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☆私の本棚☆
読んだ本について思うところを書いています。
あくまでも個人の感想です。
☆〜〜〜〜〜☆〜〜〜〜〜☆〜〜〜〜〜☆松岡正剛著『空海の夢』は、その博学を思う存分盛り込んだ労作である。
著者の松岡先生は、ブックナビゲーションサイト『千夜千冊』を長期更新中、とっくに千冊を超えている。(当ブログの私の本棚シリーズもそのくらい頑張りたいものです。内容も回数も100分の1にも足りてないが。)
『空海の夢』、1回では語りきれないほど私もインスピレーションを刺激されまくっているので、細切れで書いていくことになりそう。
とりあえず、今回は、第25章「ビルシャナの秘密」を読んで思ったことなどを。
本書本章で、50歳前後以降の、特に東寺を給預されて以降の空海の日々について「大日如来の日々」と名付けている。
朝廷からの求めに応じて受法、修法を行い、願文や書物を著し、満濃池に続き、益田池の工事まで指揮した忙しさの中で、空海の胸に去来していたものは何か。
国家との関係が密接で、こんにち、空海を天皇や貴族に取り入って利用したという人もいるが、果たしてどうか。
松岡先生は、空海は、社会的地位や宗派的主導性などへの執着はなかったろう、という。
空海には「国家」など仕掛の多すぎる悲しき玩具であったに違いない、とも。
「ビルシャナの秘密」は、「アスラ=ビルシャナ説」に触発された松岡先生の「大日如来誕生の由来記」である。
詳細は省くが、大日如来、すなわち、毘盧舎那仏の由来がアスラ、すなわち、阿修羅であるという説があるようだ。
阿修羅とは、ご存知、興福寺の凛々しい少年の姿をした、あの仏さまである。
それがどこでどうなって大日如来になるのかは、本書をお読みいただくとして。
「ビルシャナの秘密」では、晩年の空海が、大日如来の日々を過ごしながら、その大日如来の正体をどのように捉えていたのか疑問を呈しつつ、密教は教主としてイデアの王国に棲むビルシャナを選んだ、と書いてある。
ここからは私個人の思いを綴りたい。
仏教といえば教主は釈尊、ゴータマ・ブッダである。
それに対し、密教は、歴史上の人物である釈尊ではなく、真理そのもの、宇宙そのものを人格化した存在を教主として求めた。
それが大毘盧舎那、大日如来だ。
真言八祖の第一祖は大日如来であり、その教えを第二祖金剛薩埵(こんごうさった)に伝えたことになっている。
いつどこで?そもそも金剛薩埵って誰よ?
それ以外にもその付法の系譜は疑問が多い。
始まりは神話的である。
だから密教はおとぎ話か、といえば、もちろん私はそうは思わない。
作り話だとしたら、話を作った人はやはり天才に思えるが、誰かが意図的に教主を大日如来にしたわけではないだろう。
そんなことより・・・。
大日如来は、歴史の中にいるのではない。
宇宙開闢以来、そこにもかしこにも存在し、説法を続けている。
この世界の音、響きは、全て大日如来の説法として聞く。
そして、その説法は、誰かのためとか何かのためではなく、如来の自受法楽(じじゅほうらく)、自分の楽しみのためなのだ。
そして自受用身(じじゅゆうしん)。
東寺講堂の大日如来にお会いするたびに、これは「私」と思ってしまう。
説法を聞いている私も楽しい。
大日如来、そして空海とともにあることに感謝。











