『象の旅』ジョゼ・サラマーゴ
16世紀ポルトガル。
国王ジョアン3世は、従弟でオーストリア大公マクシミリアンの婚礼祝いに象を贈ろうと決める。
インドからやって来て、ポルトガルで暮らしていた象のソロモンと象使いのスブッロは、遥かウィーンを目指して旅立つ。
騎兵隊、物資補給隊、食料係、象の飼葉と水樽を運ぶ荷車…隊列を組み多くの人間を伴って、象の旅が始まる。
お邪魔しているブログでこの作品を知って、これは何としても読まねばと、丁度京都に行く事もあり、丸善に走った。
京都の丸善で本を買うという行為には、どこか特別感が漂う。
だからと言うわけでもないけど、他にもタガが外れたようにボリューム系の本を何冊かお買い上げ…
おそらく万人受けする物語では無さそうだが、わたしはとても好き。
まず、表紙の絵が良い。
何でもムガル帝国時代の作者不詳の絵だそうで、何とも言えない味がある。
尻尾を上げて駆け足気味のゾウさん、ちょっと嬉しげだ。
背表紙のカバーにもこのゾウさんが描かれていて、本棚から見つけた時は、かなり嬉しくなった。
さて物語は、16世紀にポルトガルからオーストリアまで旅をした象の実話に基づいている。
象を中心とした一行のロードノベルではある。
が、例えば最近読んだ『両京十五日』などとは物語の性質が決定的に違う。
旅の物語と言えば、主人公と同化して冒険の中に身を置き、一緒に旅路のあれこれを体験し、ドキドキハラハラを共有する、というのが魅力のひとつ。
しかしこの物語は、まるで違う。
言うならば神の視点で、象とその供の者たちの道行きを遠くから眺めている。
どこか冷めていて皮肉めいた眼差しで。
多分に蘊蓄を差し挟みながら。
果たしてこれだけの労力を使って象を贈る必要があったのか、振り回される人間の身にもなってみろ、一体誰得やねんという心の声がうっかり溢れ出した?
まさかこういうアプローチになっているとは。
これがノーベル文学賞作家の着眼点なのか、
それとも「物語」というものに対するわたしの期待値がイノセンス過ぎるのか…
良質な物語にはちょっぴりの「毒(狂気と言ってもいい)」が必要、というのがわたしの持論なのだけれど、とかく動物ものについてはその辺りが緩くなる。
無垢の動物の「イイ話」を求めている自分がいると気づかされる。
そんな甘さを見透かされた気分。
作者は、象に対して変に情を移さない。
したり顔で象の気持ちを代弁したりもしない。
だからといって、象を見下しているわけでも、象に対して愛着がないわけでもない。
政治や宗教のごたごたに利用され、権力者の気まぐれで名前を変えられ、遠い道のりを歩かされても文句のひとつも言わない、そんな象のソロモン(オーストリア大公によってスレイマンと改名される)の姿を淡々と描く。
象使いスブッロ(同じくフリッツと改名される)についても然り。
喜び勇んで旅をしたとは思えないが、かといって人間に振り回される可哀相な動物としても描かない。
その距離感が、逆に象の道行きに陰ながら寄り添っているような印象を与える。
同時に、人間(特に権力者)への風刺が効いた物語に仕上がっている。
ソロモンは、旅路を共にした人夫や騎兵隊と別れを惜しみ、人々の期待に応えて奇跡を起こし、少女の命を救う。
ポルトガル王妃は、ソロモンを手放した途端ソロモンに対する愛着が芽生え、涙する。
それすらも、どこか白々しく芝居じみて見えるのは気のせいか。
多くの人に感動を与えた、とか、愛された、とか、人間の尺度でソロモンの生涯に意味を与えようとすること自体がナンセンスだ。
ソロモンは可哀相な象ではなかったかもしれないが、それでも冬のアルプスを越える旅は相当過酷だったはずだ。
ソロモンはアジアゾウなので、寒さには弱かっただろう。
少なくとも現代では、飼育下の動物に対して、人間の都合ではなく、その動物の幸せを一番に考えるべきとする動物福祉(アニマルウェルフェア)の考えが浸透してきているのは小さな前進のはずだ。
ソロモン、少しは時代が君に追いついて来たよ。
【書誌情報】
『象の旅』ジョゼ・サラマーゴ
木下眞穂訳
書肆侃侃房、2021(原著2008)
ゾウの本あれこれ