こんにちは、リカです。


「私が先に気づけば、みんなが動きやすくなる」


昔の私は、


それを気配りだと思っていました。

 

誰かが忙しそうなら、


頼まれる前に手伝う。

 

場の空気が重くなったら、


明るい話題を出す。

 

仕事が遅れている人がいたら、


責められる前にさりげなく補う。

 

誰かが不機嫌なら、


その人を刺激しないように全体の動きを調整する。

 

そうすれば職場は回る。


人間関係も荒れない。

 

当時の私は、


本気でそう信じていました。

 

実際、


私が先回りすると、その場は止まりませんでした。

 

ただ、


私が空気を読み続けた分だけ、


周りは空気を読まなくて済むようになっていきました。

 

私は、場の変化を仕事より先に見ていました。

 

職場に着くと、


私はまず周りの様子を見ていました。

 

誰の返事がいつもより短いか。


誰が机の引き出しを強く閉めたか。


誰と誰が朝から話していないか。

 

パソコンを立ち上げながら、


今日の機嫌の配置を確認していたんです。

 

仕事の予定表を見る前に、


感情の天気予報を作っていました。

 

今日はあの人に質問しない方がいい。


この件は昼から伝えた方がいい。


あの二人の間には入らない方がいい。

 

相手の機嫌はかなり読めるのに、


自分が朝から疲れていることには気づきませんでした。

 

読解力の配分を、


完全に間違えていたと思います。

 

会議の前から、誰が黙るかまで予測していました。

 

ある日の午後、


小さな打ち合わせがありました。

 

進行が遅れている仕事について、


担当者同士で状況を確認する場でした。

 

会議室へ入る前から、


私は少し緊張していました。

 

進行役の人は、


予定どおりに進まないと口調が強くなることがありました。

 

もう一人の担当者は、


責められると黙ってしまう人でした。

 

たぶん今日も、


同じ流れになる。

 

そう思った私は、


頼まれてもいないのに補足資料を作りました。

 

遅れた理由を説明しやすいように、


作業の経過を時系列で並べました。

 

責められそうな部分には、


先に代替案も書いておきました。

 

誰かが困らないように。


場が険悪にならないように。

 

まだ何も始まっていないのに、


私はすでにかなり働いていました。

 

強い声が出る前に、私は説明を引き取りました。

 

打ち合わせが始まり、


進行役の人が遅れについて尋ねました。

 

「これ、どうしてまだ終わってないの?」

 

担当者は、


資料を見たまま少し黙りました。

 

進行役の眉間にしわが寄るのが見えました。

 

空気が変わる。


そう思った瞬間、私は口を挟みました。

 

「途中で確認事項が増えたので、予定より作業が延びています」

 

私の担当ではない部分まで、


代わりに説明しました。

 

「今日中にここまで進めて、残りは明日の午前中で対応できると思います」

 

今度は、


今後の予定まで私が答えました。

 

進行役の人は、


「じゃあ、それで」と言って次の話題へ進みました。

 

場は荒れませんでした。

 

担当者も責められませんでした。

 

私は少し安心しました。

 

ただ、その瞬間に、


誰の仕事を誰が説明したのかは曖昧になりました。

 

空気を守ったつもりで、役割まで引き取っていました。

 

打ち合わせが終わったあと、


担当者から言われました。

 

「助かった。ありがとう」

 

私は、


「大丈夫です」と答えました。

 

本当は、


少し引っかかっていました。

 

私は資料を作り、


説明し、今後の予定まで組み立てました。

 

でもそれは、


私の担当ではありませんでした。

 

相手を助けたかったのは事実です。

 

同時に、


強い声が出る場に耐えたくなかったのも事実でした。

 

誰かのためだけではなく、


自分が不快な空気を感じなくて済むように先回りしていました。

 

でも当時は、


それを全部「気配り」と呼んでいました。

 

次の打ち合わせでは、最初から私を見られました。

 

似たような状況は、


その後も続きました。

 

誰かの説明が止まる。


相手の声が少し強くなる。


私は場を埋めるように補足する。

 

最初のうちは、


頼まれていないことを私が勝手にしていました。

 

でも何度か繰り返すうちに、


周囲の反応が変わりました。

 

質問が出ると、


担当者ではなく私を見る。

 

場が止まりそうになると、


私が何か言うのを待つ。

 

資料が足りない時も、


「リカさん、分かる?」と聞かれる。

 

私は気配りのできる人になったつもりでした。

 

実際には、


穴が開いたら自動で埋める備品のようになっていました。

 

誰も悪気なく、私に任せるようになりました。

 

ここで、


周囲が全員意地悪だったと言いたいわけではありません。

 

私が毎回補っていれば、


周りがそれを通常の流れだと思うのも無理はありません。

 

困った時に説明してくれる。


気まずくなったら話題を変えてくれる。


誰かが遅れたら先に調整してくれる。

 

私は何度も、


その役割を引き受けました。

 

しかも、


ほとんど不満を見せませんでした。

 

笑って対応し、


「大丈夫です」と言い、


終わったあと一人で疲れていました。

 

周囲から見れば、


私は得意だからやっているように見えたと思います。

 

少なくとも、


限界が近い人の動きには見えなかったはずです。

 

空気を読まない人ほど、仕事に集中しているように見えました。

 

職場には、


周囲の機嫌をあまり気にしない人もいました。

 

誰かが不機嫌でも、


必要なことだけ質問する。

 

場が少し重くなっても、


自分の担当ではない説明を引き取らない。

 

頼まれていないことを、


先回りして補わない。

 

昔の私は、


そういう人を少し冷たいと思っていました。

 

もう少し周りを見ればいいのに。


私ばかり気を使っている。

 

そんな不満もありました。

 

でも、


その人たちは空気が読めないのではなく、


自分の役割以外まで自動で引き取らなかっただけかもしれません。

 

一方の私は、


空気を読む能力をほぼ常時稼働させていました。

 

仕事へ使うはずの集中力まで、


周囲の感情管理に回していたんです。

 

「気づいた人がやればいい」と思っていました。

 

私は長い間、


気づいた人が動けばいいと思っていました。

 

誰かが困っている。


仕事が止まりそうになっている。


場の空気が悪くなっている。

 

気づいたのだから、


私が何とかする。

 

その方が早いし、


揉めずに済む。

 

でも、


毎回同じ人だけが気づいて動くと、


それは気配りではなく役割になっていきます。

 

誰かが先にやる。


だから他の人は見なくなる。

 

誰かが場を整える。


だから自分の言い方を振り返らなくなる。

 

誰かが不足を補う。


だから不足したままでも仕事が回る。

 

私は職場を円滑にしているつもりで、


周囲が気づかなくても済む仕組みを作っていました。

 

私の気配りは、問題が見えないようにしていました。

 

ある時、


仕事の割り振りについて話す機会がありました。

 

私は自分の負担が増えていることを、


遠回しに伝えようとしました。

 

「最近、補助に入ることが少し多くて」

 

すると、


相手は少し不思議そうな顔をしました。

 

「でも、いつも問題なくやってくれてたよね」

 

その言葉を聞いた時、


私は何も返せませんでした。

 

確かに、


表面上は問題なくやっていました。

 

間に合わなければ残業し、


しんどくても笑い、


頼まれる前に補っていました。

 

問題が起きる前に処理していたので、


周囲には問題そのものが見えていなかったんです。

 

私は負担を抱えながら、


負担が存在しない証拠まで作っていました。

 

帰宅後だけ、誰も気づかないことに腹を立てました。

 

仕事中の私は、


かなり感じよく動いていました。

 

「大丈夫です」


「こちらでやっておきます」


「気にしないでください」

 

そう言いながら、


足りない部分を埋めていました。

 

でも帰宅すると、


急に不満が出てきました。

 

なぜ誰も気づかないのか。


なぜ私にばかり頼むのか。


少しくらい周りを見てほしい。

 

ただ、


自分でもすぐに反論しました。

 

自分からやったのだから仕方がない。


頼まれた時に断らなかった。


何も言っていないのに察してほしいと思う方が悪い。

 

そこからまた、


伝え方の本を開きました。

 

周囲の不足を補ったあと、


自分への指導まで担当していました。

 

空気を読むことが、私の安全確保になっていました。

 

なぜそこまで先回りしていたのか。

 

あとになって考えると、


親切心だけではありませんでした。

 

誰かが怒るのを見たくない。


強い声を聞きたくない。


場が気まずくなる前に何とかしたい。

 

私は空気を整えることで、


自分が緊張しなくて済む環境を作ろうとしていました。

 

つまり、


空気を読むことは優しさであると同時に、


私なりの安全確保でもありました。

 

誰かが不機嫌になる前に動けば、


強い言葉を向けられずに済む。

 

誰かの失敗を補えば、


場が荒れずに済む。

 

だから、


やめたくても簡単にはやめられませんでした。

 

気配りを減らすことが、


危険を増やすことのように感じていたんです。

 

学んだ世界では、気配りは相互に返ってくるものでした。

 

コミュニケーションについて学ぶ中で、


相手の立場を想像することの大切さを何度も知りました。

 

相手の状態を見て声をかける。


場の空気を読み、伝える時期を選ぶ。


お互いが気持ちよく働けるように配慮する。

 

その考え方自体は、


今でも必要だと思います。

 

ただ、


そこには暗黙の前提がありました。

 

相手もこちらの状態を見ること。


負担が偏ったら調整すること。


配慮を一方的に使い続けないこと。

 

でも現実では、


一人が空気を読み続けるほど、


他の人が読まなくても関係は回ってしまいます。

 

方法が間違いというより、


気配りが相互に行われているかを見ていませんでした。

 

私が先回りするほど、説明する人がいなくなりました。

 

私が担当者の代わりに説明すると、


その場は早く進みました。

 

でも、


担当者は自分で説明する機会を失いました。

 

進行役の人も、


質問の仕方を変える必要がありませんでした。

 

私が話を柔らかくまとめると、


強い言い方をした人は、自分が強かったことに気づきません。

 

私が遅れを補えば、


仕事の配分に無理があったことも見えません。

 

私は問題を解決しているつもりでした。

 

実際には、


問題が表面に出る前に隠していました。

 

その場が荒れないことと、


関係が健全であることは同じではありませんでした。

 

空気を読まない時間を作るのは、かなり怖いことでした。

 

このことに気づいたからといって、


急に周囲を気にしなくなったわけではありません。

 

今でも、


誰かの声が強くなると身体が反応します。

 

場が止まると、


何か言わなければという気持ちも出てきます。

 

ただ、


以前より少し待つようになりました。

 

誰かが答えに詰まっても、


すぐ代わりに説明しない。

 

仕事が遅れていても、


担当者から相談される前に全部補わない。

 

場が少し気まずくなっても、


反射的に明るくしようとしない。

 

最初は数秒の沈黙でも、


かなり長く感じました。

 

でも、


私が埋めなければ、誰かが話し始めることもありました。

 

私が動かないと、初めて見えるものがありました。

 

ある打ち合わせで、


担当者が質問されて黙ったことがありました。

 

いつもの私は、


数秒も待たずに説明していました。

 

その日は、


口を挟まずに待ちました。

 

沈黙が続き、


胸のあたりが少し苦しくなりました。

 

進行役の人も、


担当者の返事を待っていました。

 

しばらくして担当者は、


自分の言葉で状況を説明し始めました。

 

途中で分からない点が出ると、


進行役の人が質問を言い直しました。

 

少し時間はかかりました。

 

でも、


私が補わなくても話は進みました。

 

私はずっと、


自分が動かなければ場が壊れると思っていました。

 

実際には、


私が待つことで初めて、他の人が動く余地ができたんです。

 

気づくことと、引き受けることは別でした。

 

私は今も、


周囲の変化に気づくことがあります。

 

誰かが困っている。


空気が少し重い。


仕事が止まりそうになっている。

 

気づかない人になったわけではありません。

 

ただ、


気づいたからといって、


必ず私が処理する必要はないと考えるようになりました。

 

これは誰の仕事なのか。


本人が対応する時間はあるか。


本当に私へ助けを求めているのか。

 

そこを少し確認する。

 

気づく。


待つ。


必要なら声をかける。

 

以前の私は、


気づくと引き受けるの間に空白がありませんでした。

 

その空白を作るだけでも、


役割の偏りが少し見えるようになりました。

 

周囲が空気を読まないのではなく、読む必要がなかったのかもしれません。

 

私は以前、


どうして周りはこんなに気がつかないのだろうと思っていました。

 

なぜ私の忙しさが見えないのか。


なぜ場が悪くなる前に動かないのか。


なぜ誰も負担の偏りを考えないのか。

 

でも、


私が毎回先に対応していれば、


周囲は気づかなくても困りません。

 

仕事は進む。


場も荒れない。


不足も表面に出ない。

 

私は空気を読むことで、


周囲から空気を読む必要を取り除いていました。

 

それを認めるのは、


少し悔しいことでした。

 

自分が配慮してきた結果が、


配慮されない状態を支えていたからです。

 

あなたが動かなかった時、誰が困るでしょうか。

 

もし今、あなたも、


誰かが不機嫌になる前に先回りしている。

 

頼まれていない仕事まで補い、


場が止まらないように話を引き取っている。

 

それなのに、


周囲が少しも気づいてくれないと感じているなら。

 

一度だけ、


自分が動かなかった場合を考えてみてください。

 

本当に職場全体が壊れるのでしょうか。

 

それとも、


本来担当する人が少し困るだけでしょうか。

 

誰かが自分で説明することになるでしょうか。

 

誰かが初めて、


仕事の偏りや言い方の強さに気づくでしょうか。

 

あなたが空気を読みすぎていることで、


見えなくなっている問題はないでしょうか。

 

気配りを全部やめる必要はないと思います。

 

ただ、


気づいた人が毎回処理する関係では、


気づかない人はいつまでも気づかないままです。

 

私は、自分が少し待つことで、


誰の役割だったのかが初めて見えることを知りました。

 

また反射的に場を整えそうになった時、


その空気を管理する担当は本当に自分なのか、考えてみてください。

 

気づくことと引き受けることを分け、


周囲の感情まで自分の仕事にしないための視点をこちらにまとめています。

 

>> 空気を読み続ける役割から降り、自分の「場」を守る視点はこちら