




















カス
、カスの中のカス
自分をカスだと思う者は少なくない。
開き直っているようにもみえるが、ただの開き直りだけでもない。
カスでないためには、中身があるように見せかける必要があろうが、あくまでも見せかけに過ぎないことは多い。
むしろ自らをカスであると開き直った方が健全であるように思える。
誰にも中身はあるが、誰でもカスであると言える。
中身であることに執着しようとすると、生きることが苦しくなる。
カスであることを自覚すれば、生きることが楽しくなる。
単純な中身であるよりも、複雑なカスであった方が可能性は高い。
カスという生き方には、まだ見えない奥行きが隠されている。












わが身の情けなさを感じる。
否定するのは他人で、自分は否定しない。
肯定するのは他人で自分は肯定しない。
大きく分けると否定するか肯定するかしかないようにみえる。
肯定するだけでは真の肯定ではなく、否定するだけでは真の否定ではないことはわかっている。
しかし徹底した自己及び他人の肯定と、徹底した自己及び他人の否定は、新たな可能性を感じさせる。
自己及び他人を区別しないところに可能性を感じるのか、自己及び他人を超えた普遍性に可能性を感じるのか。
どうやら可能性は徹底したことに感じているようだ。
実際には、肯定とも否定とも言えない曖昧な感情がほとんどである。
そこから一歩も抜け出すことを知らない。
無難であることを良しとする。
しかし無難であることからは可能性を感じない。
無難ではなく、徹底した肯定であるか否定であるかに振れることもなければ、可能性は低い。



仕事が空いてきたので、早く帰れる嬉しさを味わっているところだ。
最近は、忙しいか暇になるかで、時期による差が大きくなっている。
仕事の波に合わせて生活スタイルを変えていく。
その生き方で間違っていない気がする。
必要とされるときには必要とされるように、必要とされないときには必要とされないように、波に乗るように、波に揺られるように。
仕事の浮き沈みは激しくても、生き方は穏やかでいられるよう、その時々で考え方、感じ方を変えていく。
人は、なんらかの興味を持っていれば、退屈にならない。
お金のことばかり考えて働くのは情けないことである。
だが、お金のことを考えなければ仕事ではない。
人の生きる道は、振り子時計のように同じリズムを繰り返して、夢を見ては夢を忘れて続いていく。
不思議なくらいに薄っぺらに思えることも、人が生きていく道であれば、否定されるものではない。
薄っぺらで、退屈で、情けなくなることも、どこか気が落ち着き、平和であり、ありがたいことであることを思えば、肯定されるものである。
受け取り方の違いだけである。







人として生きる情けなさと限界。
一時も煩悩から離れることなく、煩悩とともに生きる私たち。
精神世界から見れば、私たちのやっていることはただの遊びに過ぎないのだろう。
だが、この遊びを離れて生きることができないのが人である。
人が生まれてくる本当の理由はあるのだろうか。
遊びに理由はないのと同じで、人が生まれて来る理由も人の感覚で見ればない。
人は生かされる理由がわからず、理由を探そうとしてさらにわからなくなる。
人は煩悩とともに生きることを自覚するだけでも良い。
人には知り得ない感覚も、人の言葉に置き換えれば煩悩となる。
現実的でない、空想的な私であっても、現実世界にしがみついていられるのは煩悩のおかげである。
煩悩から離れてしまったら、たちまちに現実世界から弾き出される。
もちろん、私の認識を超えた精神世界もあるだろう。
そもそも精神世界は人へ伝達する要素のものではない。
人の心の中は無限大で、その一部を見たからと言って全体を見ることにはならない。
煩悩が現実世界との接点となる。
ここは煩悩パラダイスであろうか。
だが、その裏ではいつしか聖なるものも広がっていく。
