自分は居ても居なくても一緒だ。
そんな風に思うのは、自分がそこに居ると思っているからであり、自我が働いているからである。
自分がそこに居なければならないと思うのは、思考の働きである。
居ても居なくても一緒であることが、その人を苦しめる存在価値の否定だと感じるのも、思考の働きである。
元々、自分は思考ではない。
思考は、自分を越えて一人歩きする。
元々、誰しも居ても居なくても変わりがないような存在だ。
そのように素直に捉えるのは、思考ではなく、心の働きである。
居ても居なくても一緒という言葉の中には、自分だけでなく他人も居ても居なくても一緒だと思う思考も隠れている。
実は、他人に理解されないのではなく、自分が他人を理解しようとしていないのである。
思考は自分に都合の良いように働く。
これが思考が持つ本来の性質だろう。
思考に対して、心は、居ても居なくても変わらないと分かっているから、それだけで存在価値があり、偉大である。
居ても居なくても一緒という言葉は、否定的な言葉だけに思えるが、本当の肯定は否定の中にしかない。
寛容な偉大さは、居ても居なくても一緒だという感覚の中にしか存在しない。
人は偉大ではないが、思考を見直すことはできる。
思考は、直ぐには変わらないが、長い時間を掛けると変わる。
そんな時間の使い方が、心の存在を気づかせてくれる。
思考に支配された者には、心の存在価値は見えない。
思考がなくなることは、死を意味するように感じる。
これもまた、思考の働きによる。
寛容な偉大さには生も死もない。
思考から開放されれば、正しい存在価値が見えてくる。






