2024年初夏の旅の最後はお馴染みの東寺。



まずは、立体曼荼羅の大日如来さまにご挨拶。

今回は、大日如来さまとお話ししたいことがたくさんあったようだ。

「ようだ」というのは、自分でも意識の上ではよく分かっていないからだ。


大日如来さまとの対話は人間の言葉によらない。

それは魂と魂の対話だ。


宗教の意義は、魂の救済、魂の癒やしにある、といえるだろう。

法身大日如来は、六大所成、三密の働きを持つ人格的存在。

だからこそ生身の人間である私と魂レベルで対話ができるのだ。


大日如来さまと向き合うことで意識の上では届かないところで深い癒やしが得られる。

そんなひとときを過ごした。


ゴールデンウィークは、国宝五重塔の特別拝観中。

塔の内部にも心柱を大日如来に見立てて、周囲に須弥壇上に金剛界四仏と八大菩薩が安置され、曼荼羅世界が広がっている。

空海存命中は塔はまだなかった。

空海の遺志を引き継ぎ、現代まで守り続けている真言宗の方々には、本当に感謝の念にたえない。



国宝や重文の数々が文化遺産として保全・保護されているのは大変ありがたいことであるが、単に建造物や仏像が「もの」として保全・保護されるだけでなく、その背景にある思想、そして人々の信仰心も保全されていかないといけないように思う。


そんな信仰心を目の当たりにしたのは、弘法大師の強力な気を感じる東寺西院御影堂の中。

読経が聞こえた。

法要でもしているのかと思い、中へ入ると、椅子が並ぶ前列に座る年配の男性が熱心に経をあげていた。

堂内には他にお参りの人が一人二人と入れ替わり立ち替わり手を合わせてはお堂を出て行くが、男性はずっと経をあげている。

理趣経、般若心経、そして、諸尊のご真言を唱える。

僧侶ではない、一般の信者さんのようだが、かなり慣れた様子だった。


その日は私はご真言の途中で御影堂を後にしたが、翌日また御影堂をお参りすると、同じ男性がご真言を唱えていた。

まるで昨日の続きの場面のようだが、さすがに、男性のシャツが違っているので、昨日からずっと唱えていたわけではなかろう。

この方は毎日御影堂でお経を唱えているのか?

ご真言の後男性は立ち上がり、僧侶のように、真言宗特有の、あの膝カックンカックンの礼をし、膝をついて深く礼をした。

そして、去って行った。


こんなふうに信仰する心はずっと続いていくのだろうか。


御影堂の中で、

虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん

と空海の声がした気がした。


おまけ。

次はコレ!