プエルトリコ旅行(1)到着、そしてまずはサンフアン散策 | Que sais-je? ク・セ・ジュ――われ何を知る

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エルサルバドルに単身赴任中(7/15~8/5一時帰国)。
気候が良く日本より健康的な生活を送っています。
ドライブ旅行をぼちぼちしていますが、
この国で最も注意すべきは交通事故。
今や治安以上に大きなリスクです。

なおヘッダーは2020年に新潟県長岡市にて撮影。

 

今回のイースター休暇旅行、プエルトリコ編は、前回の記事の最後の写真を引き継いで、ジェットブルー1638便の機内からプエルトリコのマヤグエス (Mayagüez)(左下の海岸沿いの市街地)を見下ろした写真で始めます。

 

 

全日空やユナイテッド航空もそうですが、青を基調とした機体に、私はセンスを感じます(でもメキシコのボラリス航空のロゴの方が好き)。

空港の出口にタクシー受付があったのでそこで手配し、本日の宿へ。私の乗った車の年配ドライバーはかなり頼りなく、私が「ロイーサ地区のサンタ・セシリア通りにある」と言っても、「GPSで調べてくれ」と、この地に初めて来る私を当てにしています。しかし我がグーグルマップのお蔭で、「その道は一方通行だから、手前のここを右に曲がって」などと私のナビで難なく到着。このあたりの会話、プエルトリコは一応アメリカ合衆国に属していますから英語でも通じるのでしょうが、ここはスペイン語圏ですから、話せる私としては、もちろんスペイン語です。

本日から3泊する宿(最後の晩は満室だったので他の宿の予約をしました)、ビジャ・エシュタ (Villa Eshta) ――宿についての話は後で書くとして――に着くと、フェンスの門が閉まっています。今はまだ午前11時。15時半のチェックインには4時間半も早く着いたからでしょう、インターホンにも答えてくれず、誰でもいいから出て来ないかと思って待っていても、なかなか人が出て来ません。しかし、15分くらい待ったでしょうか、宿泊客らしい人が門の中を通りがかったので、受付を呼んでもらい、一旦入れてもらって、とりあえず荷物を置かせてもらいました。スペイン語を母語としていないであろう、つまり中南米の人ではなさそうな若い女性が受付をしていました(どこの国の人であったかは後述)。

そして、チェックインになるまで市街地を散策することにします。

 

 

このロイーサ地区の中心を東西に貫くロイーサ通り (Calle Loíza) は、2車線でバスがギリギリすれ違える程度のそれほど広くない通り(むしろ狭いと言うべき)です。そこにレストランやバー、ファーストフード屋が立ち並んでいます。すぐそばのマックの向かいにコインランドリーがありました。長期滞在者には非常に便利ですが、今回の私は使いません。

 

 

しばらく歩くと、ビル(の廃墟?)の外壁に描かれたこの落書きが目に留まりました。落書きは街中にたくさんありますが、やはり「NEKO!」と書いてあるのが私の注意を引きます。以前の記事で、サンサルバドルの私の職場近くにある、「アライグマ」と片仮名で書かれた落書きをご紹介しました。中南米では、日本語はマンガやアニメに現れる、エキゾチックで粋な響きの言葉として人気があるようです。

最近、つくづく思います。日本のマンガ、アニメ、ありがとう! そして、例えば鳥山明のような人物に感謝の念が絶えません。

 

 

宿から30分余り歩くと、高級リゾートホテルが林立するコンダード・ビーチ (Playa Condado) に出ました。写真は「海への窓」公園 (La Ventana al Mar) を浜に出たところでコンダード・ヴァンダービルト・ホテル (Condado Vanderbilt Hotel) のビーチサイドを撮ったもの。

波が結構激しく打ち寄せています。

 

 

やはりこのような立て看板の警告があります。英語・スペイン語で、「極めて危険:遊泳推奨せず/激しい潮流」と。

 

 

こちらは同じ場所から反対側の東方向のビーチを眺めたもの。

サンフアンの街を散策して最初に思ったことが2つあります。まず、サンファンは中米カリブ地域のどの都市よりも人工的に綺麗で、パナマの次くらいに繁栄しているように見えること。こんな状況であれば、アメリカから独立したいはずがありません。

なお、プエルトリコは独立国家ではなく、アメリカ合衆国の自治的・未編入領域で、グアムやサイパンと同じ位置付けの「地域」です。独立を問う住民投票が行われたりしていますが、決まって「アメリカ帰属」派が勝っています。

それともう一つ気付いたことは、サンサルバドルのホテル、クラウン・プラザはヒルトンになりましたし、サントドミンゴ空港近くで私の泊まったホテルもハンプトン・バイ・ヒルトン。サンファンの街路を歩いていて、「カリブ・ヒルトン」という名のホテルのほか、「XX・バイ・ヒルトン」という名のホテルを2つ見ました。ヒルトンは攻勢を強めているようです。

さて、UNESCOの世界遺産になっているサンフアンの歴史地区までは、まだしばらくあります。徒歩でそこまで往復して更に宿まで戻るとなると、かなりの長距離になって、ちょっときつそうです。歴史地区までは、日をあらためて行った方が良さそうです。特に、最後の晩はそこに宿を予約していることでもありますし。そこで途中で引き返すことにして、とりあえず、歴史地区のあるサンフアン島 (Isla San Juan) に入った所(そこから歴史地区まではまだ約3キロあります)に日本料理屋を見つけたので――実は先のコンダード地区でも2、3の日本料理屋を通り過ぎていますが――立ち寄って昼食兼休憩にすることにしました。

 

 

イクラ (IKURA)。来たのは昼どきの12時半でしたが、最初は他に客がいませんでした。しかしそのうちに2、3のグループが入って来ました。

 

 

まずはビールを。サッポロビール。このパイント瓶で5.50ドル(約850円、上に書いたようにプエルトリコはアメリカ合衆国に属しているので、米ドルです)は高いけれども、せっかく異国の日本料理屋に来たことでもあるし、頼みたくなってくるものです。

 

 

料理にはレインボー・ロール (Rainbow Roll)、16.99ドル(約2,600円)。「虹巻き」と訳せそうです。しかし、いやあ~、この円安のご時世では、かなり高く感じますねぇ!

メニューによると、カリフォルニア・ロール(カニカマ、アボカド、海苔を入れて酢飯を外側にしたいわゆる「裏巻き」)の上にマグロとサケを載せたものとあります。

店のご主人と軽く話しました。プエルトリコに来て30年になる中国人(あるいは香港か台湾の方かもしれません)で、この店を始めて13年とのこと。愛想が良く好感の持てる方でした。

チップを入れて計25.00ドル(約3,900円)支払いました。日本でも飲みに行くとこのくらいは普通にかかりますが、昼食にビール1本なのですから、やはり高いと感ずる昨今の世の中です。

 

 

そこからすぐの所に、一つの史跡があったので立ち寄ってみました。サン・ヘロニモ火薬庫 (Polvorín de San Jerónimo)。これは、この後に訪れたサン・ヘロニモ砦の一連の施設の一つだったのでしょう。今は長閑(のどか)なルイス・ムニョス・リベラ公園 (Luis Muñoz Rivera Park) の一角にあります。

建物の周りをぐるっと歩いてみましたが、閉まっていて中を見ることはできませんでした。

これ以上先に進むのは、時間もかかるし疲れもする。そこで、本日はこの辺りの浜辺を散策してから宿に引き返すことにしました。

 

 

エスカンブロン海水浴場 (Balneario del Escambrón)。Balneario には「温泉」、「湯治場」といった意味もありますが、ラテンアメリカでは「ビーチリゾート」の意味でよく使われるそうです。ウィキペディア(英語版)によると、「ギリシャ語の βαλανειον balaneion(浴場、浴室)に由来して」いるとのこと。

 

 

上の写真を撮ったのと反対方向はコンタード・ビーチ。

 

 

小さな岬の先端部にはエスカンブロン砦 (Fortín del Escambrón)。その先は、青々とした空と青々とした大西洋。

 

 

エスカンブロン砦の西には先ほどのエスカンブロン海水浴場がありますが、南にはエスカンブロン・ビーチ (Playa de Escambrón) と呼ばれている浜があります。

 

 

もう少し宿に戻る方向に歩くと、先ほどのレストラン「イクラ」のそば、ホテル・カリブ・ヒルトンの裏手にも、サン・ヘロニモ・デル・ボケロン砦 (Fuerte de San Jerónimo del Boquerón) という史跡があります。しかしこちらは入口に錠がかかっていて入れませんでした。

 

 

整備工事中の様子。

宿まで4キロ半の道のりを歩いて帰りましたが、喉が渇いたしくたびれもしてきたので、途中、カンダード地区にあるシーフード・レストラン、カヨ・カリベ (Cayo Caribe) でハイネケンを2本飲みました。10.05ドル(約1,550円)。