第十章 曖昧な花憐が罪人坑に落ちる夜
〈二〉
「将軍、聞きたいことが……」
「黙れ!俺の兵士を殺しておいてこれ以上何が聞きたい?俺は何も答える気はない。かかってこい!」
太子殿下の質問を遮り叫ぶ刻磨に、花城が一歩前へと出る。
「殺したのは僕だ。彼は手を出していない。彼の質問に答えたら僕が相手になる」
「貴様らは奴の手先なんだろうが。どっちも同じだ!」
「刻磨将軍、誤解していませんか?私たちは半月国師を始末するためにこの砂漠まで来たんです。彼女の手先であるはずがないでしょう?」
憤激していた刻磨だったが、太子殿下の言葉に黙り込み、しばらくしてから再び口を開いた。
「奴の指図で来たんじゃないなら、なぜ兵士たちを殺す必要がある?」
「あなたが私たちを落としたからですよ。身を守るためには仕方ないではないですか」
「でたらめを言いやがって。俺は貴様らを落とすつもりなんて毛頭なかった。そもそも俺は止めたのに、貴様らが勝手に飛び降りたんだろうが!」
一瞬言葉を詰まらせる太子殿下の隣で、花城は思わず片方の眉を跳ね上げ笑いを堪える。
「ええ、そう、その通りです。確かに私たちは自分から坑の中に飛び込んだ」
少し気まずそうに言いながら、太子殿下が言葉を続けた。
「ですが将軍、お互いこの坑の底に閉じ込められているわけですから、今はとりあえず統一戦線を組むというのはどうでしょう。半月国師はどうして門を開けて軍を引き入れて、人々を殺させたんですか?」
「一緒になって俺を攻撃して、貴様ら二人とも卑怯にもほどがある」
太子殿下の言葉に耳を貸さず、過ぎたことをいつまでも繰り返す刻磨に、花城の目が冷たく光る。
「自分の兵士を思うなら、この人の質問に答えた方がいい」
脅すような言葉を口にする花城を、刻磨が睨みつけた。
「あいつらは貴様に殺された。あいつらを出しにして俺を脅しても無駄だ」
「でも死体はまだある」
「貴様、どういうつもりだ?」
「それはお前次第だな。お前こそどういうつもりだ?」
不敵な笑みを浮かべながら、花城は言葉を続ける。
「兵士たちの来世での息災を願うのか、それとも生まれた時から血まみれの肉塊になっていてほしいのか、どっちなんだ?」
「貴様!?」
花城の言わんとしていることを理解した刻磨の形相が一気に険しくなる。
「あいつらの遺体に手を出すな!あいつらは皆優秀で勇敢ないい兵士なんだ。なのに、こんなにも長い年月この罪人坑の底で過ごして、十分すぎるほど不幸な目に遭った。今日、貴様に消されたのは解放と言えるのかもしれない。だが、これ以上は絶対にあいつらを辱めるな。……貴様らは、本当に奴を始末しに来たのか?」
やっと話を聞く気になった刻磨に、殿下がほっとした様子で穏やかな声で答える。
「嘘ではありません。彼を知り己を知れば百戦殆うからずと言いますが、半月国師について外の者が知っていることはごくわずかで、対処したくてもどう手をつければいいのかわからないんです。刻磨将軍、あなたはかつて彼女とともにいた。何か助言をいただけないでしょうか」
その言葉に敵意を引っ込めたのか、意気消沈したように兵士たちの死体の山に座った刻磨を見て、花城は一歩下がり口を閉じた。
「なぜ奴が門を開けて永安人を町に入れたか知らないのか?ただ俺たちに報復したかったからだ。奴は半月国を恨んでいたからな!」
「半月国を恨んでいた?半月国師は半月人ではないのですか?」
「そうだ。だが完全にそうというわけでもない。奴は半分は永安人なんだ!」
「えっ……」
刻磨の話に、太子殿下の顔がますます困惑した表情になる。
「俺はあの時やっとわかった。奴は敵の将領と結託して、その時になったら門を開けると約束していたんだ。たとえ死ぬ運命だったとしても、あの裏切り者を殺さなければ俺は死んでも死にきれないと思った!!だから兵士を城楼に突っ込ませて奴を捕まえて引きずり下ろし、罪人坑の上に吊るして殺した。あの棒に吊るしてやったんだ!」
「刻磨将軍、だからあなたは配下の半月軍を率いてあちこちで国師を探しては捕まえ、その度に罪人坑の上に『吊るして殺した』のですか?」
「千回やっても一万回やっても足りないくらいだ!奴の方もあちこちで凶暴化した俺の配下を捕まえて罪人坑に落したんだからな!奴はこの坑の周囲に奴にしか解けない強力な陣を張っていて、落ちたら二度と上れない。奴の裏切りを恨みながら戦死した兵士たちの怨念はこの上なく強い。唯一、永安人の血肉を食らうことで恨みが晴れて成仏できるんだ。さもないと、夜な夜な大声で吠えるばかりで解放されることはない!」
「だからあなたは絶えず人を捕まえては放り込んで彼らに与えていたのですか?」
「他にどうしろと?あいつらが下で泣き叫ぶ声をただ聞いていろとでも言うのか?」
刻磨のその問いには答えず、太子殿下は次の疑問を口にする。
「投げ入れたのはあなたたちが捕まえてきた人ですか?それとも……」
「俺たちは半月国からあまり遠くへは行けない。でも都合のいいことに奴の蛇は暴れるのが好きでな。よく町から這い出てあちこちで人を咬む。そうすると、咬まれた隊商は善月草を探しに町に入ってくるんだ」
「皇宮の中にいた土埋面を埋めたのもあなたたちですか?」
「そうだ。あいつは皇宮の財宝を盗みに来やがった。まあ、国の財宝は二百年前に永安人に一つ残らず奪われたがな」
「なぜ彼を埋めただけで、ここに放り込まなかったんですか?」
「善月草を育てるにはどうしても肥料が必要だ。でないと蠍尾蛇を抑えられなくなる。俺たちだってあんなものに出くわしたくない」
刻磨の話を聞きながら、花城は僅かに眉を潜めた。
隊商たちは半月国の領土に入らなければ無事に半月関を通れると言っていた。それでも「通るたびに半数以上が失踪する」ということは、町から這い出た蠍尾蛇が人を咬み、善月草を求め半月国の領土に入らざるを得ない状況になるということだ。半月国に人を誘い込み、兵士たちに食わせるために、蠍尾蛇に人を咬ませているとしか思えない。しかし、蠍尾蛇を操る半月国師と半月兵士は敵対していると言う。さらに、刻磨たちは蠍尾蛇を恐れ、人間を肥料に使ってまで善月草を育てているのだ。
(やはり、単純な話ではないようだな……)
花城の隣で同じようにしばらく考え込んでいた太子殿下が、質問を少し変え刻磨に再び尋ねる。
「将軍、私たちはさっき町に入った時、黒衣と白衣の二人組の女冠を見かけたのですが、何者か知っていますか?」
その時、上からの視線を感じ花城は太子殿下に「しっ」と耳打ちした。
罪人坑の入口を見上げると、壁から体を半分ほど乗り出し覗き込んでいる黒い人影が見える。横を見ると、太子殿下も無言でその影を見つめていた。
視線を戻すと先程までは半分ほど見えていた影が突然全身になり、徐々に近づいてくる。ボロボロの黒衣をなびかせ飛び降りてくるそれは、先ほどまで長い棒に吊るされていた半月国師だった。
「刻磨、どうなっているの?」
飛び降りてきた国師が、半月語で尋ねる。
「どうなっているだと?あいつらは全員死んだぞ!」
「どうして?」
「貴様があいつらを全員突き落としてこのクソみたいな場所に閉じ込めたからだろうが!」
「誰かいるの?もう一人いるでしょう」
国師が太子殿下の方に少し顔を向けたが、息遣いも呼吸もない花城の事には気づいていないらしい。
「奴らが俺の兵士を殺したんだ。貴様も嬉しかろう?とうとう全員死んだんだからな!」
刻磨の言葉に国師が押し黙る。
しばらくすると、国師の手のひらに小さな火の光が浮かび上がった。
国師が手に乗せている炎は非常に小さく、罪人坑の底を隅々まで明るく照らすことはできなかったが、微かな光が太子殿下の姿をうっすらと闇から浮き上がらせる。同じように花城の姿も少し見えるようになったのか、太子殿下が花城の方を振り向き顔を上げた。
殿下の視線が花城の喉のところで一旦止まり、またゆっくりと上へと動きだす。
花城の顔はよく見えないらしく、じっと顔を見つめながら一歩近づいてくる殿下に、花城は少し困ったように笑みを浮かべた。
その時、ふいに遠くから刻磨が叫ぶ声が響く。
炎に照らされ、つまびらかになった兵士たちの惨状に、刻磨が頭を抱えている姿が見えた。そんな刻磨の絶叫を聞いても、国師は無感情な様子で「良かった」とだけ呟く。
「良かっただと?貴様、どういう意味だ!?」
「私が言ったのは、これで私たち皆やっと解放されたっていう意味よ」
激高する刻磨にそう言ってから、国師は暗闇の中にいる太子殿下に向かって口を開いた。
「あなたたちが殺したの?」
「これは不慮の事故なんです」
「何をぬけぬけとでたらめを言ってやがる!?」
割って入ってくる刻磨に、「人生なんて不慮の事故の連続ですよ!」と殿下がばっさり切り捨てる。
「あなたたちは誰?」
「私は上天庭の神官で、こっちは……私の友人です」
国師の視線がゆっくりと花城に移りしばし目を留めた後、またすぐに太子殿下へと戻っていった。
「今まで神官が来たことなんて一度もなかったのに。あなたたちはとっくにここを見捨てたと思ってた。ここから出たい?」
「もちろんです。でもここには陣が張られていて出られなくて」
太子殿下がそう言うと、国師は罪人坑の高い壁に歩み寄り、手を伸ばして壁を一度叩いた。
「陣は解いたからもう行っていいよ」
予想外の展開に太子殿下が言葉を失っていると、突然上の方から声が降ってきた。
「おーい!誰かいるか?いないならもう行くぞ!」
聞き覚えのある声に花城は「ちっ」と舌打ちすると、すぐに姿を「三郎」に変える。
「扶揺!下にいる!私はここだ!」
罪人坑の入口から覗き込んでいる人影に、太子殿下が手を振りながら大声で呼んだ。
「まさか本当に下にいるんですか?あなたの他にも何かありますか?」
「その……ここには私以外にもいろいろあるから、なんなら君も自分の目で見てみるといい」
太子殿下の言葉に、扶揺が巨大な火の玉を坑の底に向かって投げ入れる。たちまち罪人坑の底全体が照らされ、白昼のように明るくなった。
高く積み重なった死体の山と血の海を見た殿下が、花城の方をちらりと見る。花城は殿下を見つめ返すと、にこりと小さく微笑んだ。
「君はあの残った隊商の人たちを見ていたんじゃなかったのか?」
上から飛び降りてきた扶揺に太子殿下が声をかける。
「三時辰待ってもあなたたちが戻らないので、何か起きたんだと思ったんです。商人たちには結界の中から出ないよう言って、とりあえず様子を見にきたんですよ」
「結界は長くは持たないぞ。君が離れてしまったら彼らは置き去りにされたと疑うだろうし、結界から出てしまうかもしれない。そうなったらどうするんだ?」
「どうするもこうするも、死にたい奴は八頭の馬で引っ張ったところで止められやしませんよ。で、そのモノたちはなんなんです?誰と誰ですか?」
満身創痍で地面に突っ伏している刻磨と項垂れたまま一言も口を利かない半月国師を見ながら、扶揺が不思議そうに殿下に尋ねる。
「そちらは半月国の将軍で、こちらは半月国の国師だ。彼らは今……」
太子殿下がそう説明をしたその時、刻磨が突然跳び上がり怒声とともに半月国師に殴りかかった。
殿下がすぐに止めに入るのではないかと思い花城はちらりと殿下を見たが、動く気配はない。
「貴様の蠍尾蛇はどうした?呼んでみろ!そいつらに俺を咬み殺させればいい!早く俺のことも解放しろ!」
「刻磨、蠍尾蛇はもう私の言うことを聞かないの」
「なら、なぜ貴様を咬み殺さない!」
刻磨だけが一方的に国師を殴り続けている様子を、花城は表情一つ変えず見つめる。
扶揺はさすがに見ていられなくなったのか、眉間にしわを寄せ口を開いた。
「ちょっと、あいつらは何を言ってるんです?止めなくていいんですか?」
太子殿下もこれ以上見ていられなくなったのか、前に出て刻磨を掴んで止める。
「将軍!将軍!提案なんですが、永安国の賊がいったい誰なのか話してもらえないでしょうか。私たちは……」
すると突然、国師がぱっと太子殿下の腕を掴んだ。
一瞬、国師が殿下を攻撃するのかと思い動いた花城の足が、半月国師の目を見てぴたりと止まる。
太子殿下を見つめるその真っ黒な双眸は、信徒の目と一緒だった。
国師の顔を見つめていた太子殿下の顔に、驚きと困惑の表情が滲む。
「君なのか?」
「花将軍?」
言葉を交わす二人に、花城は片方の眉を跳ね上げた。刻磨と扶揺は、口を開けて呆然としている。
「あなたたちは知り合いなんですか?」
一歩前に出て、刻磨を殴りつけ気絶させてから扶揺が尋ねた。しかし、太子殿下はその質問に答えることなく、しゃがみ込んで国師の肩を掴み彼女の顔をじっくりと見つめている。
「半月?」
「私です!花将軍、まだ覚えていてくれたんですか?」
太子殿下に名前を呼ばれ、国師の顔に感激の色が表れた。
「もちろん覚えている。でも……。どうして君は自分をこんな姿にしてしまったんだ」
ため息をこぼしながら言う太子殿下の声からは、戸惑いと悲しみが滲んでいる。
「ごめんなさい、校尉……私が駄目にしてしまったんです」
将軍だの校尉だの、ここまで聞けばさすがに察しがついたようで、扶揺が愕然とした様子で尋ねた。
「校尉?将軍?あなたが?どうしてそうなるんです?もしやあの将軍塚って……」
「私の塚だ」
そう答えた太子殿下に、花城は心の中でやはりと呟く。
「あなたが二百年前にここに来たのは、ガラクタ集めのためだって言いませんでした?」
「それはその……なんというか、話せば長いんだ。私だって元はそのつもりだったんだから」
白い目を向ける扶揺に、太子殿下が少し言いにくそうにしながら口を開いた。
「最初は確かにこの近くでガラクタ集めをしていたんだ。でも国境では動乱がしょっちゅう起きてよく脱走兵が出たから、軍はやたらと人を捕まえて頭数を揃えていたんだよ」
「それで捕まって無理やり連れていかれたの?」
花城が尋ねると、殿下が小さく頷く。
「捕まったよ。でも、どうせ何をしたって大差ないから、兵になれと言うなら別にそれでも構わなかった。その後、何度か強盗を追い払っているうちに、どういう訳か校尉にまでなってね。私の顔を立てて『将軍』と呼んでくれる人もいたんだ」
「でも、どうして彼女はあなたのことを『花将軍』と呼ぶんですか?別に花っていう姓でもないのに」
怪訝そうに尋ねる扶揺に、殿下が手を少し左右に振った。
「それは気にしないでくれ。あの頃、適当に偽名を考えて花謝と名乗っていただけだから」
偶然とはいえ、殿下が「花」を姓として選んだことに思わず花城の頬が僅かに緩む。
太子殿下はそれに気づくことなく、話を続けた。
「国境辺りの戦が多発する地域にはたくさんの孤児がいて、私は暇があれば彼らと少し遊んだりしていてね。その中の一人が……半月だったんだ」
二百年前の半月との出会いをどこか懐かしむように話すのを、花城はじっと見つめながら黙って聞いていた。
「その後は……ほとんどあの将軍塚に書いてあった通りだ」
そう言って殿下が話を終えた後、花城は一つだけ気になっていたことを口にする。
「でも、石碑にはあなたが死んだと書いてあった」
「あ、あれは、もちろん死んではいなかったよ。死んだふりをしたんだ」
扶揺が顔中に信じられないという表情を浮かべているのを見て、太子殿下が慌てて言い繕う。
「あまりに大勢に踏まれすぎて、起き上がれなくなったんだ。だから、死んだふりをするしかなかったんだよ」
両国の兵士が戦いだし、飛び出した自分の体に突然刀と剣がすべて向かってきたんだと説明をする太子殿下に、扶揺が強い口調で問い質した。
「どうせあなたがいつも間に入ってきて邪魔ばかりしていたから、両方の恨みを買ったんじゃないんですか?そうじゃなかったら、どうしてあなたを見るなり斬りつけたりするんです?だいたい、自分がかなり恨まれてるって自覚はあったんですよね。なのに、どうしてそんな大勢の中に突っ込むんですか?避けようと思えば避けられたでしょうに」
「覚えてないんだよ!」と言い返している殿下を見つめながら、花城の脳裏にはその時の殿下の姿が思い浮かんでいた。なぜ太子殿下が自ら両国の兵士に斬られるような行動をしたのか……。
太子殿下が自らを犠牲にする行動をするのは、誰かを守ろうとする時だ。
小さな声で「ごめんなさい」と謝る半月に、花城の想像は確信へと変わっていく。
「刻磨は、半月国師がある暴動のあとで中原に行ったと言っていた。その暴動って兄さんと関係ある?」
「ああ、多分……」
「私を助けるためなんです」
何かを思い出したように呟く殿下に続き、半月が口を開いた。
「花将軍は私を助けるために踏み潰されたんです」
やはりと思いながら、自分の体を両手で抱きしめている太子殿下を花城は少し悲しげな目で見つめる。
そんな視線に気づいてか、太子殿下が慌てて「潰されてないっ、本当に潰されてないから!」と否定した。
「へえ、人のためにご自分を犠牲にしたというわけですか」
ひねくれた様子で言う扶揺に、殿下が手を左右に振りながら答える。
「いやいや、そういうわけでは。具体的なことは私もあまりはっきり覚えていないけど、あの時、子供が二人遊んでいて、私は彼らを抱きかかえて逃げるつもりだったような気がする。でも、逃げるのが間に合わなくて、振り返ったらすぐそばで両軍が戦い始めていたんだ」
「どうしてそんなこともよく覚えてないんですか?」
「私が今何百歳か考えてみてくれ。一年でもたくさんのことが起きるし、十年もあれば人は完全に変わってしまう。ましてやこんなに長い年月だぞ?一つ一つ鮮明に覚えてなんかいられるわけがないじゃないか。それに忘れた方がいいことだってある。何百年も前に数百回斬られたことや数百回踏みつけられたことを覚えているより、昨日食べたすごく美味しい肉饅を覚えていた方がいいだろう?」
太子殿下の最後の言葉に、花城は僅かに笑みをこぼした。
「ごめんなさい」
また謝る半月に、太子殿下がため息をつく。
「あのね半月、もしそれが理由で私に謝っているんだったら、まったくそんな必要なんてない。君を助けたのは私が自分で選んだことで、君は悪くない。もし君が謝りたいのなら、他に謝るべき人がいるんじゃないかな」
半月は少し驚いて呆然とすると、俯いて口を閉ざした。
「でも……私が覚えている君の印象が二百年前のままだからかもしれないけど、私には君が復讐のために謀を巡らして人を裏切るような子だとは思えないんだ……。いったい何があったのか話してくれないか?どうして君は城門を開けたんだ?」
少し考え首を横に振りまた沈黙する半月に、太子殿下が質問を変える。
「じゃあ、君はどうして外に蛇を放って人を襲わせたんだ?」
「私が蛇を放ったんじゃありません」
「なんだって?」
「私が放ったんじゃなくて、あの子たちは自分で逃げたんです。どうしてだかわからないけど、私の言うことを聞いてくれなくなってしまって。花将軍、嘘ではありません」
太子殿下が口を開くより早く、扶揺が横から口を挟んだ。
「誰だって、捕まればそんなふうに言う。わざとじゃないなんて言い訳は通用しない。そんな台詞は聞き飽きてる。関を通る者は確かにお前の蛇に咬まれて怪我をしたんだ。連行するから手を出せ」
扶揺が半月と刻磨を捆仙索で縛り上げる。
「よし。これで今回の目的は達成できましたね。任務完了です。もういいでしょう!」
これで切り上げようとする扶揺に、花城が「彼女に嘘をつく理由はない」と言うと、殿下も小さく頷きながら半月に向かって問いかけた。
「今はまったく蠍尾蛇を操れなくなったのか?」
「操ることはできます。大抵は私の言うことを聞いてくれるけど、たまに聞かない時があって。どうしてかは私にもわかりません」
「蛇を呼んで、私たちに見せてくれないか」
太子殿下の言葉に半月が頷く。
半月が目を閉じ小さな声で何か唱え始めると、そう経たないうちに赤紫色をした蠍尾蛇が一匹、死体の下から這い出てきた。
蠍尾蛇を見つめていた太子殿下と半月に緊張が走った瞬間、蛇が舌を引っ込めるなり突然大きく口を開け、思いっきり跳ねると太子殿下めがけて襲いかかってきた。
パンッ!
殿下が動くより早く蠍尾蛇を破裂させ、花城は殿下の前に立ち半月から守るように手を広げる。
「やっぱりそいつはあなたを騙しているんですよ。お前、こんな状況で蛇がこの人に咬みつけるとでも思っていたのか?愚かにもほどがある」
冷たい声で言い放つ扶揺に、蛇を険しい表情で見ていた半月がぱっと顔を上げた。
「騙してなんかいません。私の言うことを聞かない蛇がいるって言ったでしょう。今のがそうだったんです」
「お前の言うことを聞いているか聞いていないかなんて、誰がわかる?」
「これは決して私が呼んだ蛇じゃありません」
扶揺と半月が言い合っている間にも、死体の山の隅々から無数の蠍尾蛇が這い出てくる。
「そいつらを下がらせろ。全部がお前の言うことを聞かないわけじゃなんだろう」
半月は蠍尾蛇を追い払おうとしているのか眉間にしわをきつく寄せていたが、その間にも蠍尾蛇は途切れることなく次々に現れ、花城と太子殿下に向かってじわじわと迫ってきた。
(失せろ……)
花城が冷たい目で蛇たちを一瞥すると、何かを感じたのかそれ以上は恐れて近づこうとはせず少し距離を取るように後ずさっていく。
首を垂れ花城に服従するような格好をしていた蠍尾蛇たちが、今度は向きを変えて扶揺の方へと這っていった。
近づいてくる蛇たちに扶揺が無造作に手を振ると、袖の中から炎が噴き出し周囲を取り囲んでいて蛇たちを焼き殺していく。
「とりあえずここから離れて上へ行こう。話はそれからだ」
この状況が長く持たないと考えたのか、太子殿下がそう言うと、腕から白綾が勢いよく上空へ向かって飛んでいった。しかしすぐにまた殿下の腕に戻り、手首に巻きつく。
「戻ってきてどうするんだ?陣はもう解かれているし、君を阻むものなんてないだろう。早く行っておいで」
殿下が諭すように言っても、白綾は手首に巻きついたままぶるぶると震えている。
花城が上の方へ目を向けると、上から蠍尾蛇が一匹落ちてきて扶揺の肩先に「パシッ」と当たった。
それを無造作に掴んだ扶揺が、蠍尾蛇だと気づき顔色を一変させ半月の顔に投げつける。
半月が縛られている両手を上げそれを上手く捕まえると、蛇は攻撃することなく彼女の手首にぐるりと体を巻きつけた。
すぐにまた「パシッ」と音がして、二匹目の蠍尾蛇が上から落ちてくる。全員が上を見上げる頃には、まるで蛇の雨のように数百もの赤紫色の蠍尾蛇が近づいてきていた。
「扶揺!火だ!炎の壁を打ち上げて空中で一網打尽にするんだ!」
殿下の言葉に、扶揺が手のひらを噛み破って手を振ると、血しぶきが一筋上に向かって飛び、ぼうぼうと燃え盛る障壁と化す。その炎の障壁は何十丈も高く昇り、空中に浮いたまま燃えている。それに触れた蠍尾蛇は瞬く間にすべて焼き尽くされ、降り注ぐ蛇の雨を食い止めた。
「いいぞ!扶揺、本当に君のおかげだ」
大量の法力を消耗し顔色が少し青褪めている扶揺は、身を翻して下にいる蛇も燃やしてから半月に向かって口を開く。
「お前はまだこいつらが従わないと言い張る気か?お前が操っているんじゃないなら、なぜこの蠍尾蛇はお前を襲わないんだ?」
そんな扶揺に、花城が少し小馬鹿にしたように笑った。
「単にあんたの運が悪いだけじゃないか?蛇は僕らも襲わなかった」
振り向きざまに凄まじい目つきでじろりと花城を睨みつける扶揺に、殿下が慌てて声をかける。
「まずはこの蛇がどういうことなのかはっきりさせないと。外に出よう」
「どういうことかですって?半月国師が嘘をついているんじゃなかったら、あなたの隣にいる奴がこそこそやったんでしょう!」
せせら笑う扶揺の言葉に、殿下が半月国師と花城へと目を向けた。
「私は彼らではないと思う」
穏やかだが毅然とした殿下の言葉に、花城は僅かに口角を上げる。しかし、扶揺はさらに敵意を表情に滲ませながら言った。
「太子殿下、とぼけないでください。ご自分の立場がおわかりですか?あなたの隣にいるモノがいったいどんな代物かは、とっくにわかっているはずです。今さら気づいていないなんて言わせませんよ!」