との関係をバランスさせにくい。
一方、仲間意識を持とうとする者には、敵対心がない。
他人も自分も同じ人間であり、人それぞれが独自の活躍ができることを望む。
仲間意識は、平坦で穏和で意欲がないようにも見える。
仲間意識は、特別な何かをやり遂げることを目的とせず、仲間が幸せになることを望む。
特別意識を持つ者も仲間意識を持つ者もどちらも人である。
誰にもある性質だが、そのウェイトが違う。
どちらの意識も持ち、一方に偏らない生き方をするしかないようである。



最近、電車の中でゲームをやっていることが多いので、ブログの更新が少ない



楽しみは考える必要をなくさせ、人を楽観的にさせる。

楽しみは、苦しみを忘れさせ、人の気持ちを軽くする。
人の批判をせず、嫌なことを考えないのは、人生の楽しみを強くする。
人生には楽しみ以上に苦しみがあるが、苦しみを苦しみとして受け取ってしまうと、迷いの道に入ってしまう。
楽しみはどれだけ小さなことからでも作れる。
楽しみは生きることそのものである。
今日一日働けて、食事ができて、風呂に入れて、寝ることができる。
それだけのことが生きる楽しみになる。
休日に遊べることを想像すれば、楽しみが強くなり、生きる有り難さと生きる喜びが生まれる。

楽しみは小さなことでよい。
大きな楽しみは一時的なものだが、小さな楽しみは毎日のことだ。
食べて行けること、生きていられることに感謝することが楽しみである。





今更の太陽光発電投資

家庭用の太陽光発電(10kW未満)導入済みであるが、産業用の太陽光発電(10kW以上)の利益率が相当いいということに、人から聞いて最近知ったところだ。
家庭用は10年しか売電価格が保証されないのに、産業用は20年も売電価格が保証され、少なくとも後半の10年分は丸々利益になる。
草が生えないように面倒を見ているだけの遊休地に設置するのはもってこいな訳だ。
次の四月から売電価格がおそらく1割程度下がる。
もう少し早くから検討しておくとよかったが、まだ遅くない。
何事も検討している時が一番楽しいものだ。
しょぼい日常ではあるが、スマホゲームの蒼の三国志にハマっている

小さな楽しみによって、余計なことを考えなくて済むのはいいことだ



生きることは愛を探求することであると言える。
生きることは精神を高めるための修行であると言えても、果たして何のためか。
神、仏を拝むことも、先祖を拝むことも、また万物を拝むことも、外見上は儀式のように見える。
しかし、根底にあるのは愛の感情に近づくことである。
言い方はおかしいが、愛する対象は何であっても構わないのだろう。
仏壇に向かってお経を唱えることも、儀式に見えて、本当は愛を感じることにある。
日常の出来事が全てだと思う多くの人間にとって、それよりも大きな愛を思い出させてくれるのが読経ではないか。
もし、そのままの自我が私であるとすれば、生きることに愛があると言えるだろうか?
愛は自我の中にはない。
愛は自我を超えた、万人に共通の心ではないか。
その共通の心は、大変に有難いものであるが故に、気づかない。
あるのかないのか、わからない。
もし、これがなかったとしたならば、人が生きることの意味がわからなくなる。
生きることの目的が、愛を見つけることであったり、カルマに気づくことであったとしたらならば、日常の多くのことが意味をなす。
出陣じゃー



突撃





























人生の最大のテーマは、楽しむことにもあるが、それ以上にマイナスの感情にどう対処するかにあるといってもいいだろう。
誰しも、プラスの感情は心地がよい。
自分が自分に向けるプラスの感情は楽しみをつくり、他人から向けられるプラスの感情は喜びをつくる。
しかし、いつもプラスの感情があるわけではない。
マイナスの感情に引っ張り込まれることのほうが多い。
マイナスの感情は、外部からの環境要因によって感じ取り、さらに思考して悪化させる。
マイナスの感情として他人から否定されることが、どれだけ自分の精神を鍛えるのに役に立つかは計り知れない。
人は自分の悪いところを、あたかも他人が持っているかのように錯覚する。
これは錯覚ではなく、ほとんどの特性は誰もが持っている。
他人から否定されて腹が立ち、自らも他人を否定する。
これが至ってシンプルな人の行動である。
それだけで全ては解決されてしまう。
しかし、思考をどう働かせるかによって、その後は大きく変わる。
相手が悪いと思うか、自分が悪いと思うか、それとも一時の気晴らしと思うか。
自分を否定する相手を否定するのではなく、自ら否定される人になる、あるいは相手を肯定するといった、逆の発想が持てること。
反撃する行動は、一時のマイナスの感情から開放されるが、それでは本当のプラスの感情を生むことはできない。
一瞬は条件反射によって反撃したとしても、その後の思考をどう働かせるかで人は変わる。
マイナスの感情を感じ取れる力が、人を成長させる。
マイナスの感情に呑み込まれることなく、マイナスの感情と一体化できる力が人を成長させる。
褒められて伸びるのは当然であるかもしれないが、けなされても伸びることができることほど強いものはない。
けなされても落ち込むことなく、卑屈にならず自分を表現できる人になること。
それは難しいことであるが、できないことではない。
肯定することと否定することとが相対的なものであると気づくならば、否定されることは肯定されることと同じである。
これが菩薩の境地であろうか。
菩薩は、究極の楽観主義で究極のマイペースであるのだろう。
幸せになるための四大要因。(幸福学の前野隆司教授)
やりたいことがあり、繋がりと感謝があり、楽観的で、マイペースであること。
人生の目標に掲げたいことである。
誰しも、プラスの感情は心地がよい。
自分が自分に向けるプラスの感情は楽しみをつくり、他人から向けられるプラスの感情は喜びをつくる。
しかし、いつもプラスの感情があるわけではない。
マイナスの感情に引っ張り込まれることのほうが多い。
マイナスの感情は、外部からの環境要因によって感じ取り、さらに思考して悪化させる。
マイナスの感情として他人から否定されることが、どれだけ自分の精神を鍛えるのに役に立つかは計り知れない。
人は自分の悪いところを、あたかも他人が持っているかのように錯覚する。
これは錯覚ではなく、ほとんどの特性は誰もが持っている。
他人から否定されて腹が立ち、自らも他人を否定する。
これが至ってシンプルな人の行動である。
それだけで全ては解決されてしまう。
しかし、思考をどう働かせるかによって、その後は大きく変わる。
相手が悪いと思うか、自分が悪いと思うか、それとも一時の気晴らしと思うか。
自分を否定する相手を否定するのではなく、自ら否定される人になる、あるいは相手を肯定するといった、逆の発想が持てること。
反撃する行動は、一時のマイナスの感情から開放されるが、それでは本当のプラスの感情を生むことはできない。
一瞬は条件反射によって反撃したとしても、その後の思考をどう働かせるかで人は変わる。
マイナスの感情を感じ取れる力が、人を成長させる。
マイナスの感情に呑み込まれることなく、マイナスの感情と一体化できる力が人を成長させる。
褒められて伸びるのは当然であるかもしれないが、けなされても伸びることができることほど強いものはない。
けなされても落ち込むことなく、卑屈にならず自分を表現できる人になること。
それは難しいことであるが、できないことではない。
肯定することと否定することとが相対的なものであると気づくならば、否定されることは肯定されることと同じである。
これが菩薩の境地であろうか。
菩薩は、究極の楽観主義で究極のマイペースであるのだろう。
幸せになるための四大要因。(幸福学の前野隆司教授)
やりたいことがあり、繋がりと感謝があり、楽観的で、マイペースであること。
人生の目標に掲げたいことである。
















