こんにちは、リカです。


「もう少し学べば、今度こそ人間関係をうまくできる」

 

昔の私は、何度もそう思っていました。

 

相手の言葉に傷ついたら、受け止め方を学ぶ。


何も言い返せなかったら、伝え方を学ぶ。


人の不機嫌に振り回されたら、自分軸について学ぶ。

 

学んだ内容を使えなければ、まだ理解が浅いのだと思いました。

 

だからまた本を買い、講座を受け、ノートへ書き写しました。

 

知識が足りない限り、現実が変わらないのは当然だと思っていたんです。

 

でも最後に私が掴んだのは、さらに優れた心理理論でも、どんな相手にも通じる完璧な言葉でもありませんでした。

 

もっと地味で、少し不格好なものでした。

 

目の前で実際に起きていることを、学んだ言葉より先に見る。

 

相手の感情と、自分の責任を分ける。

 

そして、自分が立っている場所を、簡単に相手へ明け渡さない。

 

私に必要だったのは、新しい答えを足すことより、答えの外にある現実を見ることでした。

 

その日も、私は「正しい対応」を探していました。

 

ある日の午後、私は職場で提出前の資料を確認していました。

 

その資料には、別の担当者から届く数字を反映する必要がありました。

 

私は前日から何度か確認していましたが、必要な数字がまだ届いていませんでした。

 

提出期限が近づいた頃、相手が私の席へ来ました。

 

表情は硬く、声もすでに少し強くなっていました。

 

「これ、まだ出してないの?」

 

私は胸が固くなりました。

 

いつものように、頭の中で正しい返答を探しました。

 

相手を責めない。

 

言い訳に聞こえない。

 

事実を簡潔に伝える。

 

できれば相手の焦りにも配慮する。

 

私は言いました。

 

「必要な数字がまだ届いていないため、受け取り次第すぐ提出します」

 

相手は、少し眉を寄せました。

 

「それ、先に取りに行けばよかったんじゃない?」

 

私はすぐに、自分の不足を探しました。

 

その言葉を聞いた瞬間、私は考えました。

 

確かに、もっと強く催促できたかもしれない。

 

電話でも確認すべきだったかもしれない。

 

数字が来ない場合を想定して、早めに相談するべきだった。

 

改善できる点はありました。

 

だから私は、また謝りそうになりました。

 

「すみません。私の確認が足りませんでした」

 

いつも使ってきた言葉が、ほとんど自動で出かかりました。

 

でも、その時ふと、別のことが気になりました。

 

私は本当に、何もしていなかったのだろうか。

 

前日に一度。

 

当日の午前中に一度。

 

昼前にも一度。

 

必要な数字について確認していました。

 

それでも届いていない。

 

私に追加でできたことはある。

 

でも、数字を送る側の遅れまで、すべて私の確認不足にするのは違う気がしました。

 

以前なら、相手の言葉を正しい前提で聞いていました。

 

相手の声が強い。

 

表情が険しい。

 

言い切るような口調で話している。

 

それだけで、相手の見立てが正しいように感じていました。

 

私は何かを怠った。

 

相手はそれを見抜いた。

 

だから私は、まず謝り、あとから自分の行動を調べました。

 

順番が逆でした。

 

相手の声の大きさより先に、何が起きたのかを見る必要がありました。

 

私は一度呼吸をしてから答えました。

 

「昨日から三度確認しています。先方から数字が届いていない状態です」

 

相手は少し黙りました。

 

私は続けました。

 

「私からもう一度連絡します。ただ、提出時刻を守るには、先方にも至急対応してもらう必要があります」

 

相手の感情ではなく、仕事の条件を返しました。

 

私は相手へ言い返したわけではありません。

 

相手の言い方を批判したわけでもありません。

 

ただ、私一人の努力では埋められない条件を、その場へ戻しました。

 

相手は少し不満そうでした。

 

「とにかく急いで」と言いました。

 

以前の私なら、その表情を見てもう一度謝ったと思います。

 

そして、自分だけが何とかする約束を追加したでしょう。

 

でも、その日は言いませんでした。

 

「分かりました。今から連絡します」

 

仕事に必要な返事だけをして、相手の不満は相手の側へ残しました。

 

胸はまだ固いままでした。

 

手も少し冷たくなっていました。

 

落ち着いていたわけではありません。

 

ただ、緊張したままでも、責任を全部は引き取らずに済みました。

 

その日の夜、机の上の本が急に重く見えました。

 

帰宅後、私はいつものように鞄を置きました。

 

机の横には、これまで買った本が何冊も積まれていました。

 

伝え方。

 

自己肯定感。

 

感情の整え方。

 

人間関係をラクにする考え方。

 

付箋が何枚も貼られ、重要な箇所には線が引いてあります。

 

本は増えました。

 

ノートも増えました。

 

本棚だけを見ると、私はかなり人間関係が上手そうでした。

 

現場では長く、「すみません」が主力商品でした。

 

私はその本を見ながら、今日の会話を思い返しました。

 

今日、私を助けたのはどの理論だっただろう。

 

どの例文を正確に使えたのだろう。

 

考えてみると、特別な言葉は使っていませんでした。

 

何回確認したか。

 

どこで仕事が止まっているか。

 

誰の対応が必要か。

 

それを事実として伝えただけでした。

 

私は知識を使うより、知識に自分を合わせていました。

 

心理学やコミュニケーションの知識は、私を助けてくれた部分があります。

 

自分の反応を言葉にできた。

 

相手にも事情があると考えられた。

 

感情だけで相手を決めつけずに済んだ。

 

それらは、無駄ではありませんでした。

 

ただ、いつの間にか私は、知識を現実を見るためではなく、自分を修正するために使っていました。

 

怒りを感じたら、未熟だから。

 

傷ついたら、受け取り方に問題があるから。

 

言い返せなかったら、自己肯定感が低いから。

 

断れなかったら、自分軸がないから。

 

何が起きても、最後は私の内面を改善する話になりました。

 

知識を使って現実を整理するはずが、現実を知識に合わせて説明していたんです。

 

心理用語を知るほど、相手を理解した気になりました。

 

相手が強く怒る。

 

私は、余裕がないのだろうと考えました。

 

相手が人によって態度を変える。

 

私は、不安が強い人なのかもしれないと分析しました。

 

相手がこちらの説明を聞かない。

 

私は、その人にも過去の傷があるのだろうと思いました。

 

そう考えることで、相手を一方的に嫌わずに済みました。

 

でも同時に、現実を直視しなくて済みました。

 

私の話は聞かれていない。

 

私にだけ強い態度が向けられている。

 

私が受け止めるほど、相手の感情がこちらへ流れてくる。

 

その事実より、相手の内面を想像する方へ進んでいました。

 

私は相手を理解したかったのだと思います。

 

同時に、理解できればこの関係を変えなくて済むと思っていたのかもしれません。

 

相手を理解することが、自分を守る方法になると思っていました。

 

相手がなぜ怒るのか分かれば、怒らせない方法が見つかる。

 

相手が何を求めているか分かれば、正しい言葉を選べる。

 

相手の背景を理解できれば、傷つかずに済む。

 

私は、理解によって相手の行動を予測しようとしていました。

 

相手の機嫌は読めました。

 

声の変化にも気づきました。

 

次にどんな不満が出るかも、ある程度分かるようになりました。

 

でも、分かることと止められることは別でした。

 

相手が怒る理由を理解しても、強い言葉を受けていい理由にはなりません。

 

相手の事情が見えても、その感情を私が引き取る義務は生まれません。

 

理解は役に立ちます。

 

ただ、理解を境界線の代わりにはできませんでした。

 

私は「正しい自分」でいることで安心していました。

 

学び続けた理由は、苦しい状況を変えたかったからです。

 

それだけではありませんでした。

 

私は、学んでいる自分でいると少し安心できました。

 

私は何もしていないわけではない。

 

ちゃんと自分を見つめている。

 

人のせいにせず、自分を成長させようとしている。

 

そう思えたからです。

 

相手を責めるだけの人にはなりたくありませんでした。

 

被害者の立場へ逃げる人にもなりたくありませんでした。

 

だから何かが起きるたび、まず自分の課題を探しました。

 

それは誠実さでもありました。

 

同時に、正しい人でいたい気持ちでもありました。

 

自分にも改善点があると言い続ければ、客観的で成熟した人に見える気がしたんです。

 

自分にも改善点がある、で全部を終わらせていました。

 

どんな出来事にも、自分が変えられる部分はあります。

 

もっと早く伝えられた。

 

確認を一つ増やせた。

 

曖昧な返事をしない方がよかった。

 

相手へ期待せず、記録を残すこともできた。

 

だから私は、いつも自分の改善点を見つけられました。

 

でも、自分に改善点があることと、相手の振る舞いが妥当であることは別です。

 

私が報告を遅らせた。

 

それと、人前で人格まで責められることは別。

 

私の説明が分かりにくかった。

 

それと、話を途中で遮られ続けることは別。

 

私が一度引き受けた。

 

それと、次から当然の担当にされることは別。

 

以前の私は、自分の改善点を見つけた瞬間、相手側の問題を見るのをやめていました。

 

教科書には、対話できる相手が多く登場しました。

 

学んだ例文では、こちらが落ち着いて伝えると、相手も少し考えてくれました。

 

「私はこう感じました」

 

「次からは、事前に相談してもらえると助かります」

 

「今は対応できないので、明日にしてください」

 

言葉を整えて伝えれば、相手は内容を聞きます。

 

違いがあれば、話し合います。

 

お互いの事情を出し、落としどころを探します。

 

そのような相手には、学んだ方法が役に立ちました。

 

でも現実には、質問の形をしながら答えを求めていない人もいました。

 

こちらが事情を話すと、言い訳として処理する人もいました。

 

境界線を伝えると、不機嫌で引っ込めさせようとする人もいました。

 

教科書の方法が悪いのではありません。

 

私は、相手も対話へ参加する前提を見落としていました。

 

正しい伝え方でも、対等な場は作れませんでした。

 

私は言葉を整えることで、相手との関係も対等になると思っていました。

 

でも、こちらに断る権限がない。

 

相手が役割を曖昧にできる。

 

問題が起きれば、最後に私が埋める。

 

その状態では、言葉だけ整えても負担は戻ってきます。

 

「難しいです」と丁寧に伝えても、最後に私が残業して終わらせる。

 

「確認してください」と頼んでも、返事がなければ私が自分で進める。

 

「今は聞けません」と言っても、相手の顔が曇ると話を聞く。

 

言葉では境界線を出し、行動では撤回していました。

 

相手は私の例文より、最後に何が起きるかを見ていたんです。

 

私が最後に見たのは、言葉の外側でした。

 

相手は何を言っているか。

 

それだけでは足りませんでした。

 

誰に向けて言っているか。

 

同じことを別の人にも言っているか。

 

こちらが説明した時、最後まで聞くか。

 

断った時、条件を調整するか、不機嫌で従わせるか。

 

話し合いのあと、誰の仕事が増えるか。

 

相手の感情が落ち着いたあと、私に何が残るか。

 

そこを見るようになりました。

 

言葉の内容だけなら、お願いに見える。

 

でも断ると強い圧が返ってくるなら、自由なお願いではありません。

 

質問の形なら、会話に見える。

 

でも決められた答え以外を聞かないなら、話し合いではありません。

 

優しい言葉なら、配慮に見える。

 

でも毎回こちらだけが負担を引き取るなら、関係の形を見る必要があります。

 

私が掴んだのは、「場」という見方でした。

 

私は長い間、自分の内側ばかり見ていました。

 

なぜ私は怖いのか。

 

なぜ言えないのか。

 

なぜ気にしすぎるのか。

 

なぜ相手の顔色を読むのか。

 

もちろん、自分を知ることは必要です。

 

でも、自分の内側だけでは説明できないことがあります。

 

誰が話せる場なのか。

 

誰の感情が優先される場なのか。

 

誰が謝ると会話が終わるのか。

 

誰が仕事を引き取ることで、職場が回っているのか。

 

その配置を見るようになりました。

 

私が弱いから何も言えなかったのではなく、言えば不利益が返る場だったこともあります。

 

私の伝え方が悪いのではなく、そもそも私の説明が扱われない場だったこともあります。

 

私は自分だけでなく、自分が置かれている場を見る必要がありました。

 

場を見ると、責任の置き場所が変わりました。

 

以前の私は、何か問題が起きるとすぐ自分の責任を探しました。

 

今は、関係する責任を分けて見ます。

 

私が確認すべきことを確認したか。

 

相手は必要な情報を共有したか。

 

役割を決める立場は、曖昧さを放置していないか。

 

期限に無理がある時、誰が調整するのか。

 

感情を強く出した人は、その出し方を自分で扱っているか。

 

私にも改善点はあります。

 

相手にも責任があります。

 

仕組みや役割の問題もあります。

 

一つの出来事に、複数の責任が存在することがあります。

 

それを全部自分の成長課題へまとめない。

 

私にとっては、それだけでもかなり大きな変化でした。

 

私は心理学を捨てたのではありません。

 

タイトルでは、心理学の教科書を捨てたと書きました。

 

実際、私は何冊かの本を手放しました。

 

もう読まないもの。

 

読むたびに、自分の未熟さだけを探してしまうもの。

 

いつか完璧な自分になれば使えると思い、持ち続けていたもの。

 

箱へ入れ、本棚から出しました。

 

ただ、心理学そのものを否定したわけではありません。

 

役に立った知識は、今でもあります。

 

人にはそれぞれ見えているものが違う。

 

感情と事実は分けて考えられる。

 

反応には、これまでの経験も関係する。

 

そうした視点に助けられたこともありました。

 

私が捨てたかったのは、学べばすべての関係を自分一人で修復できるという期待でした。

 

どんな関係も自分次第、という考えを手放しました。

 

自分が変われば、相手も変わる。

 

自分を満たせば、現実も変わる。

 

相手への見方を変えれば、苦しさは減る。

 

これらの考え方に助けられる場面はあると思います。

 

自分の行動が変われば、関係の流れが変わることもあります。

 

ただ、それを「どんな関係も自分次第」と広げると、かなり苦しくなりました。

 

相手が話を聞かない。

 

それでも、私の伝え方次第。

 

相手が不機嫌で圧をかける。

 

それでも、私の受け止め方次第。

 

負担が一方へ偏っている。

 

それでも、私の在り方次第。

 

この考え方では、相手や職場の問題がどれだけ大きくても、最後は私の内面へ戻ります。

 

私は、自分で変えられる部分と、自分一人では変えられない部分を分ける必要がありました。

 

相手が変わらないまま、自分の行動を変えることはできました。

 

私は、相手を理解させることを少し諦めました。

 

正しく伝えれば、いつかこちらの事情も分かってくれる。

 

丁寧に聞けば、相手もこちらの話を聞くようになる。

 

境界線を穏やかに伝えれば、相手も納得してくれる。

 

そう期待してきました。

 

でも、納得しない人はいます。

 

不満なままの人もいます。

 

こちらを冷たい人だと思う人もいます。

 

それでも、私はすぐ謝らないことができます。

 

今は答えないと決めることができます。

 

聞けない話を区切ることができます。

 

自分の担当外の仕事を、必要な場所へ戻すことができます。

 

相手が変わることと、私が同じ役を続けないことは別でした。

 

私は強い人になったわけではありません。

 

今でも、声を強くされると身体が緊張します。

 

急に名前を呼ばれると、何か失敗したのではないかと思います。

 

不満そうな顔をされると、私が引いた方が早いと考えることもあります。

 

その場では言えず、帰宅後に言葉が浮かぶ日もあります。

 

私は、何でもはっきり言える人になったわけではありません。

 

相手の感情に一切影響されない人にもなっていません。

 

ただ、以前と違うところがあります。

 

緊張したからといって、私が間違っているとは決めません。

 

言えなかったからといって、相手の言葉を全部認めたことにはしません。

 

不機嫌にされたからといって、出した境界線をすぐ撤回しません。

 

強くなったというより、自分の反応と事実を少し分けられるようになりました。

 

最後に掴んだのは、完璧な言葉ではなく「戻る場所」でした。

 

人間関係で何かが起きると、私は相手の側へ入り込んでいました。

 

相手は何を感じたのか。

 

なぜ怒ったのか。

 

どう言えば機嫌が戻るのか。

 

どうすれば理解してもらえるのか。

 

そのまま、自分の場所を見失いました。

 

今は、途中で戻るようにしています。

 

私は何を見たのか。

 

私は何を引き受けたのか。

 

私にできることはどこまでか。

 

相手の感情と、私の責任はどこで分かれるか。

 

その場所へ戻ります。

 

答えがすぐ出るとは限りません。

 

それでも、相手の感情の中だけで結論を出さずに済みます。

 

私が最後に掴んだのは、自分の「場」へ戻るという感覚でした。

 

自分の場は、気持ちのいい場所だけではありませんでした。

 

自分の場へ戻れば、いつも安心できるわけではありません。

 

断った罪悪感が残ることもあります。

 

相手との関係が薄くなり、寂しくなることもあります。

 

自分にも曖昧な返事をしてきた責任があると気づくこともあります。

 

誰かの感情を受け取る役を降りたあと、自分が何をしたいのか分からなくなることもあります。

 

自分の場は、いつも美しく整った安全地帯ではありませんでした。

 

怒りもあります。

 

迷いもあります。

 

言えなかった悔しさも残ります。

 

でも、それは少なくとも私の感情です。

 

相手から渡された不機嫌を、自分の責任だと思って抱えている状態とは違いました。

 

本を手放した日、答えがなくなるのが怖かったです。

 

本棚から何冊か取り出し、箱へ入れた時、少し不安になりました。

 

この中に、まだ使えていない大切な答えがあるのではないか。

 

手放したあと、また同じことで困ったらどうしよう。

 

もっと読み込めば、やっと理解できる章があったかもしれない。

 

私は本を捨てるというより、正解の予備を失うことが怖かったんです。

 

困った時に開ける本がある。

 

そこに正しい説明がある。

 

その通りにできない自分を改善すればいい。

 

この流れは苦しかった一方で、分かりやすくもありました。

 

現実を見るより、本の中にある正解へ戻る方が安心できることもありました。

 

答えの代わりに、問いを残しました。

 

私は、すべての本を捨てたわけではありません。

 

今でも読み返すものはあります。

 

ただ、以前のように、困るたびに新しい答えを探すことは減りました。

 

代わりに、いくつかの問いへ戻ります。

 

今、実際に何が起きているか。

 

相手は、私と話し合おうとしているか。

 

私の説明は、会話の中へ置けるか。

 

誰の感情を、誰が処理しているか。

 

誰の責任が、最後に私へ集まっているか。

 

私は何を引き受けると決め、何を引き受けていないか。

 

正解を一つ持つより、この問いを持っている方が、現実の違いを見られました。

 

知識より先に、違和感を消さないようにしました。

 

以前の私は、違和感を感じるとすぐ説明しました。

 

私が敏感だから。

 

相手にも事情があるから。

 

人間関係では、お互いさまだから。

 

完璧な人はいないから。

 

説明できると、少し落ち着きます。

 

でも、その説明によって消してはいけない違和感もありました。

 

なぜ私だけが何度も謝っているのか。

 

なぜ私の時間だけが調整されるのか。

 

なぜ話し合いのあと、相手は軽くなり、私は重くなるのか。

 

なぜ同じ言葉でも、私にだけ強く向けられるのか。

 

違和感は、すぐ正しい結論を出してくれるわけではありません。

 

ただ、現実を見る入口にはなりました。

 

学んだことを使えない自分を、教材に戻さなくなりました。

 

強い声に固まる。

 

言葉が出ない。

 

相手の不機嫌が気になる。

 

境界線を出したあと、罪悪感を持つ。

 

以前は、そんな自分を未完成だと思いました。

 

もっと学び、もっと練習し、もっと成長しなければならない。

 

でも、今は反応が出た時に、すぐ教材へ戻りません。

 

何が怖かったのか。

 

どんな不利益を予測したのか。

 

相手との関係に、実際どんな力の差があったのか。

 

その場で言えなくても、あとから何ができるか。

 

現実の条件を見ます。

 

学んだことを使えなかった自分を直す前に、使える場だったのかを確認するようになりました。

 

私は人間関係をラクにする方法を、少し間違えて探していました。

 

私は、どんな相手とも上手に付き合える自分になれば、人間関係がラクになると思っていました。

 

怒る人を理解できる。

 

強い人にも冷静に返せる。

 

誰の話も受け止められる。

 

相手を傷つけずに断れる。

 

そんな自分になろうとしました。

 

でも、それでは私が対応できる相手を増やすだけです。

 

相手がどんな振る舞いをしても、私が技術で吸収する形になります。

 

人間関係がラクになるというより、私の処理能力を上げようとしていました。

 

最後に必要だったのは、すべて処理できる自分になることではありませんでした。

 

処理しないものを決めること。

 

自分一人で成立させない関係を選ぶこと。

 

言葉を尽くしても話し合えない相手がいると認めることでした。

 

人間関係がラクになった、とはまだ簡単に言えません。

 

境界線を出せば、関係がぎくしゃくすることがあります。

 

すぐに謝らなければ、不満そうにされることもあります。

 

話を聞く役を降りれば、距離ができる相手もいます。

 

以前より簡単になったこともあれば、別の難しさが出てきたこともあります。

 

私は今でも、人に嫌われる可能性を平気では受け止められません。

 

職場の空気が悪くなると気になります。

 

自分の判断が正しかったか、帰宅後に考えることもあります。

 

だから「人間関係がすべてラクになりました」とは言えません。

 

ただ、以前より減ったものがあります。

 

何でも自分の内面の問題へ変換すること。

 

相手の感情を、自分の責任として持ち帰ること。

 

正しい言葉が見つかるまで、自分を修正し続けること。

 

少なくとも、苦しさの原因を全部自分の中へ戻すことは減りました。

 

最後に残ったのは、自分を信じることより、自分を確認することでした。

 

私は以前、自分を信じられるようになりたいと思っていました。

 

自信を持つ。

 

自分の感覚を疑わない。

 

堂々と意見を言う。

 

でも、今でも自分を疑うことはあります。

 

私の受け取り方が偏っているのではないか。

 

相手にも言い分があるのではないか。

 

私の方が厳しくなりすぎたのではないか。

 

そう考えます。

 

ただ、疑った時にすぐ自分を否定するのではなく、確認します。

 

何を言われたのか。

 

何度続いているのか。

 

ほかの人にはどう接しているのか。

 

私が伝えた時、相手は何をしたのか。

 

自分を無条件に信じることより、事実へ戻れることの方が、私には役立ちました。

 

もし、あなたも学び続けているなら。

 

本を読んだ。

 

講座も受けた。

 

伝え方も、受け止め方も、相手を理解する方法も学んだ。

 

それでも職場では、強く言われると頭が真っ白になる。

 

帰宅後になって言葉が浮かぶ。

 

また使えなかった自分を責め、新しい答えを探している。

 

そんな状態が続いているなら。

 

次の教材を探す前に、一度だけ見てほしいことがあります。

 

その方法は、本当に今の相手と場面で使えるのでしょうか。

 

相手は、あなたの話を聞く意思を持っているでしょうか。

 

こちらが配慮すれば、相手も配慮を返す関係でしょうか。

 

あなたが学んだ分だけ、負担を吸収する人になっていないでしょうか。

 

あなたの改善点と、相手が感情をぶつけることが、一つになっていないでしょうか。

 

たぶん、あなたも薄々気づいていると思います。

 

足りなかったのは、もう一冊の本だけではないのかもしれません。

 

教科書の外には、あなたが見てきた現実があります。

 

相手の声が変わった瞬間。

 

自分だけが何度も謝っていた場面。

 

こちらの説明が途中で止められたこと。

 

別の人には、同じ言い方をしていなかったこと。

 

引き受けるほど頼まれ方が雑になったこと。

 

話を聞くほど、自分の時間がなくなったこと。

 

それらは、気にしすぎた証拠ではありません。

 

すぐに正しい意味をつけなくても、現実を考える材料になります。

 

教科書には一般的な考え方が書かれています。

 

でも、あなたの職場で誰が誰にどう接し、誰が最後に負担を引き取っているかは、あなたが見てきた現実の中にあります。

 

知識を捨てる必要はありません。

 

ただ、知識より先に、自分が見たものを消さないでください。

 

私が最後に掴んだものを、一言で言うなら。

 

相手を理解する前に、自分がどこに立っているかを見ること。

 

正しい言葉を探す前に、会話が成立しているかを見ること。

 

反省する前に、誰の責任が混ざっているかを見ること。

 

相手が不機嫌になった時、その感情をすぐ自宅まで持ち帰らないこと。

 

言えなかった時、その沈黙へ敗北という意味をつけないこと。

 

誰かに必要とされなくなった時、すぐ別の役で自分を埋めないこと。

 

私はこれを、自分の「場」へ戻ることだと思っています。

 

それは、何でも自分を優先することではありません。

 

相手を切り捨てることでもありません。

 

相手にも事情がある。

 

同時に、私にも事情がある。

 

私に改善点がある。

 

同時に、相手にも扱うべき責任がある。

 

二つを同時に置ける場所を、自分の中に残すことでした。

 

私は、もう答えを増やすことだけを目標にしません。

 

これからも、何かを学ぶと思います。

 

知らなかった考え方に助けられることもあるでしょう。

 

また本を買うかもしれません。

 

付箋を貼ることもあると思います。

 

付箋の色分け技術を、完全に捨てる予定はありません。

 

ただ、学んだあとに一つ確認します。

 

この知識は、現実を見るために使っているか。

 

それとも、自分だけを修正し続けるために使っているか。

 

相手の振る舞いまで、私の課題へ変えていないか。

 

使えなかった時、方法と場面の相性を見ているか。

 

私は知識を増やすことより、知識の使い方を見直すようになりました。

 

また「私が未熟だから」で終わらせそうになった時に。

 

人間関係で何かが起きた時、自分を振り返ることはできます。

 

伝え方を見直すこともできます。

 

相手の事情を考えることもできます。

 

ただ、それだけで全部を説明しないでください。

 

相手は話し合う意思を持っていたか。

 

こちらの配慮を、配慮として受け取ったか。

 

同じ言葉を、ほかの人にも向けていたか。

 

誰の感情が優先され、誰が最後に負担を処理していたか。

 

そこまで見てから、自分の課題を決めても遅くありません。

 

私は、もっと早くこの順番を知りたかったと思います。

 

自分を変える前に、現実を見る。

 

相手を理解する前に、自分の位置を確認する。

 

そのうえで、自分が引き受けるものを選ぶ。

 

これが、私が心理学の教科書をいったん閉じ、最後に掴んだものでした。

 

完璧な方法ではありません。

 

今でも迷います。

 

それでも、またすべてを自分の未熟さへ戻しそうになった時、私はここへ戻ります。

 

言葉の選び方より先に見ておきたかった「場」と、相手の感情から自分の責任を分け直す視点を、こちらにまとめています。

 

>> 学び続けても変わらなかった私が、最後に掴んだ「自分の場」について読む