先日川崎大師平間寺にて「川崎大師で学ぶ読経入門」(朝日カルチャー湘南主催)を受講した。

講師は平間寺の藤田貫首さま。
昨年秋に開講した川崎大師で学ぶ弘法大師の教えの第2弾(もっと前にもあったかもしれないが私の知る限り)である。

主に般若心経に関しての説明であったが、般若心経の内容というよりは、「お唱え」の仕方についての講義だった。

心経の中に出てくる用語について説明があったあと、経典読誦の心得の説明がされた。
心構え、姿勢など仏さまに失礼のないように整える。

今回の新たな発見としては、心経の読み方に川崎大師と高野山で少し違うということだ。
川崎大師教学研究所の講座でも、いつもお唱えしているが、気づかなかった。
異なるのは3カ所。

1つめは是故空中。

高野山では、「ぜーこーくーちゅー」。

川崎大師では、「ぜーこーくーじゅー」。

2つめは無苦集滅道 

高野山では、「むーくーしゅーめつどう」。

川崎大師では、「むーくーじゅーめつどう」。

3つめは真実不虚。

高野山では、「しんじつふーこー」。

川崎大師では、「しんじっぷーこー」。

古義と新義の違いか?


説明の後、受講生一同で、般若心経のお唱えの練習をする。

さすが、川崎大師に集う善男善女のみなさんは、お経を読み慣れていらっしゃる。

大勢でお唱えする般若心経、とてもいい。


お昼ごはんも講座のうち。
精進料理。

箸袋の「川崎大師」の文字は空海の筆っぽい。

食事の前にもお唱え。

今日も命の元をいただけることに感謝して。

ところで、藤田貫首は大変ユーモアのあるお方。
講座の合間につのだ☆ひろの「般若心経」のCDをかけてくださった。
般若心経の歌詞にベートーベンの「第九」のメロディ、そして、ソウルフルな歌声。
こんな般若心経もあるのかと感心する。
藤田貫首のお話では、つのだ☆ひろさんは熱心な仏教徒でいらっしゃるそうだ。

また、貫首さまが般若心経の「阿耨多羅三藐三菩提」のところで「レインボーマンが唱えてましたね」と笑いながらおっしゃっていたのが、私には妙に嬉しかった。
私は「阿耨多羅三藐三菩提」を唱えるとき、レインボーマンが真っ先に頭に浮かぶのだが、周りの知り合いに聞いても、レインボーマンが「阿耨多羅三藐三菩提」を唱えていたことを覚えている人が全くいなかった。

仏教系特撮ヒーロー、レインボーマンは悪の組織死ね死ね団と戦う。
死ね死ね団は人の心に巣食う煩悩を表す、
世界平和を守るため、
レインボーマンは煩悩と戦っているのだ!
と考えるのは、仏教的解釈のし過ぎか?

講義の後は、大本堂で護摩修行の見学。
雨天のため、講義が行われた信徒会館から大本堂まで秘密の(?)渡り廊下を通って行く。

護摩修行の前に受講生一同で練習した般若心経をお唱えさせていただき、護摩焚きをする壇に上がった。
ご真言を唱える僧侶に囲まれて護摩修法を真横から拝見できる位置に坐る。(いつもは壇の下。)

予定になかったが、僧侶の方々が般若心経を唱えるときに受講生も一緒に唱えることになった。
お護摩のときに太鼓の音に合わせてお唱えする心経は、とても速く唱えるのだということが体感できた。

前回にも増して充実した時間を過ごすことができた。
真言密教は、知識で学ぶだけでなく、体感することが大事。
1日の中で、身を清めただし、仏さまに向き合う祈りの時間を持つことは、現代人にこそ必要なことに思われる。
神も仏も信じない、自分が全てという人も私の周りには多いが、そんな時間を持つことで、ほかの物質的世俗的なことでは得られない何かが得られるということを実感してほしい。
私が感じる「心が空っぽなのにこんなにも胸がいっぱい」という感覚がわかるだろうか。

別にお経でなくてもいいが、日本人の感性にはお経、特に般若心経が良さそうだ。

私は、有り難いことに、声明やお経などを学ぶ機会も得られ、密教を学ぶことがますます楽しくなってきた。
これからもこのような機会を利用して体験していきたい。


夢の中のその人は、ただ黙々と茶を入れていた。

お茶を入れるという行為、それ以外に何の意味もない。

もてなす、とか、歓ばす、とか、相手の心に一切入ってこようとしない。

その徹底した態度に、逆に私は心打たれたのだ。

その人は空海だった。


実際空海は茶を飲んでいたのか。

嵯峨天皇の詩に『海公と茶を飲み、山に帰るを送る』というのがある。


道俗相分れて数年を経たり

今秋晤語亦良縁

香茶酌み罷みて日云に暮る

稽首して離を傷み雲煙を望む


「海公」とは空海のこと。

嵯峨天皇と空海は茶を喫しながら、時を忘れて語り合うが、秋の日の暮れるのは早い。

別れが惜しいが雲煙の中に消えていく彼人を見送ろう・・・。


また、空海が嵯峨天皇に送った『梵字ならびに雑文を献ずる表(『性霊集』巻四)』には次のようにある。


窟観の余暇

時に印度の文を学び

茶湯坐し来たって

乍に振旦の書を閲す


瞑想の合間にはインドの文を読んだり、お茶を入れて中国の書を鑑賞しております、というのだ。


弘仁のちょっと優雅な文化人。

内実は苦労も多かったろう。

しばしば体調不良にもみまわれる。

長安での暮らしを思い出しながら、茶を飲んで書を眺めていたのだろうか。


私は夢の解釈はしないことにしている。

見た夢は忘れてしまってよい。

それでも心に残っていることは後から確実に分かる形で語りかけてくる。

私は知らず知らず空海に招かれ彼の茶を飲んでしまったのだ。



天台声明と真言声明を聴き比べ、そして、声明を唱えてみる。

朝日カルチャー横浜で2回にわたって開催された「天台声明と真言声明」を受講した。

講師は、天台宗の僧侶である末廣先生と真言宗の僧侶である小路先生。
講座の1回目では、それぞれの宗の先生から、天台声明及び真言声明の特徴について説明があり、実演していただいた。

天台声明と真言声明、実際聴いてみると、こんなに違うのかと驚く。
同じ歌詞(?)でもスピードが全く異なる。
力強く深い奥行きを感じる真言声明。
優雅でゆったりとした天台声明。
例えば、各宗派でよく用いられている『四智梵語』。

天台宗では5分くらいかけてゆっくりじっくり唱えられるが、真言宗では1分かからないくらいでリズミカルに唱えられる。

声明の独特の譜面は「博士」というそうだ。
「お魚博士のさかなクン」というときの「はかせ」と同じ読みだがイントネーションが違う。
譜面も天台と真言で異なる。

真言宗の『九條錫杖』、リズミカルで繰り返される「大慈大悲」の文句が耳に残る。



講座の2回目は、法要形式で声明がどのように唱えられているのか体験。
受講生もほんの一部だが一緒に唱えた。
息継ぎが難しくなかなか肺活量がないと辛いと思ったが、慣れれば楽しいだろうと感じた。
『散華』のときには、みなさん一緒に花びらを散らした。
声明の声に合わせてゆらゆらと舞う花びら。
とても楽しい。

写真の上が小路先生から、下が末廣先生からいただいた花びら。
カワイイ。
栞にしようかと。



声明を唱えながら、空海はどんな声だったのだろうか、と考えた。
空海は、明らかに聴覚優位の人だった。
全体的に感覚の鋭い人だったと思うが、音、声、言葉に関しては、独特の感性を持っていた。

鎌倉時代の高僧、明恵上人は空海の目玉を懐に入れてしまうという夢を見た。
空海ならば目よりも耳だろう、と思ったが、明恵上人は視覚優位の人だったようだ。
私が聴覚優位と体感覚優位であるせいで、空海は聴覚と体感覚の人に思える。
曼荼羅の表す調和の世界に、宇宙が奏でる音楽を聴くのだ。
それに、東寺真言七祖像に描かれた飛白体のゾクゾクする感覚。

声明、聴くことで耳で感じ、唱えることで体で感じる、大日如来の説く真理。