山形の旅を想う | アブエリータの備忘録

アブエリータの備忘録

Yesterday is history,
Tomorrow is a mystery,
Today is a gift.
That's why it is called "present".

 

旅を終えてから、反省その他、想うことがいろいろある。

 

 

計画段階で自分の興味を中心にネットや『るるぶ』で調べて日程その他諸々を決める。旅の楽しみの半分はこのようなリサーチにあると言っても過言ではない。旅程が整って出発数日前になると、旅をしてしまった気分になるのか〈なんでこんなメンドクサイこと計画したんやろ?〉と意欲が半減して気持ちが後ろ向きに。

 

 

そしてキャンセルしそうになる自分を励ますために旅の【大義名分】を考える。一番説得力のある言葉が『行きたいと思う所から呼ばれている』ということだ。信頼している人からこういう言葉を聞くと、〈よーし、行くぞ!〉と気合が入って前向きになる。

 

 

私の旅は、基本的にダンナと時空を別にするための【プチ家出】が目的で、同じ出かけるなら行きたい所へ…と行き先を選んできた。その後、全都道府県を制覇するとか、冥土の土産とか、後付けの理由が増えていった。

 

 

旅の何よりの効能は、背景が変わると日常のしがらみから解放されることだ。家に居れば否応なく入ってくる様々な雑音が旅の空では全く聞こえなくなり、家族の問題や心配事など一切忘れて《私の世界》が広がり、自分のためだけの時空を確保できることなのだ。

 

 

前置きが長くなったが、旅から帰っていつも反省することは、《リサーチに偏りがある》ということ。視野狭窄的に行き先を決めるので、思い込みやカン違いをしていたことを旅先で気づくことが多い。しかし今回は【知恵袋】でずいぶん幅を広げていただいたので事前調査は万全だった。

 

 

もう一つの反省はかなり具体的。《訪れた場所でいただくパンフレットをろくに見もしない》こと。入場券のようにすぐにバッグに入れてしまって、あらためてじっくり見るのは帰宅してからだ。そして見逃してしまったことが多いことに気づく。くそんな見所があったの?〉〈あんなに遠くまで行ってながら…〉と毎回何らかの悔しい思いをしている。

 

 

しかし、そんなことも全ては《ご縁があるかどうか》なのだから、出会わなかったモノとはしょせん縁が無かったのだと考えるようにしている。

 

 

立石寺と本山慈恩寺は、お寺を拝観するというより物見遊山の感覚だった。立石寺はお寺とはいえ、芭蕉の句と合わせてやはり観光地色が濃い。本山慈恩寺では、山門、本堂、塔、鐘楼、などの建物も仏像、神将像も全て文化財として見学したような気がして、私の内なる宗教心を刺激するものではなかった。

 

 

しかし、出羽三山巡りには、もともと修験道の山だったことから、パワーをいただけるかもしれないし、何かメッセージを受け取れるかも知れないと期待していた。

 

 

神仏習合の山々である出羽三山。月山はその姿を垣間見ただけで訪れることはかなわなかった(私の体力では参拝は一生不可能だと思う)が、他の羽黒山や湯殿山では非日常の空間での良い体験となった。

 

 

現地で手に入れた出羽三山のパンフレット【自然と信仰が息づく「生まれかわりの旅」】から引用してみよう。

 

 出羽三山は、山形県の中央にそびえる羽黒山(414m)・月山(1984m)・湯殿山(1504m)の総称であり、月山を主峰とし羽黒山と湯殿山が連なる優美な稜線を誇ります。

 

  おおよそ1400年前、崇峻(すしゅん)天皇の御子の蜂子皇子(はちこのおうじ)が開山したと言われる羽黒山は、羽黒修験道の行場であり中枢です。修験道とは、自然信仰に仏教や密教が混じり生まれた日本独特の山岳信仰です。

 

 羽黒修験道の極意は、羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれ変わりを祈る山(未来)と見立てることで、行きながら新たな魂として生まれ変ることが出来るという巡礼は江戸時代に庶民の間で、現在・過去・未来を巡る「生まれかわりの旅」(羽黒修験道では「三関三渡(さんかんさんど)の行」と言う)となって広がりました。

 

 

55歳で亡くなった父はいつからか修験道にハマってた。実家には今でも【大先達】(数多くの入峰(にゆうぶ)修行を積んだ修験者を尊重して大先達と呼んだ)の証書?が額に納められて飾ってある。

 

 

私の結婚後、父はダンナと私の弟を連れて大峰山に登った。もともと大学のワンゲル部だったダンナはこの【登山】に喜んでついて行ったものだ。

 

 

前に行者についてのブログを書いた。その時にも貼り付けた写真だが、私が小学生の頃に近くの山の行者講に参加した時のものだ。数年前に京都市から引っ越してきたばかりの私が、なぜ地元のこんな行事に参加したのかわからないが、集合写真では同級生の新1年生7人が写っている。

 

 

 

他の友達はみんなワラジ草履をはいているのに私だけが運動靴だった。ワラジが無かったことがすごく残念だったのをよく覚えている。そして、慣れない衣装で用を足したときに右足の靴を濡らしてしまったことも。それにしてもなんで化粧をしているのだろう?稚児行列のようなもの?

 

 

父が修験道に目覚める何十年も前に私はすでに修験道とのご縁が繋がっていたのかもしれない。

 

 

出羽三山近くの村落を車で走っている時、名前だけが書かれた立て看板が目に飛び込んできた。それを見た瞬間、驚くと共に感動して涙が出そうになった。

 

 

看板には亡き父の名前が書かれていた!

 

 

その立て看板は周辺の村落の議員の名前だろう。姓は漢字で名はひらがなで書いてある。選挙の時に使用する名前の表記だと思う。それが父の名前と同姓同名だったのだ。

 

 

後で調べてみると、それは地域の町議会議長をしている人の姓名だった。名前の漢字は父とは全く違った上、普通に読めばそんな読み方はしないような漢字が使われていた。

 

 

これと良く似たことが数年前の旅でもあった。その時は父と完全に同姓同名の名を付けた【○○△△商店】という横書きの看板だった。その時も、父が一人旅の私の安全を守ってくれているような気がして感動したものだ。

 

 

山形から呼ばれたというのは、父が呼んでくれたということなのだろうか。父の名前を見たことでこの旅の理由を感じた気がする。でも、父はなんで遠い山形に居るのだろう。死後の世界でもなお修行を続けているのだろうか。

 

 

湯殿山で生まれかわれたかどうか…私の心境に大きな変化は無いようだ。願わくば、次に試練を前にしたときに、前より賢くてたくましい私でありますように!

 

 

そんな縁(えにし)を感じた山形の旅だった。

 

 

亡き父との縁を最初に感じたのは、数十年前に福井県の若狭神宮寺を訪ねた時だったが、それについては回を改めようと思う。