アルベルト・マスフェレール | Que sais-je? ク・セ・ジュ――われ何を知る

Que sais-je? ク・セ・ジュ――われ何を知る

エルサルバドルに単身赴任中。
気候がいいので日本よりよほど健康的な生活を送っています。
ドライブ旅行をぼちぼちしていますが、
この国で最も注意しなければならないのは交通事故。
今や治安以上に大きなリスクです。

なおヘッダーは2020年に新潟県長岡市にて撮影。

前回の記事の最後には、今回からコロナに罹った後の話について伝える、と書きました。今回の記事は確かにその後の行動に関する話ですが、正確には昨年から始まっている事です。

表題の人物の名は、私の住んでいるマンションのすぐ近くを通る大通りの名前、「マスフェレール・ノルテ (Masferrer Norte)」で知りました。マスフェレール・ロータリー交差点(ロータリーの中は大型国旗掲揚塔のある公園になっています)の北にある通りなので、こう呼ばれています。その他、彼の名を冠した学校が、大学を含め、幾つもあります。

興味を引いたので、ネットで調べてみました。アルベルト・マスフェレール (Alberto Masferrer) (1868-1932) は、エルサルバドルのエッセイスト、思想家、詩人、作家、哲学者。

彼の著作は、アワチャパン県の、ある学校の副校長室兼図書室で初めて見つけました。『エル・ロサル・デスオハード (El Rosal Deshojado)』、意味は「葉の落ちた薔薇」。しかしこの本はまだ読んだことがありません。

ウィキペディアによると、昨年2月に日帰り出張で通りがかった、ウスルタン (Usulután) 県アレグリア (Alegría) の出身ではありませんか。あの、山の中腹にある風光明媚で長閑(のどか)な山村の出だとは。

ますます親しみが湧いてきました。

その後、国立美術館で彼の肖像を見ました。再掲します。


 

この口髭といい、中分けの髪といい、やや団子っ鼻っぽいところといい、目の形といい、私の顔と似たところがあるではないか。ますます興味が高まる私です。

 

 

彼の著作を得た経緯は以下の通り。まず7月にネット上で彼の主著の一つ、『エル・ミニムム・ビタル (El Mínimum Vital)』を見つけダウンロード。次いで、ショッピングモールのカスカーダス (Cascadas) に入っている 「UCA書店 (Librería UCA)」という書店にあることがネットで調べて分かったので、本書と、そこで一緒に見つけた『映画人生 (Una Vida en el Cine) / 抒情的散文 (Prosa Lírica)』の2冊を8月に購入。この書店はホセ・シメオン・カーニャス中米大学 (Universidad Centroamericana José Simeón Cañas) というイエズス会系私立大学が経営しており、従って非営利団体だからでしょう、前者は64ページ、後者は104ページといずれも薄い本ながら、何と前者は1.20ドル、後者は1.70ドルと超廉価です。教材に使われているようで、巻末には演習課題が付録で付いています。ただ、実にくだらない問題が多く、例えば「文字を正しく並べて単語にしてそれぞれのマスに書け:FERMASRER」みたいな(正解は MASFERRER)。これだけは、大学生・一般人向けの本とは思えない、子供だましの付録です。


さて、彼の思想を紹介すべく、『エル・ミニムム・ビタル』から幾つかの文を引用しましょう(訳は最初翻訳ソフトの DeepL を使って、意味のおかしいところ・不自然な部分は私が修正しましたが、全面的に修正した文もあります)。なお、このタイトルを訳すと、「生きるのに最低限必要なもの」あるいは「最低限の生存権」くらいになるでしょうか。副題にしても良さそうです。

つまり、結論として彼の主張を一言で言うと、全ての人の生存権の保障を訴えている、と言っていいでしょう。

 

全ての被創造物は、生まれ、生きているというただそれだけの事実によって、財産、労働、生産、消費を公正かつ賢明に組織化することで、最低限の総合的生活、すなわち根源的な必要の充足が共同体によって保障される権利を有している。(VIII)

 

彼のこの主張は、社会の悲惨な状況を人々の考え方の転換によって克服したいという切実な願いから来ており、冒頭にその憂いが述べられています。

 

ほとんどすべての民族は苛立たしく恥ずべき状況に至り、停滞している。残酷で苦しい闘争の中で、飢えた人々の抑圧と破滅から何百万もの人々(の考え)が生み出され、蓄財は神聖な言葉になり、今日の悲惨な人々が明日の裕福な人々になるように、怨嗟(えんさ)に見せかけた妬(ねた)みが事態を転覆する時を待ちきれずにいる。(I)

 

恒常的な貧困が妬みを生み、妬みが闘争心を生む、このおぞましい状況を憂えているわけです。庶民を搾取したと考えられている富裕層に対する恨みや嘆きは本当は恨みではなく、単なる妬みなのだと喝破しています。

この状況を克服することは、貧困者が階級闘争をもって富裕層に勝つこと、すなわちプロレタリア革命のように、虐(しいた)げられた人々が虐げている人々に勝つことによっては達成されないと彼は考えているようです。

彼はこう言います。

 

ミニムム・ビタルは、労働者、プロレタリア、賃金雇用者にこう言う。必要最低限で満足しなさい。それなしには生きていけないような、不可欠なものが保証されていることに満足しなさい。その最低限の基礎の上に自分のゆとりと富の建物を建てなさい。そのようにして、自分の努力次第で、自分の規律次第で、自分の意志の強さ次第で興隆もすれば衰退もするのだ。そして持てる者、富める者にはこう言う。君の野心には限界があることを認めなさい。木や石を金に変える自由は与えられていても、不幸や人間や健康や、仲間の血を変える自由は与えられていないことに満足しなさい。自分の得るものに限界線を引いて、そこを越えないようにしなさい。犠牲者の憎悪で眠れないことがないように。平和のうちに、笑い、歌いながら、君が蓄えてきた物を愉しめるように。(I)

 

つまり「足るを知れ」と。自分の置かれた不幸な状況を誰のせいにするでもなく、一方で、もし恵まれた状況にあっても調子に乗ってはいけない。いずれにしても、個人の物の見方、態度の問題である、と。貧しい者は節制を保って慎み深くあるべきであり、富める者はそれ以上は貪欲にならないことである。

彼は一方だけの味方ではありません。双方の考えを改めて、全体としてより良い社会を建設しなければならないと訴えているのです。

 

ここで、たまたま同時並行で読んでいたホラーティウス『書簡詩』(高橋宏幸訳、講談社学術文庫、2017)に上とそっくりな主張の件(くだり)を見つけたので、モンテーニュの『エセー』さながらに、唐突に挿入させていただきます。

 

強欲な人はいつも不満です。限度を決めて望みの実現を目指しなさい。

妬み深い人は他人の財産が豊かなのを見て身を細らせます。

妬みこそシキリアの僭主たちが見つけた

最大の責め苦でした。

 

semper avarus eget; certum voto pete finem.
invidus alterius macrescit rebus opimis;
invidia Siculi non invenere tyranni
maius tormentum, ... (I, 2, l. 56-59)

 

古今東西、賢人の言は共通している、ということかもしれません。

 

しかし当然、「それではいつまで経っても格差のある社会構造は変わらないではないか」という疑問も生ずるでしょう。そこで彼はまず、その生きるための最低限のものは何であり、ついで、それを保証する国家や社会とはどのようものであり、どのように達成されるかを以下で説いていきます。

 

このように、人間の根源的な必要を完全に満たすこと、それが生命と健康の基本であり、永遠の条件なのである。それを「すべての人のために」確保することは、あるカーストやある社会階級、ある特権階級に限られた利益ではあり得ない。全国家の至高の利益なのだ。というのも、それはすべての子どもたちの健康、力、安定、喜び、そして勇気からすべての効率を引き出すからである。

……(中略)……

諸国家がこれまで、この単純で公正なミニムム・ビタルを実現してこなかったとすれば、それは単に、それを考えてこなかったからにほかならない。なぜなら、自分たちの活動の尺度の中で、それを第一に考えるのではなく最後に置いたからである。なぜなら、正義の実現という第一義的なものを、愛をもって見つめてこなかったからである。そして、人が求めないものは実現しないということは明らかである。しかし、国家が考えを変えるまさにその瞬間から、すなわち、その根本的で基本的な義務、その根源的かつ支配的な目的は、すべての子どもたちが生きるための必要を満たすことを得ようとすることであると考え感じる瞬間から、以前は理想的で複雑過ぎると思えたことが、実現可能で単純に思えるようになる。(II)

 

つまり、格差を肯定も否定もしていません。全体として、最低限の生存権が保障されていればいいのです。

そして、このような社会はどのようにして可能になるのか。

 

例えば、今朝、トルティーヤを作って私に食べさせてくれたトルティーヤ職人や、私の朝食を作ってくれた料理人について考えてみよう。彼らは私に何を与えたのだろうか? それは彼らの個人的生活の、ほんの断片、一様式にすぎない。しかし私があのトルティーヤや朝食を口にした瞬間から、彼らの限られた人生の、その時点までの具体的な一様式が変容して、無限の、計り知れない、風や光のように超越した影響力を持つ可能性を帯びるのだ。その質素なトルティーヤには、とうもろこしの種を蒔いた人、それを刈り取った人、種を蒔くために土を耕した人、鋤を作った人、鋤を作る鉄を鍛えた人の人生がすでに暗に込められている。その質素なトルティーヤは、私が口にすると、神経や精神の強さに、思考に、その思考を表現する意志に、それを形にする芸術的能力に変わるのだ。(III)

 

つまり、1枚のトルティーヤも、多くの人の労働の所産であること。過去から現在に至るまでの無数の人のお蔭なのだ、と。それが私の全ての生命活動に変容している。

 

更に、私の提供する労働も、この人間集団のダイナミズムの一構成要素として寄与している。すなわち、私が享受している物はすべて他の人々の人生の一部を捧げた成果物であり、享受した私も自分の人生の一部を他の人々に分け与えている。この認識をもって各自が生きていき、システムを構築していけば、「ミニムム・ビタル」の訴える健全な社会ができるはずだ、と言います。

 

私たちは、それをすべて一緒に行う。それが唯一の誠実で単純な真理である。そして、私たちがそれを知り、あらゆる証拠と力、神聖さをもってそれを感じる時、初めて私たちは、もはや野獣のように生きることを望まない者の、キリスト教的で人間的で、人としての尊厳のある社会秩序を構築する方法を見出すことができるのである。(IV)

 

このように、「ミニムム・ビタル」の思想は、「知足」や「因縁」といった、私から言わせればいわば仏教的な(本文ではキリスト教的と言っていますがね)考え方が、全ての人の生存権を保障する健全な社会を実現する、と私は解釈しました。

 

ミニムム・ビタルの教義は、何よりも個人と集団の意識の変容に基づく。(VI)

 

本書は、彼の希望を確信した次の結語で終わります。

 

バラの蕾(つぼみ)の開く時があるように、理念にも花開く時がある。そよ風も、小川も、鳥のさえずりも、大地も、雲も、その時を知っており、神の意志が成熟するために各々の義務を果たしている。それは神が彼らに託した秘密であり、彼らは喜びに満ちた忠実さをもってその力を捧げている。


正義と愛という言葉が意味を持つ生命の組織体にとって、ミニムム・ビタルにとって、その時は来たのだろうか?

然り。その時は来たのだ。(VIII)

 

最後の引用には、私にとって不都合な言葉を。

 

戒律9:酒に酔わないこと(、云々)。(VI) 

 

今、実はワインを口にしながらこれを書いています(汗)。

 

     ☆     ☆     ☆

というわけで、彼の生地であるウスルタン県のアレグリアに是非とも行こうと思った次第です。

なかなか機会がなかったのですが、遂に2月に2泊3日のドライブ旅行で、いざ、アレグリアへ。

ついでに近くのテカパ火山 (Volcán Tecapa) も探索です。

それらについての記事は次回以降に。実はアレグリアで、彼との縁を強く感じた一つの発見がありました。それについても次回の記事のネタに取っておきましょう。

 

……が、大きなヒントを出しておきましょうか。365分の1の確率の縁です。