宝が来るように…⑤水神宮碑のある場所 | 力太郎のブログ

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近所の散策や自転車いじりとか…

だいぶ草刈りと整地されていてこの時は驚きました。

大宮武蔵野高校が見えますね!

西遊馬のほぼ中央

西遊馬公園や

荒川左岸堤防上です。

古来堤防上の道は丸堀と呼ばれた池(※落堀?)の北側で堤外地を通り千手堂の渡しで

川越方面へ

河川改修前、特に荒川が蛇行していた時の流路の湾曲や流れの強かった場所でしょう。

何気なく撮った写真にこの辺りが前田道下と小字で呼ばれる地域と知りました。

以前撮った写真で…

去年の春頃かな?

大型ダンプが堤防嵩上げ用にどこからか?土を運んでいました!

この時は荒川堤防天端の道路を共用せず専用の工事用道路が作られて運んでいました。

 

川越線高木踏切の手前で堤防嵩上げ工事中でした。

堤防の天端の高さをほぼ倍にするとなると…裾野になる部分も倍に広げるから…?

今まで運動場だった部分も

これだけ広大なスペースを使うようです。

堤防の嵩上げ拡幅化は…

今までの周辺の見慣れた風景も変わる気がして

通る度進捗状況の確認で写真を撮った気がします。

 

これだけ膨大な量の土はどこから来たのか?

川の近くだと砂混じりで適さないかも?

※堤防用に適した土は?

堤防に適した土は?②

山を切り崩したか?武蔵野台地の自分が住む地域で空堀っぽいのが多く造られたので

そこの残土かな?

と思ったりしましたが出所は分かりません。

ただ堤防に土を使うには長年培った工法で短所もありますが長所が大きいのでしょうね。

 

そう思った訳は昔の人が【土屋古堤&遊馬横堤】のような堤を作るにしても人力でしょうから…

何処から運んだかという点も気になります。

荒川左岸の堤防は江戸時代に大囲堤で連続して作られたようですが川筋と大分離れていても今と変わらない場所です。

広大な左岸の堤外地は昔から?変わらないのだと思いましたが…

今は全く存在しない不思議な【ノ】みたいな堤が?

明治期の迅速測量図に描かれない堤があり円弧状に堤外地に延びるので横堤の役割を担ったのでしょうか?

一部、横堤と一体化された状態で戦後の航空写真で残っています。

戦後撮られた堤防でも一箇所のみ痕跡が

今は存在しないです…

明治の大水害後から大正から昭和にかけての河川改修で

今の荒川・横堤が出来るまで使われたのでしょう。

 

川の流れも変われば堤も変わる…

そんな資料にも残らないような変化が気になった所で…

治水橋から左岸を上流へ進むと車で堤防天端を走れるのは…この辺りまででしょうか?

指扇方面行く時によくショートカットしていました。

西遊馬公園へ行こうと思えば堤外地側へ下り進めます。

 

荒川CRと合流する所

舗装が綺麗に直されていました。

冒頭の場所周辺

堤防の雑草が綺麗に刈られた後で

あれ?がよく見えると思いました。

耕作用地というか?堤防斜面に道路面が整地されてて何かこれから作るように感じました。

※後日の写真

またしばらくは通行止めになるのかな?

やっぱり!

仮設道路が作られて工事車両が整地しています。

水田でもなかったし

ずっと未耕作状態で湿地のような状態だったので驚きましたが…何が作られるのでしょうか?

何年か前に撮った写真

稲穂が垂れる田圃

この時はまだ嵩上げした所との境が見えていました。

話の展開が錯綜していますが…

堤防天端を進みます。

西遊馬公園への堤防を上がる道路

鬱蒼とした木々に囲まれた古民家前に…

今回の主役?

【水神宮】の碑です。

以前、ブログに載せたので…

何か…?見える!?(。´・ω・)?

 

 

↑今回も大体同じことを書こうと思いますが今の時点で感じた事、気付いた事は?

 

水神宮碑のある所は昔(最近ではなく)の堤防天端の高さでしょうか?

だいぶ風化し白くなっているのは白カビらしいです…

風雨に耐えながら長年

堤防天端を進む歩行者や自転車に向けて鎮座しています。

※誰も気にせず通り過ぎますが、初めて見た時に近付いた自分は一体w

自分が読める所の範囲で以前調べて分かったのは?

銘文には『遊馬村中』と

【慶応丁卯歳】 慶応3年(1867)に建立された碑との事!

慶応三年に遊馬村の人たち設置された水神宮碑は…

最初に思ったのは?

堤外地の別の場所に鎮座、祀られていたのが訳があって河川改修や堤防嵩上げで移された?と思いました。※千手堂の渡しがあれば遊馬側(西遊馬)にあってもおかしくないとか。

また慶応三年(1867)前後は全国で情勢不安や米価の高騰など各地で一揆あった頃、そんな厳しい時代にこれだけ大きい水神宮碑を置く人達の心中を想うと…どんな土地の歴史があるのか興味を持ち調べましたが分からず

河川を管理する某国土交通省荒川上流河川事務所っぽい所に問い合わせしても未だに回答なく無視です。

↑で、これを見ていて

落堀(押堀)で大水害の時に川の湾曲して水当たりの強い箇所は決壊したと記述あり

『丸堀』と呼ばれる辺り

平時は堤外地の灌漑用の池として利用されたのだろうと思う場所…

水神宮碑がある所から堤防を

そのまま堤外地側へ上り進むと…

!?

丸くはないがあの池が丸堀?

振り返ると左隅に水神宮碑

堤防嵩上げ後の天端は砂利道で誰も通らない…

やっぱりそうだ!!

度々、水害で決壊した所であれば…

村人の気持ちになれば水神宮を祀って鎮めたいとかあるのだろうと思いました。

だから?こっちを向いて鎮座しているのかな?

※自分がそう感じ思っただけで真相は謎ですがここに鎮座している歴史や意味を感じます。天気良い。

拡幅はは終わり嵩上げはどうなるのか?

JR川越線が従来の横堤天端高さの路盤を通る分

 

100%完成するのは難しいでしょうね。

さて、

旧堤防があった指扇駅方面へ向かいます。

↑これを見た時に堤防があったのだと…

【土屋古堤&遊馬横堤】ってこの堤防跡のことなのでしょうか?

【西遊馬仲野自治会】今は堤(内)外地で

住所表記で見られない字で【仲野】の名前が見られる自治会です。

お地蔵様へ道中の安全をお願いして…

昔の航空写真で堤防跡を散策中

 

指扇駅方面に進みます。

県道2号線(旧国道16号)

真っ直ぐ堤防が続いていました。

歩道橋の上から川越(上江橋)方面

大宮方面

この団地が横に立ち並ぶ方向が堤防があったような気がします…

大宮指扇住宅ですか?

この辺もまだ西遊馬です。

あれ…神社滝汗

よくある普通の懐かしい団地ですね!

これは神社ですね。

お参りすると…

水神宮碑だ!!

建立した年が堤防の水神宮碑と同じ

遊馬村中

刻まれた書体が一緒!?

ここの水神宮碑は世話人の名前などが分かりますね!

こちら側も

団地が出来てもちゃんと社や水神宮碑がこの場所に鎮座する意味とか…想いを感じて見つけられて良かったです。

昔からあったような感じに見えますね。

偶然か?

ちょうど堤防があった所に祀られている水神宮碑

そういう事ですか?

他の地域ですが水神宮のある所

う~む深い…⇐何がw

次はトンネルアンダーパスを抜けると

指扇駅は宝来だった?編です。

 

色々と街の歴史など教えてくれたようで新たな発見が嬉しかったです。

ようやく話の後編へwニヤリ

今日もご覧頂きありがとうございます!おねがい