私は中学を卒業するまで本当に本を読まなかった。
読んだ記憶がない。
そのためか、それまでの私は自分の価値観に縛られて生きてきた。
本を読まないというのは親の影響であったかもしれない。
私の親には本を読んでいるような余裕はなかったに違いない。
本を読まないせいか国語の勉強をしなかった。
国語に嫌なイメージを持っていたからだろう。
私は、理屈をつくる仕事をしていながら、未だに理屈を言うことが好きではない。
何か、理屈は、決まった基準を正しいとすることであり、自己主張が強くなって、異なる意見が聞けなくなるという印象を未だに持っているからだ。
国語や理屈は、人の陰であるとずうっと思っていたのだ。
そもそも、ものの見方は人の数だけありそうなのに、国語としては模範通りでなければならない。
人を形成する基礎は共通であるとの考え方であるのだろうか。
人には表も裏もない。
それが人の陽だと信じていたのだ。
だから私の考え方は薄っぺらいものだった。
自分を中心に捉えた考え方でしかなかった。
人と合わせることは陽で、身勝手は陰である。
見た目以上のものに価値観を持たなかった。
しかし、人はいつしか、陰は陽であり、陽は陰であることに気づくときがある。
陽であると思っていたことは実は陰であり、陰であると思っていたことは実は陽であった。
全く本を読まなかった私が本を読むようになり、自分の世界を持とうとしてからだ。
人の気持ちは自由であり、自由であるから当てにならない。
私の薄っぺらい考え方が少しずつ、修正されていった。
しかし、多少は考え方が修正されたからと言って、それほど人生が楽しくなるわけではない。
人生には、何かを選択できるような余地はそれほどないためだ。
まともに生きると言うことはどういうことなのか、未だにわからない。
少しばかり考え方に広がりができたところで、その人の人生が大きく変わるわけではない。
考え方に広がりをつくるということは、嬉しさを分散するということにも繋がり、必ずしも楽しいものではない。
かくして私は、考え方を反転させて、これまた偏りのある人間になろうとしていたのかもしれない。
人のものの考え方は、時間とともにどんどん変わって行く。
同じところに留まることはないだろう。
年を取るごとにものの考え方に余裕ができてくるだろう。
年を取るごとに人からどう思われようなど関係がなくなってくる。
それと同時に、物事に拘ろうとする考え方も消えてくるのだ。
そのことは人生を楽しくする。
心底やりたいと思う、心の奥にあることは、大人になってからはほとんど変わらない。
外見的に見ることができることだけが変わって行くのだ。
誰しも最終的な欲求は、ユートピアとも言えるような生きた極楽浄土に住むことではないだろうか。
それは、何でも手に入るような、何でもできるような場所を意味するのではない。
目前にある、このありのままの世界自体が極楽浄土となることを望む。
それは毎日が自然で、楽しいものである。



