ルクレティウスの死生観 | Que sais-je? ク・セ・ジュ――われ何を知る

Que sais-je? ク・セ・ジュ――われ何を知る

エルサルバドルに単身赴任中(7/15~8/5一時帰国)。
気候が良く日本より健康的な生活を送っています。
ドライブ旅行をぼちぼちしていますが、
この国で最も注意すべきは交通事故。
今や治安以上に大きなリスクです。

なおヘッダーは2020年に新潟県長岡市にて撮影。

 

前回の記事に、ルクレーティウス『物の本質について』(樋口勝彦訳、岩波文庫)からの抜粋を載せました。このあたりは本書の一つの佳境とも言える部分で、それまで原子論を主張し、精神が物質であること、従って死すべきものであることを論証してきて、この第三巻の最後の方で、それらからの帰結として、死は恐れるべきものではないという主張になります。

私も一つの思想として、こういう考え方を知っていましたし、また部分的には同意もしていましたが、あらためてその件(くだり)を読んで、再び非常に考えさせられました。そして、自分の人生に生かすための教訓になると考えました。

そこで、少々長くなりますが、更なる抜粋を以下にします(注)。

(注:訳者は1964年に亡くなっているということですから、「死後50年以上経過は保護期間終了」という2018年までの著作権法が適用され、かつ、新法律(死後70年以上)施行後でも「一旦保護が切れた著作物は保護が復活しない」という原則が適用されるでしょうから、ここに載せても著作権上の問題はないでしょう)

 

なお又、もし万物の本質が突然声を発して、我々の内の誰かに向かって、『おお死すべき人間よ、何だってお前は余りに痛々しい悲嘆にそのようにひたるのだ? 何だって、お前は死を嘆き悲しむのだ? 今は過去となったお前の以前の生活がお前にとって喜ばしいものであったとすれば、又お前の幸福がいわば穴のあいた器の中へでもかき集めたもののように流れ抜けてしまって、満足を得ることなしに失ってしまったというのならばとにかく、そうでない限り、ちょうど宴の客のように生命という御馳走に満足して、何故満足した心持で平穏な休息を求めようとはしないのか? 馬鹿者め。

 

又、お前が享(う)けたものが徒(いたず)らに流れ消え失せたとして、嫌な一生だったとしたならば、何だって更に多くを加えたいと望むのか?――むしろ生命、即ち、苦難に終りを告げようとはせずに、ただ不幸のうちに再びこれを失い、満足を覚えずに消え失せるようなものを望もうとするのか? これ以外には、お前の満足するようなことは何も俺には案出することも考え出すこともできない。

 

何事も万事は同じことなのだ。たとえお前の肉体が年齢故に衰弱しないとしても、お前の手足が弱り切って衰えてしまわないとしても、たとえお前が生き続けて、全世代を生き延びたとしたところで、又、たとえお前は決して死ぬことがないということになっているとしたところで、万事は同じことではないか』とこう云って叱ったとしたならば、一体我々は何と答えられようか。自然が非難するのは至極尤(もっと)もだ、真実を弁じている、と云う以外我々には何とも答うべき言葉がないではないか?

 

ところで、もしここで年老けて弱った老人が死を悲しみ、度を過して嘆くとしたならば、自然は更に声を大きくして、一層烈しい言葉を用いて叱っても無理はないであろう。『こんなことで涙を流すのはやめろ、馬鹿者め、嘆きを慎めろ。人生の恵みは悉(ことごと)く享楽した末の衰弱ではないか。然し、お前は常に、ない物を欲しがり、持っているものを蔑むが故に、お前の人生は完(まっと)うするに至らず、満足に思うことなく過ぎてしまったのだ。そして、お前が満足を感じ、現世に満ち足りて引揚げることができない内に、思いがけなく死がお前の頭上にせまって来てしまったのだ。然し、もうお前の年齢(とし)に似合わしくないことは皆捨ててしまえ。そして心を安らかにして、さあ、威厳ある者らしく立ち去るがいい。そうでなくてはならぬ』と。

 

自然が云うことは、蓋(けだ)し正当であろう。叱るのも、責めるのも尤もだ。何故ならば、古いものは絶えず新しいものに押しのけられ、一つのものから別のものが生み出されなければならないのだから。

 

(第三巻、931-965、岩波文庫版 pp.151-152。なお、読み易いように段落分けをしました)

 

人生が楽しいのであれば、満足した状態でそれを終えればよいし、人生が辛く苦しいのであれば、それから解放されることを喜べばよい。もちろん、死後には満足も喜びもなければ、苦痛も悩みもない。

だから、なぜ死を恐れる必要があろうか?

そういうことでしょう。

 

上のような理屈はなく、また精神の消滅を訴えているわけでもありませんが、生死に対する態度としてこれに近いものは、他には例えば禅や老荘思想に見られます。私の理解では、禅の思想では、生きていることに感謝はしても嬉しいと思うな、同様に、死を恐れるな、つまり、このようなことはすべて執着であり煩悩の根源である(嬉しく思うことも煩悩)、と言っているように思われます。今読んでいる別の本、『荘子』でも、かなり近いことを言っています。生も死もすべて自然の摂理だから淡々(「恬淡(てんたん)」という言葉を見かけます)と受け入れるのみ、それが道理にかなった、究極の超越した生き方である、と。

 

成然寐、蘧然覺。

(成然(せいぜん)として寐(い)ね、蘧然(きょぜん)として覚めんのみ)

もし死を与えられたら、安らかに眠りにつき、生を与えられたら、ふと目をさますまでのことだ。(『荘子I』、森三樹三郎訳、中公クラシックス、p.170, p.171、「第六 大宗師篇」12)(以前の記事にも載せた箇所の再掲)

 

私はこのような考えに傾倒しますが、まだ完全には受け入れられないでいます。

 

ところで、私はウィトゲンシュタインが最期に遺した言葉を思い出しました。

 

僕の人生は素晴らしかったと伝えてください (Tell them I've had a wonderful life)。

 

彼は「威厳ある者」だったに違いありません。こんな言葉を辞世にしたいものです。

 

この「them」は誰のことを指しているのか分かりません。恐らく、身内や知人で彼の臨終の場に居なかった人たちのことを指していたのでしょう。しかし、この言葉は、後世の私も含めた、彼について何らかのことを知るすべての人に対して語っていると考えたいです。

ワンダフルな人生という宴を愉しんだら、あとは安らかに死ぬだけである。生を満喫し、そして眠ればいいだけの話。

……いや、拙ブログはまだまだ続けるつもりですよ。以上は私の辞世ではありませんから、どうぞお間違えなく。

モンテーニュ『エセー』のある章(第一巻第二十章)のタイトルのように、「哲学をきわめるとは死ぬことを学ぶこと」、そんな気分になったのでした。