こんにちは、リカです。
「この人にも、何か事情があるんだと思う」
昔の私は、
誰かに傷つけられるたびに、そう考えていました。
仕事が忙しいのかもしれない。
家で嫌なことがあったのかもしれない。
過去に傷ついた経験があるのかもしれない。
だから、
あんな言い方になったんだ。
そう思えば、
少しだけ納得できる気がしました。
相手を理解できれば、
自分の傷も小さくできると思っていたんです。
でも実際には、
相手の事情を考えるたびに、
私の気持ちの方が消えていきました。
私は、相手を悪い人にしたくありませんでした。
誰かに強い言葉を向けられても、
私はすぐには怒れませんでした。
最初に出てくるのは、
いつも相手をかばう考えでした。
疲れているだけかもしれない。
余裕がないだけかもしれない。
本当は悪い人ではない。
そう考えていました。
相手が悪いと認めてしまうと、
関係を見直さなければいけない気がしたからです。
距離を取るのか。
誰かに相談するのか。
もう我慢できないと伝えるのか。
どれも、
当時の私には怖い選択でした。
それなら、
相手にも事情があると考える方が楽でした。
関係を変えなくて済むからです。
心理学の言葉で、相手を説明していました。
心理学を学び始めてから、
私は人の行動を説明する言葉をいくつも知りました。
自己肯定感が低い。
承認欲求が強い。
不安をうまく処理できない。
過去の傷が反応している。
そういう言葉を知ると、
相手の理不尽な態度にも理由があるように見えました。
そして私は、
理由が分かれば受け入れるべきだと思っていました。
この人も苦しいんだから。
この人なりに傷ついているんだから。
私まで責めたらかわいそうだから。
相手の内面については、
かなり熱心に分析していました。
自分がどれだけ傷ついているかについては、
ほとんど分析していませんでした。
今思うと、
ずいぶん偏った研究です。
相談しているはずなのに、最後は相手を弁護していました。
ある時、
職場で続いていたことを知人に相談したことがあります。
強い口調で責められること。
人前で皮肉を言われること。
私にだけ細かく注意されること。
本当は、
かなりつらくなっていました。
でも話している途中で、
私は自分からこう付け足しました。
「ただ、最近忙しそうなんです」
「悪気があるわけではないと思います」
「私の受け取り方もあるかもしれません」
自分が傷ついた話をしているのに、
途中から相手の弁護人になっていました。
当然、
聞いていた人も深刻には受け取りませんでした。
「じゃあ、少し余裕がないだけかもね」
「気にしすぎない方がいいよ」
そう言われると、
私はまた自分の感じ方を疑いました。
分かってもらえなかったというより、
分かってもらえない説明を自分でしていたんです。
理解できる自分でいたかった。
私は、
感情的に誰かを責める人になりたくありませんでした。
相手の背景まで想像できる人。
簡単に人を悪者にしない人。
落ち着いて状況を見られる人。
そういう人でいたかったんです。
たぶん、
大人でいることと我慢することを、
混同していました。
傷ついたと口にするのは幼い。
怒るのは未熟。
距離を取るのは冷たい。
そんなふうに考えていました。
だから私は、
相手を理解する方向へばかり進みました。
自分の側へ戻る道は、
最初から選択肢に入っていませんでした。
相手の事情を考えるたびに、傷ついた事実を消しました。
本当は、
嫌だったんです。
人前で強く言われること。
質問しても面倒そうな顔をされること。
機嫌によって態度が変わること。
でも、
「相手にも事情がある」と考えると、
嫌だったと言いにくくなりました。
事情があるなら仕方がない。
苦しい人に腹を立てるのはかわいそう。
私が少し受け止めれば済む。
そうやって、
一つずつ自分の感情を引っ込めました。
嫌だったことを、嫌ではなかったことにする。
傷ついたことを、理解不足だったことにする。
限界だったことを、学びが足りないことにする。
相手を理解するたびに、
自分の現実を書き換えていました。
私が理解し続けても、相手の態度は変わりませんでした。
私はどこかで、
こちらが相手を理解し続ければ、
いつか相手も私を理解してくれると思っていました。
強く言われても反論しない。
不機嫌でも責めない。
相手の立場を考える。
そうすれば、
そのうち私の気持ちにも気づいてくれる。
でも、
実際には何も伝わっていませんでした。
私が黙っていると、
相手は問題がないと思いました。
私が笑っていると、
平気なのだと思いました。
私が相手をかばうと、
周囲も深刻ではないと思いました。
私の我慢は、
優しさとして伝わっていたわけではありませんでした。
何をしても大丈夫という情報だけが、
静かに伝わっていたのかもしれません。
ある朝、理由を考える力がなくなりました。
その頃の私は、
毎朝、職場へ向かう前から疲れていました。
今日は機嫌がいいだろうか。
何か注意されるだろうか。
昨日の返事はまずかっただろうか。
仕事の予定より先に、
相手の状態を予測していました。
ある朝、
玄関で靴を履いたまま動けなくなったことがあります。
行かなければいけない。
休むほどの理由はない。
相手にも事情がある。
いつもの説明を、
頭の中で並べようとしました。
でも、
その日はもう相手の事情を考える力が残っていませんでした。
ただ、
行きたくないと思いました。
ずっと押し込めていた自分の気持ちが、
ようやく一言だけ出てきたんです。
それでも、最初に責めたのは自分でした。
身体が動かなくなっても、
私は相手がおかしいとは思えませんでした。
私が気にしすぎるから。
私が弱いから。
うまく受け流せないから。
まだ自分の中に、
直すべきところがあると思っていました。
相手の言動を見直すより、
自分の感じ方を直す方が慣れていたからです。
自分を責める方が、
ある意味では簡単でした。
自分が変われば解決するという希望を、
まだ持っていられるからです。
相手が変わらないかもしれない。
話し合っても分かり合えないかもしれない。
離れなければならないかもしれない。
その現実を見るより、
自分の未熟さにしておく方が怖くありませんでした。
事情があることと、傷つけていいことは別でした。
あとになって、
ようやく分けて考えられるようになりました。
相手には、
本当に事情があったのかもしれません。
仕事で余裕がなかった。
家庭で問題を抱えていた。
自分の感情を扱うのが苦手だった。
それは、
あり得ることだと思います。
でも、
事情があることと、
誰かを傷つけていいことは別でした。
背景を理解することと、
その行動を受け入れることも別です。
相手が苦しいことと、
私が苦しさを引き取ることも同じではありません。
私は長い間、
この三つを全部一緒にしていました。
相手の事情と、自分の傷は両方あっていい。
以前の私は、
どちらか一つを選ばなければいけないと思っていました。
相手にも事情がある。
だから私が我慢する。
私が傷ついた。
だから相手は悪い人だ。
その二つしかないように感じていました。
でも実際には、
相手に事情があり、
同時に私も傷ついていた。
それでよかったんです。
相手を完全な悪人にしなくても、
嫌だったと言っていい。
背景を想像できても、
距離を取っていい。
相手を理解しても、
自分まで差し出す必要はない。
この見方を知った時、
私は少しだけ自分の側へ戻れました。
私に必要だったのは、相手より先に自分を確認することでした。
誰かに強く言われると、
私はすぐに相手の背景を考えていました。
なぜ怒っているのか。
何が不安なのか。
どんな過去があるのか。
でも、
先に確認してもよかったことがありました。
私は今、何を感じているのか。
この言い方を嫌だと思っているのか。
もう受け止めきれないのか。
相手を分析する前に、
自分の状態を確認する。
それは、
相手を思いやらないことではありませんでした。
自分を関係の外へ追い出さないために、
必要なことでした。
「理解できる人」でいることを、少しやめました。
私は今でも、
相手の事情を考えてしまうことがあります。
あの人も大変なのかもしれない。
余裕がないのかもしれない。
そう思うこと自体を、
やめたわけではありません。
ただ、
そのあとにもう一つ確認するようになりました。
それでも私は、
この扱いを受け続けたいのか。
相手の事情を知ったとして、
私の苦しさは消えるのか。
理解できることと、
引き受けられることは違います。
そこを分けるだけでも、
以前のように自分の感情を消さずに済むようになりました。
相手を理解するために、自分を見失わなくてもいい。
もし今、あなたも、
誰かに傷つけられた時、
すぐ相手の事情を考えてしまうなら。
本当は嫌だったのに、
「悪気はなかった」と自分へ言い聞かせているなら。
相談している途中で、
なぜか相手をかばってしまうなら。
一度だけ、
相手の事情を考える前に止まってみてください。
私は今、どう感じているのか。
本当は何が嫌だったのか。
どこまでなら受け止められるのか。
相手に事情があっても、
あなたが傷ついた事実まで消す必要はありません。
少なくとも私は、
そこを分けられなかったことで、
自分の限界が見えなくなっていました。
相手を理解することより先に、
自分の中で起きていることを見る。
そのために私が知っておきたかった視点を、
こちらにまとめています。