世の中には、弱い者いじめや、パワハラなどが多々存在しているだろう。


これらの経験のない人というのは、これらを行う側の者の性質を持つ者か、人に無関心な者か、あるいは幸運な縁を持った者であろうか。


人として生きる上では、人から攻撃されることを避けては通れない。


人は人を褒めるために生きることもあれば、人をけなすために生きることもある。


けなすことには、批判することの意味も含まれるが、それ以上に、自分よりも低い者をつくって、自分の良さを顕在化させることの意味の方が強そうだ。


面白半分にけなすということもある。


けなすということは、人の性質の一部だ。


だから誰にでも人をけなす精神は備わっている。


しかし、実際に行動してしまうところに幼稚さがあると言える。


誰にも幼稚さは残るだろうが、その度合いは異なる。


幼稚さがあるからより成熟できる可能性があると言えるが、幼稚さというものは思ったよりも根が深く、そう簡単には衝動を抑えられないようだ。


人は、人のそういった性質を認めて行かざるを得ない。


幼稚さを持っているから、人のより深い慈悲を感じるようになる。


人をけなすことも、人にけなされることも持って生まれた縁であると思わずにはいられない。


縁であると思えば、けなされることによって悲しくなることも、怒りを覚えることも大したことではない。


人以上仏未満の仏子となれるか。


不条理さを諦めたところに温かさがある。


雨あじさいあじさいあじさいヒヨコヒヨコあじさいあじさいあじさい雨


気にしないでいいことを気にし、気にしたいことを気にしない。


そういうことが多い。


気にすることは、不安であり、怒りであり、悲しみであり、執着である。


ふと気づいたら考えていることが気にすることだ。


ふと気づいたら考えてしまう不安が浮上したら、楽しみや安らぎに意図的に気持ちを変えてやることが必要のようだ。


人は起きている間ずうっと何かを考えているので、考え方の癖を少しずつ修正していった方がいい。


必要以上に気にかけても不安が増えるばかりである。


すべては天に任せるつもりで生きた方が、気にしたいことを気にする癖がつきやすい。


それは生きる執着ではなく、生かされている喜びである。


生かされている喜びがあれば、ほとんどすべてのことにありがたさを感じる。


なるようになる、というのは受け身であるが、我執からは離れている。


なぜ生きているのかと思うことと、生かされてありがたいと思うことは、実は同じところから来る。


生きていることが不思議であると思えば、その神秘にありがたさを感じずにはいられないだろう。


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人は勘違いをしながら生きる。


勘違いをしていることに気付かないから、もっと勘違いを深める。


大事なものを後ろに追いやり、大事でないものを前面に持ってくる。


人は地位に溺れる。


地位に溺れているから、自分に絶対的な尺度を定める。


地位に溺れるから自分を特別視し、そのことに気づかない。


自分を特別視していることは、言葉によって現れる。


特別視していることに気づけば、言葉に変化が生まれる。


自分を特別視することがその人にとっては、最も自然で自分を安定させることであるのだろう。


自分を特別視できる尺度を定めている。


それがその人の限界や器量をつくる。


他人の限界や器量が見えてしまうのは、その他人が自分の尺度を定めていることに他ならない。


限界や器量をつくるのは、その人の保身的な部分でもある。


保身的な部分が皆に広がって行けば、自己責任の自由社会が強調されるようになる。


もともと忘れていた勘違いをしているということに気づくすべもなく。


大事なものは、大事でないものの背景となりやすい。


背景を含めた全体になるためは、自分を特別視することを弱くすることから始める台風走る人DASH!オバケ

その人がいて良かったと思うこと。


その人がいなければ自分に価値がないと思えること。


そういう出会いが人生を変える。


その人がいなければ永遠の孤独で、生きることはゴミくずと同じであったと思う。


灰色にしか見えなかった風景が、突然リアルな十色に変わって見える。


そういった感覚を持つときは一生のうちでも少ない。


見える景色が急に変わるのは、閉ざされていた、愛する主体性が解放されたからである。


それは思い違いあるいは妄想に終わることもあるだろうが、人は愛する主体でありたいと願う。


先のことや、ちょっとしたことに思いを巡らせる臆病な自分。


それを超えられるのは愛する主体になること以外にない。


愛する主体は特別なものでもなく、万人に共通するものだ。


臆病な自分から離れることができたなら景色は変わる。


人はいろんな景色を見るために生きている。


ただの想像上の景色であっても、想像が現実と明確に違うと言えるだろうか。


現実は想像をつくり、想像は現実をつくる。


愛する主体になることは想像から始まる。


愛する主体でない臆病な自分が、想像することをやめさせない。雨雨あじさい雨雨虹

人は孤独になることを恐れて、自分を裏切っていく。


自分を裏切ることはそのまま他人を裏切ることに繋がる。


しかし裏切られる他人もまた自分を裏切っている。


裏切りをなくし、そのままで居られることは少ない。


そのような場が神聖な場であって、孤独を退けない場と言える。


人は誰しも何処かに神聖な場を持っている。


しかし裏切ることも裏切られることも気付かないでいれば、神聖な場に帰ることも、また神聖な場を思い出すこともできない。


孤独でないことを証明するために孤独を避けるが、それは反面、一層孤独であると認識させる。


孤独でないことを証明するために虚栄を張る。


虚栄は言葉によって明かされる。


言葉は思っている以上にその人を反映している。


言葉はその人を写す鏡である。


ごまかすことができるのは表面的なことで、奥にあることはごまかせない。


それが普段の言葉遣いの中にある。


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できるものなら代わってあげたいという気持ちと、辛い体験はもうしたくないという気持ちとは同時に存在する。


人生を楽しいようにも辛いようにもするのは自分であるが、思春期においては、自分と他人の境界が分からず、困惑することが多いだろう。


楽しさは辛さを辛さと受け止めないところにあるが、ときに辛さは残酷なものである。


辛さはどのような形でその人に降りかかるか分からない。


これも受け止め方の違いによって随分と違ってくるのだが、自分と他人の境界が分からなくなっている時期においては、悪いように受け止めてしまうことの方が多いようだ。


自然体は、楽しさからも辛さからも離れたところにあるように感じるが、楽しさからも辛さからも離れると、人としての認識はほとんどなくなる。


人が自然体であるためには、楽しさを見つけ、また辛さにも耐えること以外にないようだ。


楽しさは辛さを封じ込めることもあるが、辛さは楽しさの基盤を根こそぎ破壊してしまうことがある。


辛さのために楽しさを見失った状態。


そのような状態にならないように、人を助け、人に助けられ、自分を助けることを知る。


これは自分自身の気づきであって、他人とは関わりのないことのように思える。


きっかけは他人からやってきても、結果は自分が導く。


きっかけが結果であると、よく勘違いしてしまうものだ。あじさいクローバーあじさいクローバーあじさいクローバーかたつむりくもり雨

時々、今の季節が分からなくなることがある。


夢の中には季節というものがないように思えるが、現実においても季節を錯覚する。


夢の中での時間は、遡ることが自在であるようなので、季節どころか年齢も分からないという感じだ。


田んぼに植えられた稲の長さが短いのに気づいて、今はまだ夏の前であることに気づく。


夏はもう終わったのかと錯覚しそうになる。


人は社会の拘束から自由になれば、時間や季節の感覚が、夢の中でのことのように、戻ったり進んだりするようになるのかもしれない。


意識というものは時間の進行に関係なく、過去、未来へ自由に行くことができるようだ。


時間を忘れられるときが、人にとっては気持ちがいいのかもしれない。


現実においては確実に時間は経過して行く。


だが意識の世界においては、時間は止まったままであるし、一瞬にして過ぎ去るものでもある。


時間の経過に怯えずに生きられたら、幸せと感じることは多くなるのだろう時計砂時計時計砂時計時計砂時計時計砂時計時計砂時計時計砂時計時計砂時計ベル

人は真実を語り得ず、語られることはいつも真実から遠ざかる。


自ら真実を遠ざけ、また他人からも真実を遠ざけられる。


人は苦手意識というストレスに弱い。


苦手なものはその人を支配することもある。


他のことを忘れさせるような強い意識は苦手意識にあるのだろう。


そして人は、苦手意識を隠すように、あるいは苦手意識を忘れるように、真実から遠ざかろうとする。


真実は見えないところにあり、見えているものは真実ではない。


見えないものを人が見る必要はないかもしれない。


真実が隠れていることに気づけば、幾分は生きることが楽になる。


人から真実を想像することを奪ってしまえば、見えているものによって潰されることになってしまうだろう。


見えているものだけを真実とすることはできない。


また、見えていないものだけを真実とすることもできない。


苦手意識は、見えているものだけに意識を集中してしまったことによって起こる。


見えていないものに意識を変えれば、苦手意識は消え去っていく。


見るものとして何を選択したかが苦手意識を作っていく。


選択するものを変え、苦手意識を変えられたら、どれだけいいことだろうか。さそり座さそり座さそり座モグラさそり座さそり座さそり座

今でも私の人生は補欠の人生であると思っている。


私はサポート役として生まれ、繋ぎ目として生かされていると思う。


若いときにはそのことに気づいていなかった。


だから妙な自尊心と妙な優しさの狭間で思い悩んでいたことだろう。


自分にはもっとやれる、自分はもっと優れていると思う一方で、自分には大した生きる価値はないと思う、二重の不安定な心情だ。


根本的なところは昔と変わっていない。


生きる意味が分からないと思うことは、思い上がりであると同時に、生きる価値が大いにあると思う自尊心の裏返しだ。


そもそも自尊心がなければ、何のために生きるかなど、どうでも良いことになるからだ。


その自尊心は、人に協力すること、人をサポートすることなどに生かせるような気がする。


そもそもサポートする側とされる側を区別することはできないが汗


サポートしているように見えて、実際にはサポートされている。


ピンチはチャンスに変えられる、影があって光がある、ネガティブであるからポジティブになれる。


当たり前のことは認識することが難しい。


そもそも自分の都合だけで生きている我々に、レギュラー、補欠の区別はない。


いつも思い違いをしているのが人であり、人であるから割り切れなさが残るかに座かに座かに座かに座かに座波


懐の深さはどうやってつくられるのか。


ちょっとしたことに一喜一憂している私達に懐の深さはどうやってつくられるか。


懐の深さは主観的で直感的で自発的な感覚として感じ取られる。


社会に順応しようと思うばかりに、いつからともなく自分の意見、感情、考え方を忘れようとしていないか。


この社会は意外と、自分を上手く前に出さず、あたかも主体的に行動しているように見せかける者に有利である。


要領が良いと言うのは、順応性があり、上手く自分を主張できることにあるようだ。


ほとんどの社会人は、要領の良さで困難を乗り切っている。


しかし要領の良さが、主体的な自己をつくることができているのかは疑問である。


如何にも主体的に行動しているように見せかけても、懐の深さが少しも感じられなければ、それはただの要領だけに生きる者に見えてしまうからだ。


ほとんどの人はそのことを早いうちから感覚的に感じ取っているだろう。


懐の深さがないように見えるのは、懐を隠そうとするからである。


人の本性は美しくもあって醜くもある。


どちらでもないのが人の本性であろう。


そのことに少なからず気づいている人には、懐の深さが感じられるようになると思える。


少なくとも、ものの一方の側面のみを強調する人に、懐の深さを感じることができるだろうか。


人は懐の深さと意外性に惹かれる。ドクロドクロドクロメラメラ天使天使天使