このブログは小さな家に暮らすアラカン主婦の日常を綴ったブログです。

 

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今回は私の両親の事について何回かに分けて書きたいと思います。

1回目はこちらです。

 

 

前回は、父親の元を逃げ出して祖父母の所へ行ったところまで書きました。

 

私達姉妹を暖かく迎えてくれた祖父母。

近所に住んでいた親族とこれからの事が話し合われました。

 

今までの父親からの仕打ちを話し「祖父母の所から学校へ通いたい。」そう訴えました。

 

しかし年金暮らしでは2人を育てるのは無理だろう。

施設に入れるしかないんじゃないかと言う親戚もいました。

 

こうなったら父親の元に居るより施設の方がましだと思いそれも仕方ないなと思った瞬間に祖母の口が開きました。

 

「施設には行かせない。ここから学校へ通わせる」

 

そう言ってくれたんです。

嬉しかったな。

 

父親のせいで持っていた財産を失ってしまったギリギリの生活です。

その上に孫二人を育てるのは無理だと周りの大人たちは言いましたが、祖母の気持ちは変わりませんでした。

 

私達姉妹は祖父母に迷惑をかけないように必死にアルバイトをしたし、光熱費の節約のために深夜の勉強は控えて朝日が一番に差し込む台所で早朝に勉強しなるべく負担をかけないように努力しました。

 

当時、私は学校が終わってから直ぐにお蕎麦屋さんのアルバイトに行き終了は21時、土日ももちろん朝から夕方まで働きました。

当時の時給で333円でした。

当時としてもかなりの低賃金でした💦

 

それでも学校行っていない時間帯はかなりシフトに入れてもらえたし賄いも出ました。

帰りが遅くなる時にはお店の人が車を出してくれて自宅まで送ってくれたのも助かりました。

 

祖父母との生活は決して楽ではありませんでしたが、辛い悲しいという思いはせずに学校生活を送れたことは間違いなかったです。

 

社会に出て祖父母の元を離れてから結婚するまでは恩返しのために月に10万円仕送りをしました。

特に贅沢をせず最小限の生活をすれば何とか出せる金額でした。

 

無事に社会人としてスタートが切れましたが、それもこれも姉がいてくれたから乗り越えられたと思っています。

 

2人で力を合わせて頑張りました。

そんな姉の言葉に愕然とした事がありました。

 

次回「蒸発した両親の過去、子供が追う記憶」その⑭続きます。

 

 

 

 

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