奈良博の空海展に続き、トーハクでは神護寺展が開催。



奈良博空海展と被っている展示品も結構あった。


一番の見どころはやはり高雄曼荼羅。


奈良博では胎蔵曼荼羅を鑑賞したが、トーハクでは金剛界曼荼羅を観ることができて、両部曼荼羅コンプリートできた。


高雄曼荼羅金剛界の大日如来さまをA4クリアファイルで。



裏は、胎蔵曼荼羅。



神護寺の空海さまは板材に浮き彫り。

表情が曼荼羅の仏さまのよう。

ふっくら丸いお顔。

お耳が大きい。

こちらは絵葉書。



神護寺のご本尊、薬師如来さまが素晴らしく、思わず手を合わせてしまった。

パンフレットのお方。

お顔の表情も荘厳な雰囲気。



空海の書、3部作「風信帖」「忽披帖」「忽恵帖」も目にすることができた。

3通目の「忽恵帖」、流麗な草書、あまりの美しさにため息しか出ない。


空海が唐から持ち帰ったお経や密教法具の目録である『御請来目録』もあった。

最澄の筆よりなる『御請来目録』は、空海の書いたものを、最澄が書き写したもの。

空海は、よく異体字を用いている。

代表的なものが、「空海」の「海」の文字。

上に「毎」、下に「水」と書く。

こんなかんじ。

(『風信帖』より)



最澄は、空海の『御請来目録』を書き写すのにあたって、異体字もそのまま写している。

最澄筆の『御請来目録』を見ると、「空海」の「海」は、上に毎、下に水だが、それ以外の「海」は普通にさんずいに毎だ。

最澄は、空海の書いたものをそのまま書き写しているから、空海がそのように書き分けていたと思われる。

空海のこだわりか。



神護寺には、2018年の晩秋にお参りした。

紅葉の季節も終わり、お山に静けさが戻った頃。

時雨に煙る夕暮れ、時を超えて空海に出会った気がした。









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私の本棚

読んだ本について思うところを書いています。

あくまでも個人の感想です。

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今回ご紹介するのはこちら。



末木文美士著『仏典をよむ 死からはじまる仏教史』


表題が「仏典をよむ」だけであれば、仏教の主な経論の(入門的な)解説本と思うが、副題の「死からはじまる仏教史」というのがミソ。

決して入門的な解説本ではないので注意が必要。

本書の目次を書き出せばわかりやすいだろう。


第一部 死からはじまる仏教

 第一章 大いなる死 『遊行経』

 第二章 死と生の協奏曲 『観無量寿経』

 第三章 他者と関わり続ける 『法華経』

 第四章 否定のパワー 『般若心経』

 第五章 心の中の地獄と仏 智顗『摩訶止観』

 第六章 禅の中の他者と死者 圜悟『碧巌録』

第二部 日本化する仏教

 第七章 現世を超えた秩序 景戒『日本霊異記』

 第八章 仏教は俗世に何をなしうるのか 最澄『山家学生式』

 第九章 この身のままに仏になる 空海『即身成仏義』

 第十章 贈与する他者 親鸞『教行信証』

 第十一章 脱構築から再構築へ 道元『正法眼蔵』

 第十二章 宗教国家は可能か 日蓮『立正安国論』

 第十三章 異教から見た仏教 ハビアン『妙貞問答』


各章に付された表題を見れば、「死」と「他者」という文言が目につく。


第一部は、仏教の歴史は、ブッダの教えから始まったのではなく、ブッダの死後、その死を乗り越えようとするところから出発している、という視点から書かれている。

そのために、仏教は、死者という異形の他者と向き合わなければならなくなった。

その展開上に大乗仏教が生まれることになったのではないか、そのような視点である。


第二部は、日本の仏典を取り上げて、仏教の土着化という視点から書かれている。

その土着化の過程で、日本と仏教が、互いに予想もしない異形の他者と関わることで、日本仏教特有のダイナミックな展開が生まれることになる。


以下は私の個人的な思いである。


第一部は、いずれも「仏典」といっても違和感なく、第二部の各宗祖の著作も「仏典」だといえばそうかもなと思うが、『日本霊異記』や『妙貞問答』は、仏教関連の著作に違いないが、仏教の教えを説いているのか?と疑問に思う。


しかし、読んでいて、一番面白かったのが、この2つだった。


『日本霊異記』は、仏教がわが国に伝来してから、およそ空海が活躍する平安初期までの民衆の暮らしが見えてきて、空海好きな私にとって、とても興味深い資料だ。

空海の伝説の雛形になるような話も結構ある。

伝来当初の仏教は、聖徳太子や蘇我氏が利用したように政治的な側面があったし、奈良仏教は、高度の悟りや難解な教理に走っている部分もあったが、『日本霊異記』は、もっとエネルギッシュな下層の僧の活躍に目を向けている。


『妙貞問答』は、日本人宣教師不干斎ハビアン(1565〜1621)の著作であり、キリスト教側から仏教、儒教、神道を批判して、キリスト教の教義を述べたものである。

その後、ハビアンは、キリスト教を棄てて、キリスト教批判の書『破提宇子(はだいうす)』を著す。

江戸時代の初期に、このような論者がいたことは興味深いし、現代に生きる私たちの宗教との向き合い方を考えさせられた。



今回、初めて、末木文美士先生の著作を拝読した。

文章が非常に上手い。

若輩者の私から言うのも恐縮だが、とても読ませる文章だと感心した。

(空海の文章のように)予備知識がかなり要求される内容だが、面白くて一気に読めた。


この本はブックオフで購入したが、その時一緒に購入したのが、河合隼雄先生の『ユング心理学と仏教』だった。

まったくの偶然で、河合先生のご著書の解説を書かれているのが、末木先生だった。

地味豊かな食事の後、嗜好の異なる新鮮なデザートをいただいた気分だった。




2024年初夏の旅の最後はお馴染みの東寺。



まずは、立体曼荼羅の大日如来さまにご挨拶。

今回は、大日如来さまとお話ししたいことがたくさんあったようだ。

「ようだ」というのは、自分でも意識の上ではよく分かっていないからだ。


大日如来さまとの対話は人間の言葉によらない。

それは魂と魂の対話だ。


宗教の意義は、魂の救済、魂の癒やしにある、といえるだろう。

法身大日如来は、六大所成、三密の働きを持つ人格的存在。

だからこそ生身の人間である私と魂レベルで対話ができるのだ。


大日如来さまと向き合うことで意識の上では届かないところで深い癒やしが得られる。

そんなひとときを過ごした。


ゴールデンウィークは、国宝五重塔の特別拝観中。

塔の内部にも心柱を大日如来に見立てて、周囲に須弥壇上に金剛界四仏と八大菩薩が安置され、曼荼羅世界が広がっている。

空海存命中は塔はまだなかった。

空海の遺志を引き継ぎ、現代まで守り続けている真言宗の方々には、本当に感謝の念にたえない。



国宝や重文の数々が文化遺産として保全・保護されているのは大変ありがたいことであるが、単に建造物や仏像が「もの」として保全・保護されるだけでなく、その背景にある思想、そして人々の信仰心も保全されていかないといけないように思う。


そんな信仰心を目の当たりにしたのは、弘法大師の強力な気を感じる東寺西院御影堂の中。

読経が聞こえた。

法要でもしているのかと思い、中へ入ると、椅子が並ぶ前列に座る年配の男性が熱心に経をあげていた。

堂内には他にお参りの人が一人二人と入れ替わり立ち替わり手を合わせてはお堂を出て行くが、男性はずっと経をあげている。

理趣経、般若心経、そして、諸尊のご真言を唱える。

僧侶ではない、一般の信者さんのようだが、かなり慣れた様子だった。


その日は私はご真言の途中で御影堂を後にしたが、翌日また御影堂をお参りすると、同じ男性がご真言を唱えていた。

まるで昨日の続きの場面のようだが、さすがに、男性のシャツが違っているので、昨日からずっと唱えていたわけではなかろう。

この方は毎日御影堂でお経を唱えているのか?

ご真言の後男性は立ち上がり、僧侶のように、真言宗特有の、あの膝カックンカックンの礼をし、膝をついて深く礼をした。

そして、去って行った。


こんなふうに信仰する心はずっと続いていくのだろうか。


御影堂の中で、

虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん

と空海の声がした気がした。


おまけ。

次はコレ!