やっと自分の中では
①荒川左岸・堤防上にあった主要道のこと
②荒川堤防嵩上げ・拡幅化のこと
③西遊馬・土屋周辺の寺社や歴史散策
④土屋古堤&遊馬横堤のこと
⑤水神宮碑のこと
落堀(押堀)跡と思われる池のそばの堤防上や旧河道を締め切った今は無い堤防の堤外地側にある水神宮碑…以前探索した時は存在に気付かなかったり深くは調べられませんでした。
次は⑥指扇駅周辺の…?
『宝が来るように…』シリーズの後編へ突入した!と思いますが
もうねえ…相変わらず何度も書いては保存寸前で
下書きがフリーズし止まる、消える…滞ってます
※MicrosoftEdgeでも同様…
そもそもお前は何を伝えたいのか?と思うのでしょうが…
自分でもわかりません⇐バカ
もう少しお付き合いください。
( ゚Д゚)
内容自体は、以前載せた
に準じていますが
以前訪れた時の宝来地区の気になった某所
少し変化が!?
まずは既出ですが前回に少し戻って周辺散策し辿ってみます。
↑最初見た時なんで堤防が二重にあるの?って思いましたが…
↑これが慶長年間に関東郡代・伊奈備前守忠次が土屋に陣屋を構えて古い時代の流路を締め切り
堤防(土屋古堤&遊馬横堤など)で築き新田開発した所とは……
思いもしませんでしたが
※備前堤とか他は有名で史跡で紹介もあるのに?
該当地域に伝承を伝える案内板や史跡案内などのモニュメントは一切無いので確証できませんが
堤防の痕跡や地形から
今は指扇駅周辺地域がその堤の場所だったと思います。※違っていたらすみません
堤防の縁に沿って灌漑用途の溜池(落堀かも?)もあった所
辿ってみると以前からあった家や土地の方が道路面より僅かに低い所もあるのが不自然に感じた部分。
ここなんかも左の方が傾斜ありで道路面より低いです。
※水捌け性のため道路面(※中央部)が高い場合が殆んどですが舗装の度古くからの人家より段々高くなってしまう場合と下水が完備の道路なら直下の排水構に流し易く低い場合もありますが通る度気になった点です。
歩道橋が見えて県道2号線(旧国道16号)と交差
川越電気鉄道(西武大宮線)と旧堤防はどうなっていたか?または明治になり川越新道が開通してからは?
道の陰影を…見ると堤防前後に勾配を付けて越えたのか?気になりますが廃線後の航空写真では該当の堤防も無用になってからは
切通しっぽい所だったのでしょうかね?
戦後すぐの航空写真で指扇駅周辺を見ると
(´・ω・`)!?
思わず唸って見入ってしまった所です。
堤防跡に沿って進みます。
※画像は既出と日にちが違う時の画像でUPしています。
郵便局の手前で左折し
堤防が向きを変えて宝来方面へも堤があった頃は
川越線・盛土部分の路盤と堤防天端は同じ高さでした。
ここはホントに頭上に注意です。
アンダーパスを抜けると…
凄い所にホーム
指扇駅は別に高架線の駅ではなく
従来の駅舎があった南口は橋上駅舎化され
↑Googleマップのストリートビューで開業当時からの昔の駅舎
北口も広場や周辺道路を含めて新しく駅舎が作られた指扇駅です。
JR川越線の開業は?
昭和15年7月22日です。
アンダーパスを潜り旧堤防があった左へ出ると?
↑川越線の線路路盤の高さが堤防のあった頃は同じ高さでしたがすっかりないです。
不思議ですが…新しく堤防が荒川左岸に出来れば無用の堤
でも?散々触れているように歴史を感じる堤跡
あっ!?
何が出来るのでしょうか?
工事名
【滝沼川第1-10排水区下水道工事】
宝来のこの地区は水路が多いなと感じます。
なるほど…そういう訳ですね。
堤防があった頃(S22)と1970年代の航空写真
1960年代の航空写真と同右画像を比較
1970年代後半~80年代前半と比較
堤防跡に住宅地や団地が作られたのだと思いましたが…突如!?
不思議と家が段々減って空き地が増えて…
最新の航空写真だとさらに減っています。
右の明治期迅速測量図で気になった神社マークが土地の歴史を知るヒントかも?と後述します。
さいたま市は何をしようとしているのか?
不思議に思ったのですが答えが分かって良かったです。
去年撮った時と違い奥には?新築の家が建ち始めています。
ずいぶん工事が進捗しています。
自分…こういう工事見るの好きですw
下水道工事だから大きな…幅が狭くて深~いw
↑空き地の規模から…こういうのを想像していました。
既存の下水道や排水路では都市化とゲリラ豪雨で
設計雨量の想定を上回るから交換や新規敷設しているのだと思いました。
昔々は堤防でその後宅地化されて建ち並んでいた家が無くなり、新たに下水管が埋め込まれています。
※歩行者用通路から撮影
土留めを打ってから鉄骨で補強し穴を掘りフムフム
なるほど…
完成すればまた家を建てて住めるから立ち退きの不便は強いるのでしょうが効率的に事業を行っているようですが時間が工事に掛かるまでが大変でしょうね。
工事が既に終わっている所
滝沼川に架かる滝沼橋
草が流れてました⇐嘘
滝沼川は江戸時代の頃より上流の村々から出る悪水(灌漑用に使った余り水や谷間からの湧水など)で下流の宝来では荒川の堤防で出水時や水量がある時は流れが圦で滞り滝沼のように湿地になるのが悩まされて村同士で水争いになっていたそうです。
新編武蔵風土記稿の宝来地区と隣接する現・指扇領別所(別所村)では小名に【瀧沼】と呼ぶ所あったそうです。
※乾の方角なので村の北西辺りかな?
戦後撮られた航空写真だと荒川河川改修と同時並行だったのか?早い段階で流れの改修を受けているのが分かります。
赤い矢印が滝沼川の旧流路と思われますが西遊馬を流れて荒川と合流しますが
滝沼橋から振り返って…?
今作っている下水道(排水路)はここに流れ落ちるようです。
こんな風に出来るのか!
昔の家々が立ち並んでいた地域と気になった所へ
果樹園があります。
遊具がある公園?指扇駅近くで下宝来の自治会館がある所…
神社ですね。
神明神社と稲荷社ですかね?
この辺りは、市町村合併を遡ると
さいたま市⇒大宮市⇒指扇村⇒宝来村⇒下寶来村で江戸時代は上・下寶来村があったそうです。
先ずは新編武蔵風土記稿の上寶来村
自分なりに要約すると※間違っていたらすみません
古くは寶(宝)来野と呼ばれた荒川沿いの土地にあり水害多い所なので差(指)扇領の村々より秣場を刈る所で野銭を治めていた…
山内豊前守知行の差(指)扇領寶来野野高百六十石二斗三升とある。
天和二年(1682)領主・豊前守荒川の岸へ新たな水除けの堤防を築き開墾して【寶来村】と名付ける。
今のように二村(上・下寶来村)になったのは分からないとあります。
次は下寶来村
上寶来村と内容同じですが…
気になる記述?
先程の神明神社(神明宮)は村(下寶来)の鎮守との事。
一部抜粋して要約すると
古くは寶来野と呼ぶ原野でしたが
寛文四年(1664)始めて開墾し【下谷新田】と言ったが
後に寶来村呼ばれ上寶来村が出来たから下寶来村と名付けられ呼ばれたようです。
さいたま市西区宝来の地域を見て…
既存の村々との地形上の境界を強く感じます。
宝来の由来については西区のHPにあり【地名由来】を引用させて頂きました。
『かつては大雨の度出水する草原だったこの地を開墾し村として独立させた領主が新村の前途を祝して嘉名をつけた』
ここでいう領主は…
指扇山内家は
土佐藩を起こした山内一豊の甥です。
秣場にしか利用されす…宝が来るようにと開墾し新田開発が上手く行くように願った善政を行った領主がいたようです。
指扇駅は綺麗ですね~
↑西区から画像引用
周辺より地形が低い所だったようです。
Googleマップで俯瞰で見てみます。
自分には旧堤防と地区別に色分けすると
↑こんな感じに見えます。
県道57号線の通る辺りも一部は自然堤防を活かした通りではと高低差で感じます。
次は宝来周辺を散策です。
今日もご覧頂きありがとうございます!