足が自然に人気のない山を探し求めている。ふと見上げるとそこには西
方寺がある。割とこじんまりしている風な寺である。私はふとその西方寺
に行ってみたくなった。前に一度、中学の修学旅行で訪ねたことがある。
西方寺こと別名苔寺。京の西、洛西に位置するその寺はビロードの絨
毯で、庭一面を敷き詰めたかのように苔が覆っている。この寺は、小さい
ながらも威厳とそれにあった風格、そして色彩がある。苔で埋め尽くされ
た石段はとても素晴しい。他はあまりこれといって見所のない寺だが、な
ぜか心落ち着くものがあったのを記憶している。
この位の寄り道をしてもいいだろう、そう思い私は石段を上がって行く。
緑の苔がとても美しく、輝いて綺麗だ。上は見ずに私は半ば惹きよせられ
るようにただじっと下の苔を見つめながら、ひたすら上がって行く。日頃鍛
えていない体は実に正直なものでそれ程すごくもないこれしきの階段を
上がるのに息が荒くなってくる。息を殺しながら石段を上がりきり、いざ
真っ直ぐ見つめる。途端、体が痺れる感に打たれた。身動きができない。
荒くなっている息のことも忘れ、ただ茫然と立ち尽くしているしかできな
かった。
私が目を上げたそこには、紅葉の素晴しく鮮やかで華やかな世界が上
にあり、下にはこれまた素晴しく広々と深い苔が隅から隅へと広がってい
る。まるで赤と緑の世界である。今日は平日のためか、お参りする人も観
光に訪れている人も誰一人としていない。
私は一言発するだけで精一杯だった。中学時代に来た時は季節は春
だった。暖かい五月の中旬だった。だからこんな世界を見るのは初めての
経験である。見つめていると赤色に染まった紅葉たちと緑色に輝いている
苔たちとが互いに重なって行く、惹き合うかの如く迫って行く。その二つの
世界がゆっくりと交わり、一つの世界が生まれる。それはまさに奇跡で
あった。一直線になったその線がいように眩しい。光だと思った。なんて温
かいのだろう、この苔は私の下で私を支え、大きく抱え込み、強く、逞しく、
広々と見つめ、常に守っていてくれる父親のようだ。そしてこの紅葉は上か
ら私の頭を撫で、温かく包み込み、優しく、微笑み、すがすがしく見つめ、
常に抱き締めてくれる母親のようだ。
涼しい風が私の頬を掠めてゆき紅葉がさわさわと大きく、小さく揺れる。
涙が止まらなかった。両親が死んだ時も姉が死んだ時もK氏と別れた時
も傷ついたけれど涙は出なかったのに、この温かく清らかな世界に出
会って私の心がこの世界と交わり、共鳴して、どうしようもなく涙が止ま
らないのだ。
清涼な風は姉のようであり、私の周りを軽く飛んでいる。
木々たちと風の音に身を任せて目を閉じる。世界が語りだす。
(だいじょうぶ)
(がんばれ)
(まけるな)
暫く傷心の心を癒してくれるその甘い囁きに耳を傾け、その温かさを
体一杯吸収する。暫くして風が止み、目をそっと開けると元の位置に
戻っていた。
帰ろう。私は一人ではない。家族がいる。いつもこのように私の傍に
いてくれている。なんていうことだろう、私は自分に負けてその心も忘
れていた。K氏のことは辛かった。淋しかった。悲しかった。けれど私
はまだ若い。人生がある。希望がある。あの、一直線になり輝いていた
光がある。なにも早めることはない。私が幼少の頃に家族を亡くし、最
愛の恋人を失ったことは宿命であり、かえられぬさだめだとしても「運
命」は違う。
運は常にこの自らの力で掴み取ってゆくもの、勝ち取ってゆくものな
のだ、私は自分から逃げていた、己はとても弱くて可哀想なのだと悲
劇を装って思い込んできた、今それが間違いであったことが解った。
もう一度やり直そう。自分の運は自分で変えてゆくのだ。
私にはこの赤の世界と緑の世界、そして風があるのだから。