人は誰しも自分の中に仏性を持ち、自分で自分を癒す力を持っている。


この力を発揮できる者こそ、真に疲れを知らず、溢れるエネルギーを秘める者である。


しかし、自分で自分を癒すことは、時に自然にできていて、時に相当に難しいことである。


自分を癒す力は、自然と生きる活力を与え、自然に気力を生じさせるものである。


善人であれ悪人であれ凡人であれ、自分を癒す力を発揮すれば、何かをしようとする意欲が生まれる。


自分を癒す力は外からの刺激によって掻き消されることもあれば、外からの刺激によって働き出すこともある。


ストレスを感じ続けると自分を癒す力を失ってしまう。


意欲をなくしてしまった者は、ストレスによって自分を癒す力を忘れてしまった者だ。


そのような意欲をなくしてしまった者には、ストレスのない外からの刺激が必要となる。


人から良い影響を受けることが最も効果的であることは言うまでもない。


しかし人以外にも良い影響を受けられることは多い。


自分を癒す力に気づいたとき、人は孤独をそれほど感じなくなる。


自分を癒す力は生きるものに共通する何かなのであるから、たった一人のものと言うわけでもない。


その共通する普遍的な力に身を任せることができるようになれば、自分を癒す力が発揮されやすくなるだろうくもりかたつむり雷雨

とある自助グループにボランティアでお試し参加させてもらった。


弱者の立場に立った考え方は、生きるヒントを与えてくれると思っているからだ。


単なるダラダラ会のように見える。


だが、世の中、効率を求める一方で、ダラダラ雑談することの必要性を失っている。


本当に言いたいことは、雑談などの日常会話から発展したところから出てくると思うからだ。


いわゆる本音の部分。


他方、ボランティアとしてのカウンセリングをするのは難しそうだ。


色々な問題も想定される。


雑談の会を発展させたところに、必要とされる場が提供されるのかもしれない。


ひきこもりという言葉は、家に引きこもって外に出ないということを示すようだが、外に出ていてもひきこもりと変わりない社会ができつつある。


理性、効率を優先する社会が創られていくと、本音の部分が少なくなり、建前に生きる役人?に近くなっていくのかはてなマーク


建前にのみ生きる者を、ひきこもりと言わずしてなんと言おうかドンッ


知的労働者は、ほぼ皆がひきこもりの可能性を秘めているドクロ


残念ながら、そのようなことをあまり気にしない者が成功者に見えのが社会であるが。


引きこもっていた方が有利な立場に立てるとも言える世の中だ。


今の私は外に出るひきこもりと変わりがない。


しかし、ひきこもりによってしか気づかないことが多くあるひらめき電球


心の中に仏を描く想像などは、ひきこもることによってしかできない宇宙人あせる


ひきこもりは、悪い意味を持つだけでなくいい意味も持っていると思っている。


無駄な力が抜けて、本音も建前も関係なく生きられることが一番自然で一番自発的であると思える黄色い花黄色い花黄色い花



人は、自分が何のために生きるのかを考えるから、人間らしくなる。

このテーマは最も重要なテーマであって、最も難しいテーマである。

何のために生きるのかを考えることは最も人間らしいことである。

これは主観的な問題であって、一定の枠に嵌めて考えられる問題ではない。

生きる意味が他人から与えられると気づくこともあれば、自分から獲得したと気づくこともあるだろう。

常に生きる意味があると思えるのは、相当に強い人であるか、自分をごまかす人である。

人は何のために生きるのかが分からないから生きているとも言える。

人はただ、働いて、食べて、寝てという繰り返しの中には意味を見出せないようだ。

しかし、このような極めて基本的な、なくてはならないものの中に生きる意味はある。

何のために生きるのかが分からなくなる理由は、人はもっと崇高な何かであると期待してのことである。

何のために生きるかを問わないような人生の成功者はいるのだろうか。

人は何のために生きるのかを理解しているような素振りを見せる偽善者も少なくない。

我々は永遠の神でもあるかもしれないし、永遠のゴミであるかもしれない。

何のために生きるのかが分からないから、与えられた命を全うするだけである。

命を全うした先に、神であるのかゴミであるのかが分かるというのであろうか。

神であれ、ゴミであれ、生きていることは愛の力によるものである。ねこへびねこへびねこへびてんびん座オバケオバケオバケ

自分を意識しなくていいことが一番の幸せであろう。


人と比べたり、人を憎んだり、人を意識することは、自分を意識しているからに過ぎない。


今の社会は、ほとんどが自分を意識する社会である。


自分というものを中心にすべての事柄が片付けられる。


自分と他人を比べる尺度によって成り立っている。


しかし、本当に人が幸せを感じるのは自分がなくなったときであり、自分と他人の差がなくなったときである。


人に上下はなく、また境界線もない。


自分という意識を固持するから、比べることによってしか自分が存在することがわからない。


自分という意識が抜け落ちたとしても、何ら不都合は生じない。


それだけ平和な社会になってきたのであり、本当の意味での個が実現できるのもこれからの社会である。


自分と他人を区別することを固持していく先には何もない。


一時の富を感じようとするのか、永遠の富を感じようとするのか。


自分を意識しなくなった先には幸福感があるのみである。馬DASH! ぶーぶーあせる

とうとう東海も梅雨入りしてしまったか。


暫くは雨が多く、気持ちも曇りがちだ。雨くもり


私達は社会人として大人ぶっていなければならないわけだが、中身まで大人ぶってしまうと何も身がないことに気づく。


仮面を被ることは人と上手くやっていくために必要なことだ。


事実、仮面をつけたままでも、中身が空っぽ、あるいは薄っぺらいことが見えていることがある。


だから仮面を被ったままでいることは大事なことであるかもしれない。


我々が一般に空っぽとか薄っぺらいと言っていることは、実は、空ではなく執着の塊であるかもしれない。


何に執着するかは、金、プライド、愛、仲間、仕事、遊び、世間体・・・・・・、いろいろ考えられる。


本当は空っぽではないから、薄っぺらく感じられる。


もし本当の空っぽが実現できていたならば、そこには童子と同じ無邪気さがあるだろう。


好奇心に溢れ、損得勘定もなく、ただ楽しい童子に自分を重ねられるときが、執着から解放された幸せを感じるときだ。


幸せになれない要因は沢山あっても、幸せになれる要因は少ない。


だから自然体でいたいと思う。


仮面をつけたままでも自然体でいることはできるからだ。ブタ汗霧


最初で最後になるかもしれない愉快な旅行会が終わり走る人、ちょっとグレーな手続きを・・・・・・ドクロドンッ


と言っても、基本はボランティア、お金儲けをする気は全くない。


生かされているという実感は、愚かな自分、人の役に立ちたいと思う自分、情けないと思う自分、弱い自分を感じるところにあるようだ。


少なくとも自力で生きていると考えている以上、愚かさや情けなさは感じにくい。


人として生きる愚かさや情けなさを感じることは、自らを浄化するために役立つ。


祈りたい気持ち、見えない大きなものに救いを求める感覚は、不自然なことではない。


人として生きる不甲斐なさを感じているから、見えない大きなものの静寂を感じられる。


静寂の意識は眠りに近いものに感じられるが、瞬間ごとにそこにあり、止まっているわけではない。


ゆっくりであってとても早い時間の流れは、愚かさをも忘れさせる。


ただ時間とともに過ごしているだけである。


その中に愛情や楽しみがある。


人の愚かさを認めれば、愛情や楽しさはいつまでも持続するものであるヒツジ足あと

人は皆孤独である。


形の上では孤独でなくても、皆それぞれの魂を持つ。


孤独から逃れたいと思うばかりに、自分からずれたことをしてしまうのも人である。


人は目的を見つけ、対象に目を空している間は孤独でない。


人のために何かしたいとか、自分のために何かしたいとか思うことも、孤独の現れである。


永遠の一人を知っているから、一人でないことに憧れ、何かの対象に一体化しようとする。


大きなものに包まれていたいと思うのだ。


嘆いても何も変わらないが、嘆かないでも漠然として一生を終えてしまう。


ある種のさとりをなくして、一生を終えてしまうことは不幸せなことに思える。


さとりは、嘆きと、悲しみと、迷いと、孤独の中にある。


孤独を実感することがさとりであり、それ以上のものは元々ない。


ただ、自分の安全、発展のみを思って過ごせば、人生は、あったかなかったか、分からないままに終わる。


孤独であるからこそ、人との繋がりを求める。


繋がりは孤独に囚われる魂を少しだけ忘れさせてくれる。


孤独は活動のための原動力となる。


人の役に立てていると実感が持てることは少ない。


実際には人の役には立っておらず、自分の役に立っていることばかりだ。


永遠の孤独は、自我の消滅によってしか受け入れることができない。


その自我は、孤独を自覚する者を苦しめる。ハチクローバー

時々、自分が情けなくて、他の何者かに変わりたいと思うことがある。


学生のときも社会人になってからもそうだが、ただ与えられることをやるだけの人生になっていないか。


そのように人生は消極的なものであっていいのか。


しかし積極的になる場面は限られており、積極性が求められることも少ない。


何か積極的になるということが、儲けることであるとか、遊ぶことであるとか、結局自分のことしか考えていないのが人だ。


本来の積極性の意味はそのようなことではないと思っている。


しかし積極性は利己的な自分を主張することになりかねない。


積極性の意味をなくしてしまった我々はどの道を進むべきか。


受け身であることは消極的に見えて、実はより深いところでは積極的である。


自分の力ではなく、万物共有の力であるような、そんな積極性に生きられるだろうか。カエル流れ星


人の行動、思考、生き方はその人の過去の習慣に倣った癖である。


癖が繰り返されることによって、その人になる。


特に意識することなく自分の癖に従って生きる。


傍から見るとこの癖に違和感を感じることもある。


変わった習慣によってつくられた癖であるならば、違和感を感じやすい。


変わった習慣は、思考によって自分を捻じ曲げたことによってつくられる。


元々は変わった習慣もなく、癖もない。


無いものを在るように見せかけるのが人の思考で、人は在るものに依存しなければ生きていけない。


人は依存するために思考するのであって、依存から離れるのは辛い。


依存する対象を近くにのみ求めるのではなく、少し遠くに求めれば、少し世界が広がったように感じ取れる。


一歩引くということは思っている以上に効果があるものだ。ブタぐぅぐぅ眠い汗


昨日は京都嵐山へ車

今まで行っていなかった天龍寺へ

庭の眺めが素晴らしい霧流れ星

修学旅行の団体と一緒になったときは、お寺らしくなかったがしょぼん

それから竹林の道を抜けてトロッコ列車に電車

やはり観光客が多いようだ

早くから切符を買わないと、立ち席になってしまう

子供と一緒だったので車掌さんが優先的に座らせてくれたにひひ

途中の駅ではタヌキのお出迎えがクマ

{EBB02B11-4F19-43E9-B36B-4BBE5C7716BC:01}

{81C33E99-8DA2-4FA2-A482-6B16A5B6CF55:01}

{EFF95771-B54E-4B75-8918-0F276A1DB8B8:01}

{10EE92A4-42CE-4CC4-A4E9-C7745899F6F0:01}

{D324731F-5AA9-490C-82B3-85037536A499:01}

{B2F4C9F6-2849-4F78-8E6F-BB047109B47F:01}