朝5時半を少し回ったところ。

夜明け前の空に下弦の月とそれに寄り添う金星が浮かんでいる。

早朝だというのに東寺は車の出入りが慌しい。

あまりお寺の職員には見えない人びとが行き交うが、何かの市の準備らしい。

少し早く来すぎたようなので、しばらく東寺内を散策するが、拝観料が必要な講堂や五重塔のそばまでは、まだ入れない。

真言宗では、宗祖弘法大師は今もなお生きて高野山の奥の院で衆生の幸せを願って瞑想を続けていると信じられている。

高野山奥の院では、1日に2回弘法大師御廟前にある拝殿に御膳をお供えしているそうである。

そして、ここ東寺においても、朝6時から大師に御膳をお供えしている。

これを生身供という。

高野山の生身供は非公開らしいが、東寺の生身供は誰でも参拝できると聞いて、私も早起きしてやってきたのだ。

思えば昨年、まだ残暑の残る9月に東寺に来た。

東寺の北西側にある御影堂(工事中)や大日堂のある区画に初めて入ってみて、その独特の「気」に当てられ、身体の芯が痺れるような感覚があったのが印象に残っている。

その独特の「気」とは、まさしく高野山奥の院で感じるものと同じだった。

それから空海が夢に出てくるようになったのだ。

再びこうして東寺にやってきた。

午前6時少し前になると、御影堂の門のあたりに人が集まってきた。

自分と同じように観光客っぽい人とは明らかに違う、慣れた人々がいた。

背中に「東寺」と書かれたジャンパーを着た人もいて、「それ、どこで売っているんですか?」と聞きたくなったが、こらえた。

6時を過ぎてなんかの音楽が流れて、鐘の音が鳴った。

門が開くと慣れた方々が先頭になって大日堂に入っていく。

お堂の中に入って座ると、慣れた方々が歌のようなお経?を読み出した。

その間にマスク(覆子(ぶくす)?)をしたお坊さんが入れ替わり立ち替わり御膳を運んできて、五体投地してお供えを捧げる。

慣れた方々は東寺の檀信徒の方々なのだろうか、お経の中身をよくよく聞いてみると、光明真言の文言の説明や空海の生涯(屏風ヶ浦で生を受け、ななつの年に断崖から身を投げた、的な。うろ覚え。)をうたっているようだ。

お供えのあとは、参加者一人一人に、空海が唐から持ち帰ったとされる仏舎利が頭と手のひらに授けられる。

儀式は30分ほどだった。

清々しい東寺の朝。


生身供に参加して思うこと。

奥の院や東寺の御影堂で感じる「気」は、もともと空海が強烈な魂の持ち主であったことが大きいが、それだけではないだろう。

私は、この生身供という儀式が非常に大きな影響を与えていると考える。

人々が弘法大師を信仰する、その心、その祈りが、今もなお、弘法大師空海の魂を成長させる。

毎朝御膳をお供えすることで、文字通り魂にエネルギーを与え、成長を促進しているのである。

1200年という年月の間にも、人々の祈りによって、弘法大師空海の魂は、もうとっくに一人の人間の魂を超えて強大化している。

人々の祈りを纏った空海の魂が濃密に感じられる場所がある。

そんな場所を巡ってきた、2018年の秋の終わり。






京都駅からJRバスで高雄へ。

高雄は、紅葉🍁の名所である。

シーズン盛りの頃は、このバスも混雑して、しかも渋滞にはまれば、高雄まで1時間以上立ちっぱなしとなることもあるというが、12月の初旬の平日、観光客らしい人たちが2組(しかも外人さん)ほど。

あとは地元の方たちといったところか、余裕で座れた。

竜安寺や御室仁和寺を過ぎると山の景色になってくる。

まだらに残る山肌の紅葉も寒ざむしい曇り空、時折冷たい雨が空気を湿らす。

大阪勤務時代、週末はちょくちょく京都に観光に来ていた。

京都駅から出る京阪バスの定期観光バスをよく利用したもので、バスガイドさんと顔なじみになるほどだった。

京阪バスの定期観光バスは、おススメである。

四季折々の観光コースが企画されており、京都市内はもちろん、市外(美山とか滋賀とか)のコースもあって、大阪に3年いたが、飽きることがなかった。

やや料金が高いかもしれないが、昼食は充実していたし、バスガイドさんや観光地の説明員の方の説明も聞けるので、私は気に入っていた。

その京阪バスの定期観光バスのコースで一度高雄に来たことがある。

夏だった。

涼しい清滝川の川べりで川床料理をいただいたのを思い出す。


そうこうするうちに高雄に入ってきたところでバスの運転手さんが、神護寺に向かう道が土砂崩れのため通行止めなので山城高雄ではなく、次の槇ノ尾で下車するように、アナウンスした。

そういうこともあるか、と思いつつ、槇ノ尾で下車、川に沿って歩くと、途中、西明寺の参道入口があったが、ここはとにかく目的の神護寺へと向かう。

神護寺への参道は、ややハードな登り階段。

登り石段の途中の紅葉。

参拝客は少ないが、さみしくない程度にすれ違う。

いよいよ神護寺。

山内の案内も。

空海は、乙訓寺で最澄と話し、灌頂を授ける約束をした直後に(そして嵯峨天皇にみかんを送った直後に)、ここ神護寺、当時の高雄山寺に戻った。

ここで空海は最澄らに灌頂を授けたのだ。



ところで、司馬遼太郎先生の『空海の風景』。

空海を敬愛してやまない者が読むと、微妙な気持ちにさせられるところがあるが、私がこの小説の圧巻部分だと思うのは、理趣釈経の借用を乞う最澄に対する空海の返事の部分である。

その舞台はここ高雄山寺である。

…それを読めば空海の人間に興醒めするような ― ―罵倒の文章を最澄に対してたたきつけてしまう…

とまで司馬先生は書いているが、果たしてそうだろうか?と思う。

最澄への文章、「空海の人間」がよく出ている、興醒めどころか、空海らしい、誠に空海らしいじゃないか。

これについては、また改めて…。


降ったり止んだりのお天気で、靄に煙る山寺。

どこからともなく鈴の音が聞こえ、笠を被り錫杖を持った空海が霧の中から現れる。

そんな気がする晩秋の高雄の山にて。








突然、京都に行きたくなった。

空海が呼んでいる。

と勝手に解釈して、新幹線に乗り込んだ。

今回の旅の目的の一つは、空海が別当を任じられた乙訓寺を訪ねること。

京都駅から、地下鉄と阪急電車を乗り継いで、長岡天神駅に到着。

ここからバスで一直線に目的地の乙訓寺へ行ってもよいのだが、せっかくの長岡京、そしてお天気もいい。

歩くべし。(と、空海のお導きがあったと勝手に解釈。)

駅から、西に少し歩くと大きな池にぶつかる。

長岡天満宮の八条ケ池である。

池の周りに沿って歩いて行くと、長岡天満宮の入り口に。

紅葉が美しい。

ここでお参り。

遅めの七五三や、お宮参りの小さな赤ちゃんを連れた家族連れが数組見られた。

小腹満たしに「みかん大福」なるものを購入、1個250円なり。

皮をむいたみかんがあんこの代わりに大福の中にまるごと入っているという大胆不敵な和菓子である。

ところで、最近、無性にみかん🍊が食べたい。

みかんといえば空海である。(新説⁈)

蛇口をひねれば、ポンジュースがでてくるといわれる愛媛県の隣の香川県出身で、これまた、みかんの産地和歌山県に、高野山金剛峰寺を開いたから。

ではなくて、乙訓寺の庭には、みかんの木があった。

嵯峨天皇に庭で採れたみかんを献上したのである。(「沙門空海言す 。乙訓寺に数株の柑橘の樹あり 。例に依りて交え摘うて取り来れり 。」『柑子を献ずる表』〜『性霊集』より)

空海のキンキラキンの文章にかかれば、みかんもキンキラキンである。(「星のごとく玉のごとし黄金の質なり香味は簠簋(ふき)に実つるに堪えつべし」〜(同上))

天神さまのあとは、みかんの乙訓寺。

八条ケ池のある交差点を北にずんずん行くと、乙訓寺はある。

道中、長閑な田園地帯である。

嵯峨天皇の頃は、賑わっていたのだろうか。

乙訓寺に到着。

弘法大師とのご縁が深い。

乙訓寺は、牡丹の花の名所だそうで、春には、多くの参拝客で賑わうらしいが、シーズンオフの、この季節には、人影がない。

紅葉が綺麗。

辺りに人はいなかったが、一匹のニャンコさんがお出迎え。(写真には写っていません。)

ノラちゃんだろうか。

何かのお使いだろうか、じっとこちらを見ていた。

軽くご挨拶して、中に進む。

真言宗豊山派乙訓寺は、寺伝では推古天皇の勅命により聖徳太子が建立したと言われている。

弘仁2年(811)には、空海が乙訓寺の別当に任ぜられた。

翌年10月に空海と最澄がここで初めて出会い、仏法について語り明かしたといわれる。

そんな歴史的に重要な意味を持つのに、なんと静かなことだろう。

お庭は、よく手入れがされ、植えられているのは牡丹だろうか、まだ枝だけの状態で春を待つ。

みかんの木もあるとのことだが、どの木だろう。

まさか空海の頃のものではあるまい。

1200年前というのは、あまりに遠い。

南無大師遍照金剛

乙訓寺の後は、せっかくなので、西山浄土宗総本山光明寺へ。

宗祖円光大師法然上人が御歳43歳の時、日本で最初に念仏を上げられた立教開宗の地であるそうだ。

逆光で分かりづらいが、法然上人像。
こちらは、乙訓寺と対照的に、観光客で賑わう。

紅葉入山有料期間の最終日だった。


空海と法然、日本史上に残る傑出した偉大な二人の天才僧侶。

即身成仏を説く空海と極楽往生を説く法然、思想は全く違うように見えて、いずれも、衆生の救済を願う必死の思いは時を超えて、現代を生きる私たちの心の拠り所となっている。

南無阿弥陀仏