自我を忘れ、気持ちをふわっと宙に浮かせてみる。

そうすると、何か大きなものに巻かれ、今の時間に包まれる。

通常は、いろんな考えが沸いたり、雑音が気になったりするものだが、宙に浮いてみるとそういったものが消えていく。

人が自由になると言う感覚は、自我が消えて、ふわっと宙に浮いた状態になることなのかもしれない。

気が楽になり、流れる時間をリアルに感じることができるとき。

何かをしたいとか、何かをしなければいけないとか、何かをしたくないとか、そういった自我の感覚から離れることが、ふわっと宙に浮くということなのだろう。

やりたいことや、やらなければならないことや、やりたくないことは、考えなくてもわかっている。

人はふわっと宙に浮いているときが幸せなのだと思う。天使くもりキラキラ

脳があるから意識があるのか、意識が脳に宿ったのか、どちらかわからない。


前者の考えに立てば、脳が死んだら意識はなくなり、死後には何もないことになる。


後者の考えに立てば、物質としての脳は死んでも意識は残り、死後にも意識が残る可能性がある。


死んでしまったら全てがなくなるという考えでいると、物質的なことばかり追い求めることになってしまう。


しかし死後の世界に過剰な期待をするのも筋違いである。


死後の意識があるにせよ、ないにせよ、この世界で善い行いをしたいと思うのは人の性質である。


物質的なことを求めるのは悪いことではない。


死後の意識に向けて、意識を覚醒させることも悪いことではない。


現実にだけ焦点を当てなければ、意識の持ち方は変わってくる。


高い意識があれば、現実を離れずに理想的になれる。


人は表面的な関係であると分かっていながら、自ら表面的な関係をつくる。


表面的なことから離れて生きることを忘れてしまっている。


それほどに、人は浅はかで愚かな生き物である。


意識は人と違ったところにある。


意識が単純に脳からつくられているとは言い切れないからだ。


人の脳はまったく不思議でありながら、人は不思議であることに気づかない。


 脳を物質的に捉えると、不思議なことはわからなくなるのかな。星空UFO宇宙人   ぶーぶーDASH!   オバケ


人にとって一番辛いことは、人、物、あらゆるものに対して関心がなくなること。


人から関心を持たれないことは辛く、また人に関心を持たないことも辛い。


人は興味に生きる動物である。


関心がなくなることは、興味がなくなることであり、人に対しては無視する状態に近くなり、その他のことに対しては意欲がなくなることになる。


関心を少なくすることは、一見落ち着きがあるように見えて実は退行的である。


人に興味を示さない状態は冷たさでもあり、行き詰まりでもある。


人は性格や相性を持つから、それによって関心をなくしてしまうことが多い。


それは退行的な生き方にしか見えない。


しかし、会話が少ない状態は必ずしも関心を持っていない状態であるとも言えない。


一般的に、会話が少なくなるのは、相手に分かってもらえないと思っていることが多いからであって、相手に関心を持っていないのとは異なる。


しかし、会話が少なくなれば必然的に関心もなくなっていく。


人の社会が複雑化する今日であるから、分かってもらえないと思う気持ちはより拡大し、人への無関心さも増大していくのは悲しいことだろう。オバケ星空

人によって理想は様々だろう。


現実を重視して生きる人、理想を重視して生きる人、愛を基準に考えるか、お金やプライドを基準に考えるか。


この社会では理想主義者よりは現実主義者、愛よりはお金やプライドの方が強いようである。


実際働くことはお金とプライドがほとんどを支配してしまっている。


愛は個別に持てばよいものとされ、働くことと切り離そうとすることがほとんどだろう。


だが、一流、と言うよりも一人前と言えるためには、働くことに愛の感情を入れる必要があるように思える。


自己を守ることに懸命になって、職場には、愛をなきものとするのが一般的であろうか。


それでは、人に役に立ちたいと思う一人前の精神は生まれない。


自主性があるように見えて、実は自主性がない。


それが今の社会の根本ルールのようである。


嫌な仕事はうまく他人に回すこと。


好む仕事をやって自分の手柄にすること。


それが一般的である。


だから、他人の役に立つ菩薩道のような一人前の生き方ができない。


菩薩道を実践することは難しく、それは長続きもしないと思われる。


我々のほとんどは半人前であると自覚してよいだろう。


我々は醜くて汚くて臭い匂いのする生き物だ。


その臭い匂いのする生き物が自己を保存するためには、やはり半人前の道を行くことにあるようだ。


良い匂いを感じるためには、臭い匂いも必要かもしれない。


良い匂いに釣られるのは、自己の臭さを認めるからであるかも知れず、至って自然なことであるかもしれない。


チューリップ赤チューリップピンクチューリップ紫コスモスチューリップピンクチューリップオレンジチューリップ黄


人の役に立つ活動が何らできていない。


そう思うと夜に寝られなくなる。


そもそも人の役に立つということが、どういうことなのかがわかっていないのが我々であろうか。


人が生きるということは、自分や家族などのため以外に、どのような効用をもたらそうか。


楽しめればいいと思っていられる間はこのような悩みは生じない。


人の役に立つということ。


何度も封印しては、気がついたらまた封印が解かれて同じところで悩む。


休みが多くなったり、少し時間に余裕ができたときに、また思い起こされてくる。


自分がやっていることが、果たして如何なる人の役に立ちえようか。


迷惑をかけることも珍しくない。


そう思う苦しみと共に一日が有難く終わってくことに、まったりしてしまう。


人の生き方にどれだけ共感が持てようか。


人それぞれの一生は、客観的に見てしまえば、命の浪費にすら見える。


訳もわからず、楽しいと思うことを求めれば、それが幸せになるのだと思っている。


個々の人を見ると何ら意味は見出されない感じがするものだ。


だが、全体をまとめて見ると、そこには確かに意味があるように見える。


人が生きて行くということの意味だ。星流れ星


人との関係の上にしか成り立たない自分という感情は、何とも虚しいものである。

人が居なければ自分を認識することもできず、また、自分は人との関係の一部を構成しているに過ぎない。

全体があって部分としての自分があり、部分としての自分があって全体がある。

自尊心をどれだけ高めようが、他人との関係としての全体を見過ごせば、ただの思い違いである。

世の中は思い違いで成り立っている。

全体を忘れ、個々のみが存在するかのような錯覚に陥る。

全体を思う時、自己は消滅し、自己を思う時、全体は消滅する。

本当はそのように割り切れるものではなく、自己は全体の中においてのみ意味を成す。

いかに能力があろうとも、いかに考えが優れようとも、万人に共通する全体を見失っては、ただの錯覚に過ぎない。

錯覚していることがほとんどである。

錯覚せずして人の社会を生きることは難しい。

そこに、人の思いが満たされぬ影が付きまとう。

人の虚しさは他人のものでなく自分のものでもない。

そういった錯覚が私たちを支配する。

錯覚する者には、錯覚は意識されない。

錯覚の中にだけ生きる精神を積み重ねる。

それが今の社会を活性化させることだと人は信じている。

錯覚の上には覚醒があろうか。

さもなければ錯覚は錯覚を忘れさせることのみにある。ガックリメラメラドクロ
人は現在や未来に生きることが前向きな考え方であると思う。

過去のことなど気にしても仕方がないと。

ところが、現在や未来は過去がつくる。

過去があってこそ今がある。

過去を振り返ることは、後向きであるように見えて、実は現在を生きることである。

現在は過去以上のものにはない。

過去はできなかったこと等の後悔を先立たせるが、人が後悔する気持ちを持つことは至って健全である。

後悔は悪く捉え勝ちであるが、実際は良くも悪くもある。

人の救済ができれば一人前となれようが、多くの人は一人前とはなれない。

過去は一人前になれない自分との対面であり、自分の内側との対面である。

未来は半人前のまま感情を自分の外側に向けることにある。

そのような未来が果たして前向きであるといえるかは疑問である。

過去に向けた内省は、前向きな感情を思い起こさせる。

深い後悔の中に一人前に近づくための人らしさがあると信じて。ぶーぶーDASH!オバケ

3日間の出勤日があって、第二弾の4連休だ。


これだけ働いただけで、また休みがあるとはありがたい話だ。


しばらく続いたゲーム地獄から離れて、また元の道へ戻る。


一時凌ぎの楽しさは苦しみを忘れさせるが、それと同時に生きるということも忘れさせる。


生きるということを実感するためには、苦しみを認識し、生きることを意識する必要があるようだ。


人は何時たりともただの怠け者になるべきでなく、常に生きることの仕事を忘れないことだ。


この仕事は稼ぐための仕事ではない。


生きていることを実感できる仕事だチューリップ赤チューリップ紫チューリップ黄チューリップピンクチューリップオレンジキラキラ

先日は、結婚記念日で長浜へ車

目当ては、予約しておいたふじ石亭の懐石料理。

消費税込みで一人当たり5千円であったが、値段以上の美味しさだった。

久々に?こんなに美味しく料理された和食を頂いたという感じだ。

野菜も魚も素材の味が生きている音譜

おまけに、嬉しいサプライズのデザートまで頂いたアップケーキ

石亭というだけあって、たしか富士山火口から持ってきたという溶岩石の高さが半端ない富士山宝石紫宝石紫宝石紫宝石紫宝石紫宝石紫宝石紫宝石紫

本当に気に入ったので、来年も行く予定だ合格

あと、写真は長浜城型の資料館。

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私は中学を卒業するまで本当に本を読まなかった。


読んだ記憶がない。


そのためか、それまでの私は自分の価値観に縛られて生きてきた。


本を読まないというのは親の影響であったかもしれない。


私の親には本を読んでいるような余裕はなかったに違いない。


本を読まないせいか国語の勉強をしなかった。


国語に嫌なイメージを持っていたからだろう。


私は、理屈をつくる仕事をしていながら、未だに理屈を言うことが好きではない。


何か、理屈は、決まった基準を正しいとすることであり、自己主張が強くなって、異なる意見が聞けなくなるという印象を未だに持っているからだ。


国語や理屈は、人の陰であるとずうっと思っていたのだ。


そもそも、ものの見方は人の数だけありそうなのに、国語としては模範通りでなければならない。


人を形成する基礎は共通であるとの考え方であるのだろうか。


人には表も裏もない。


それが人の陽だと信じていたのだ。


だから私の考え方は薄っぺらいものだった。


自分を中心に捉えた考え方でしかなかった。


人と合わせることは陽で、身勝手は陰である。


見た目以上のものに価値観を持たなかった。


しかし、人はいつしか、陰は陽であり、陽は陰であることに気づくときがある。


陽であると思っていたことは実は陰であり、陰であると思っていたことは実は陽であった。


全く本を読まなかった私が本を読むようになり、自分の世界を持とうとしてからだ。


人の気持ちは自由であり、自由であるから当てにならない。


私の薄っぺらい考え方が少しずつ、修正されていった。


しかし、多少は考え方が修正されたからと言って、それほど人生が楽しくなるわけではない。


人生には、何かを選択できるような余地はそれほどないためだ。


まともに生きると言うことはどういうことなのか、未だにわからない。


少しばかり考え方に広がりができたところで、その人の人生が大きく変わるわけではない。


考え方に広がりをつくるということは、嬉しさを分散するということにも繋がり、必ずしも楽しいものではない。


かくして私は、考え方を反転させて、これまた偏りのある人間になろうとしていたのかもしれない。


人のものの考え方は、時間とともにどんどん変わって行く。


同じところに留まることはないだろう。


年を取るごとにものの考え方に余裕ができてくるだろう。


年を取るごとに人からどう思われようなど関係がなくなってくる。


それと同時に、物事に拘ろうとする考え方も消えてくるのだ。


そのことは人生を楽しくする。


心底やりたいと思う、心の奥にあることは、大人になってからはほとんど変わらない。


外見的に見ることができることだけが変わって行くのだ。


誰しも最終的な欲求は、ユートピアとも言えるような生きた極楽浄土に住むことではないだろうか。


それは、何でも手に入るような、何でもできるような場所を意味するのではない。


目前にある、このありのままの世界自体が極楽浄土となることを望む。


それは毎日が自然で、楽しいものである。おやしらず雨おやしらず雨おやしらず