幸せを感じられるのは、すべてを許しているときである。

許すということと理解するということは、別のことである。

許すということは無条件であり、理由を伴わなくてよい。

理由を伴って許そうとすれば、おそらく許せるときはなくなる。

許すということはすべてを包み込むことであり、すべてを吸収することである。

これに対して、理解するということは条件を満たして、理由を伴う必要がある。

人は理解しようとするから、許せないことが多くなる。

いつの間にか自分がフィルターになり、理解できないことが増えていく。

社会の一般的な対人関係は理解することで成り立っている。

だから、すべてを包み込むことはできず、幸せを感じることも難しい。

許すことは一見して、無関心であって保守的であって消極的である。

だけど、理解することを超えているから幸せである。

そんな感情を少しだけ持てば、少しだけ明るくなる。星空ひらめき電球
どこにも暗黙のルールのようなものが存在している。

決められているわけではないが、流れから自然にできたルールだ。

初めは違和感を感じるだろうが、慣れてしまうとまるで自分も暗黙のルールを推進しているかのようである。

暗黙のルールができるのは悪いことではない。

むしろ良いことの方が多いかもしれない。

暗黙のルールがあるから人は安心する。

しかし暗黙のルールは知らないうちに人に壁を作ってしまう。

そして壁があることが当然になり、もはや壁を認識することもなくなる。

人として生きることが壁を越えることにあらず、壁を認識しないことにあるようになる。

そのようにして、意識しなくなることが増えると同時に、別に意識することを作っていく。

そんな風に生きていくのかな。カエルあせる波
反社会的性格とは、社会のルールを外れた怪しい性格をいうようだが、その逆で社会的であるとはどういうことだろうか。

社会的であるということが一般的に受け入れられるという意味ならば、社会的であることは多い。

反社会的であることが恐れられるのは、他人に危害を及ぼすと思えるからだろう。

他人に危害を加えない静かな反社会的性格は蔓延しているのかもしれない。

思っているだけであれば何も損ずることはなく、社会的であるかのように思える。

だが、思っていることはどこかで行動に現れることがある。

どれだけの人が思いを隠し、また思いに惑わされていることか分からない。

見えるようで見えない希望も、見えないようで見えてしまう絶望も、隠れた思いから生ずる。

人の社会で生きていくことは簡単ではない。

そう思うことも、思いから生じて私を惑わせる。
生きている間にやっておきたいこと、やってあげたいこと。

人によってそれぞれだろうが、やっておきたいと思う気持ちよりも、やってあげたいと思う気持ちの方が強いのが人だ。

やっておきたいと思っている間は変化に富んでいる。

やってあげたいと思うときには変化は少ない。

思ったところでどうにもならないことは分かっているが、どうにかなると思うことのために人は生きる。

いろいろな欲は生きる目標をつくるためにやってくる。

しかし生きる目標をつくる欲は、やりたいと思う欲よりも、やってあげたいと思う欲のようである。

それが人の生き甲斐なのだろうか。

人の生き方は顔つきに現れてくるようだ。

自分の顔を見てどう思うか。

どんな欲を持っているのだろうか。

ブタぐぅぐぅ
辛い思いをした過去があるから今がある。

過去のことは少なからずトラウマになるものだが、そんな過去があるから今が幸せに感じられるようになればいい。

だが実際には過去にこそ生きる幸せがあったのかもしれない。

成熟は諦めであるとともに開き直りでもある。

大人になったつもりで大人になっていない。

諦めや開き直りが成熟ではないということは誰にでもわかる。

認知しなかった新たな局面を開く。

それが成熟の意味である。

広さだけでなく深さを追求する。

それが成熟の意味である。

我々は本当に成熟しようとしているのだろうか。

向かう先は成熟ではなく退行であるかもしれない。

退行することによって不快を取り除くことができるからだ。

成熟の意味から遠ざかろうとしている。

結局のところ、成熟は退行と共にある。

人生とは、退行と成熟を繰り返していくことを誰もが暗に知っている。

アップダウンアップダウンアップダウンアップダウンアップダウン
人はどんなことにも慣れる。

慣れることは落ち着きと安定を与えてくれる。

慣れることには親しみもあれば、気にしなくなることもあり、考えないようにすることもある。

過去の苦しみを感じることは辛いことであるが、過去の苦しみ以上にもなれない。

苦しみ以上の何かになるよう努力しても良いし、苦しみのまま今を生きても良い。

ある年齢を過ぎると、人は過去から変わろうとすることを止め、過去と共に生きようとする。

過去はその人の性質である。

性質を離れて生きる道は、仏教などの信じる道にしかないようである。

良いイメージと悪いイメージ。

過去の苦しみには悪いイメージが定着して、良いイメージを消滅させる。

慣れることは良いイメージを意味し、良いイメージを持てるようになれば慣れたということだろう。

慣れることには普遍性もある。

変わらぬ良い何かは普遍性を持った何かである。

だから、どんなことにも慣れていくことは悪いことではない。

ただ、慣れたことによって、見えなくなった、というよりは見なくなったものが増えるだけだ。

夜の街流れ星

カスドクロ、カスの中のカスうんち


自分をカスだと思う者は少なくない。


開き直っているようにもみえるが、ただの開き直りだけでもない。


カスでないためには、中身があるように見せかける必要があろうが、あくまでも見せかけに過ぎないことは多い。


むしろ自らをカスであると開き直った方が健全であるように思える。


誰にも中身はあるが、誰でもカスであると言える。


中身であることに執着しようとすると、生きることが苦しくなる。


カスであることを自覚すれば、生きることが楽しくなる。


単純な中身であるよりも、複雑なカスであった方が可能性は高い。


カスという生き方には、まだ見えない奥行きが隠されている。


星星星流れ星星星星キラキラ星星星流れ星

わが身の情けなさを感じる。


否定するのは他人で、自分は否定しない。


肯定するのは他人で自分は肯定しない。


大きく分けると否定するか肯定するかしかないようにみえる。


肯定するだけでは真の肯定ではなく、否定するだけでは真の否定ではないことはわかっている。


しかし徹底した自己及び他人の肯定と、徹底した自己及び他人の否定は、新たな可能性を感じさせる。


自己及び他人を区別しないところに可能性を感じるのか、自己及び他人を超えた普遍性に可能性を感じるのか。


どうやら可能性は徹底したことに感じているようだ。


実際には、肯定とも否定とも言えない曖昧な感情がほとんどである。


そこから一歩も抜け出すことを知らない。


無難であることを良しとする。


しかし無難であることからは可能性を感じない。


無難ではなく、徹底した肯定であるか否定であるかに振れることもなければ、可能性は低い。


ドクロドンッガックリ

仕事が空いてきたので、早く帰れる嬉しさを味わっているところだ。


最近は、忙しいか暇になるかで、時期による差が大きくなっている。


仕事の波に合わせて生活スタイルを変えていく。


その生き方で間違っていない気がする。


必要とされるときには必要とされるように、必要とされないときには必要とされないように、波に乗るように、波に揺られるように。


仕事の浮き沈みは激しくても、生き方は穏やかでいられるよう、その時々で考え方、感じ方を変えていく。


人は、なんらかの興味を持っていれば、退屈にならない。


お金のことばかり考えて働くのは情けないことである。


だが、お金のことを考えなければ仕事ではない。


人の生きる道は、振り子時計のように同じリズムを繰り返して、夢を見ては夢を忘れて続いていく。


不思議なくらいに薄っぺらに思えることも、人が生きていく道であれば、否定されるものではない。


薄っぺらで、退屈で、情けなくなることも、どこか気が落ち着き、平和であり、ありがたいことであることを思えば、肯定されるものである。


受け取り方の違いだけである。


宇宙人宇宙人宇宙人宇宙人宇宙人UFO流れ星

人として生きる情けなさと限界。


一時も煩悩から離れることなく、煩悩とともに生きる私たち。


精神世界から見れば、私たちのやっていることはただの遊びに過ぎないのだろう。


だが、この遊びを離れて生きることができないのが人である。


人が生まれてくる本当の理由はあるのだろうか。


遊びに理由はないのと同じで、人が生まれて来る理由も人の感覚で見ればない。


人は生かされる理由がわからず、理由を探そうとしてさらにわからなくなる。


人は煩悩とともに生きることを自覚するだけでも良い。


人には知り得ない感覚も、人の言葉に置き換えれば煩悩となる。


現実的でない、空想的な私であっても、現実世界にしがみついていられるのは煩悩のおかげである。


煩悩から離れてしまったら、たちまちに現実世界から弾き出される。


もちろん、私の認識を超えた精神世界もあるだろう。


そもそも精神世界は人へ伝達する要素のものではない。


人の心の中は無限大で、その一部を見たからと言って全体を見ることにはならない。


煩悩が現実世界との接点となる。


ここは煩悩パラダイスであろうか。


だが、その裏ではいつしか聖なるものも広がっていく。天使キラキラ