アフリカでの平凡な日常 | Que sais-je? ク・セ・ジュ――われ何を知る

Que sais-je? ク・セ・ジュ――われ何を知る

エルサルバドルに単身赴任中。
気候が良く日本より健康的な生活を送っています。
ドライブ旅行をぼちぼちしていますが、
この国で最も注意すべきは交通事故。
今や治安以上に大きなリスクです。

なおヘッダーは2020年に新潟県長岡市にて撮影。

 

「平凡な週末のような休暇」の別の日です。

12月30日(木)。色々と夢を見て、その余韻が残る起きがけ。何故か、洗濯をしようと思ってなかなかできなかったこと、それと、ありがちですが、トイレになかなか行けなかったことが記憶に残っています。全く意識も記憶もしていなかったはずの小学生時代の同級生が現れてきたことは、不思議です。

 

トイレに行けない夢は見ましたが、ご安心ください。この歳になって、シーツ濡らすようなことはしていませんから。起きて真っ先にしたのは、夢で実現できなかったその事ですが(夢で実現していたらどういう事になっていたかという話もある)。

その後、いつものように血圧と体重を測って、降圧剤と念のためアレルギー性鼻炎の薬を飲み、それから仕事モードから完全に脱却していないためか、気になってメールをチェック。仕事関係のメールが1つ入っていましたが、簡単に返事を済ませました。

坐禅、しばし自他のブログを閲覧、そして昼近くの風呂。

浴室では、私の出身地である新潟県柏崎市のコミュニティFM「FMピッカラ」を流しました。平日のこの時間帯(日本時間17~19時)は、いつもなら野村介石(かいし)さんがパーソナリティをしている「K-TRAX」という、2021年1月にオープンした柏崎市役所の新庁舎にあるスタジオからのライブ番組なんですが、年末でお休みなのでしょう、定まった番組ではなく、ひたすら1980年前後の、私の世代にとってのいわゆる「懐メロ」のオンパレードでした。知らない歌も何曲も流れました。

知っているあたりで言うと、八神純子「ポーラー・スター」、ゴダイゴ「ビューティフル・ネーム」、……。風呂から上がって、あみん「待つわ」、ピンク・レディ「サウスポー」、……。懐かしい!

するとそのうち、偶然にもゴダイゴの「リターン・トゥ・アフリカ」が流れて来ました。

 

 

実を言うとこの曲、リアルタイムで聞いた記憶がほとんど残っておらず、「そう言えばそんな歌があったかな」程度たっだのですが、ボーカル(タケカワユキヒデ)の特長的な声と、「ニューミュージック」の典型的な曲作りで、すぐにゴダイゴだと分かりました。そこでネットで動画検索して確認。

♪生き物たちが サバンナ駆ける
 命がここは きらめくよ

♪Return to Africa
 Regain your heart again
 アフリカに帰れよ
 生きる道を さがすんだ

おお~~、今、そのアフリカに私は居るのではないか! 生き物たちがサバンナ(近くのナイロビ国立公園)を駆ける!

Regain your heart again(心を取り戻せ )! 生きる道をさがすんだ!

……コロナで巣籠もりだけど。

アフリカをテーマにした当時のポップスで、私の記憶に強烈に残っているのは、やはり TOTO の「Africa」ですね。

 

 

こちらは歌詞を見ると、キリマンジャロとかセレンゲティといった地名が出て来るので、お隣の国タンザニアが舞台のようです。

 

しかし、冷水を浴びせるようで悪いですが、ゴダイゴの歌にしても、TOTOの歌にしても、どのくらいアフリカを知っている人が書いた歌詞だか分からないけれども、実際にアフリカに住んで5年が経とうとしている私からすると、いかにもロマンチックなイメージが先行しまくっているよなあ……。

♪The wild dogs cry out in the night
 (夜には野犬が遠吠えをする)
  As they grow restless longing for some solitary company
 (不安に駆られ、孤独な仲間を求めて)
(訳はこのサイトのものを改変しました)

歌詞なんで、別にそれでもいいんですけど、でも今の私のアフリカ生活の経験からするとちょっと違っていて、夜には、このコンパウンドの飼い犬4匹と隣の豪邸の飼い犬(何匹かは不明)が、不審の気配に駆られて突然一斉に吠えたりしているんですが。

もっとも、近くでたまにハイエナが出るという話は聞きますが、私はまだ見たことがありません。

他に自宅で聞こえる音としては、最近、コンパウンドの敷地内に長さ10メートルくらいの大きな鶏小屋が出来て、朝や昼は雄鶏の声がうるさいということでしょうか。坐禅していてもいきなり「コケコッコオオーー!」では気が散ります。もっとも、これも修行か?

 

在宅勤務が多く、従ってオンライン会議も多いこの頃。しかし会議をしている昼前後の時間帯は、鶏たちは比較的静かにしてくれています。

あと、しばしば、カラスの鳴き声をもっと甲高くしたようなハダダトキの鳴き声。それから一日に数回、上空を飛ぶ小型飛行機の轟音。時々、隣の草地から牛の鳴き声。

コンパウンドの使用人たちの会話と彼らのラジオから流れてくるトーク(スワヒリ語なのでさっぱり分かりません)や音楽。私としてはモーツァルトやバロックあたりが所望なんですが、そういう曲は決して流れません。

これがアフリカの日常です。これらはポップスの歌詞のネタになりそうにはありません。

もちろん、小鳥たちの鳴き声もいつも聞こえてきます。タイヨウチョウやハタオリドリ、サンショクヒヨドリは始終。毎朝きまって6時プラスマイナス10分に「ピーキョ、ピーキョ、ピーーキョー」と鳴き始める、私が「6時鳥」と呼んでいる鳥の鳴き声も聞こえてきます。朝6時はまだ真っ暗に近いので(標準時の設定の関係でしょう、夜が明けるのは季節を問わず6時半頃です)、まだ鳴いているところを目で見て確認したわけではないですが、どうもワキアカオリーブツグミ (Abyssinian Thrush) ではないかと思われます(2022.1.31追記:昼間、同じ声が聞こえたので探してみたら、確かにこの鳥でした)。

ちなみに、下の写真は以前、自宅ベランダで撮ったものを再掲。

 

 

そして、夜には時にベルベット・モンキーと思われる、叫んでいるかのように吠える声も。

ちなみに下の写真は、自宅コンパウンドに移り住んだその日に撮ったものを再掲。

 

 

やっぱりアフリカか。

でも、住んでいるというだけでは、「生きる道」は決して見つかりません。もしそうなら、アフリカ人にはみな「生きる道」が見つかっているはずです(あるいは見つかっているのかも、私が聞いていないだけで)。

インパラがサバンナを跳んでいく姿や、サルが庭木を渡る姿を漠然と眺めていても、「生きる道」は見つかりません。

そこで唐突ですが、本日の昼食は、ワカメ・ツナ缶・白ごまのご飯を作り置きして冷凍しておいたので、それをチンして、おかずはチンゲン菜・ネギ・ピーマン・インゲンのごま油・しょうゆ炒め。それに昨日作った定番の大根とニンジンの味噌汁。

自炊をしてそれを食べる、これはある意味「生きる道」と言えるのかもしれません。でもこれって、別にアフリカに居なくてもできること、というか、食材からして、むしろ日本に居た方がやり易い。

 

ちなみに夕食は、これも昨晩たんまり作っておいたベーコン野菜スープ。野菜はキャベツ、タマネギ、ニンジン、チンゲン菜、ジャガイモ、インゲンマメ、それにニンニク。味付けはビーフブイヨンに塩、少々の白・黒コショウ。結構美味しい。

脈絡がおかしくなってきましたが、最後に、「生きる道」を探すためというわけではないけれども、今読んでいるルクレーティウス『物の本質について』(樋口勝彦訳、岩波文庫)からの一節を。前回は記事が長くなり過ぎたので割愛しましたが、今回はこのくらい付け足しても構わないでしょう。

 

であるから、精神の本質は死すべきものである、と理解するに至れば、死は我々にとって取るに足りないことであり、一向問題ではなくなって来る。……(中略)…… 結合して現在我々というこの一体をなしている此の肉体と魂(アニマ)とが分離を起こして、我々という者がもう存在していなくなる未来においても、たとえ大地が海と混じ、海が天空と混じ合おうとも、我々にとっては――も早や存在していない我々にとっては――全く何も起り得る筈はないし、我々の感覚を動かし得る筈もないであろうことは明らかである。(pp. 146-147)

 

この巻(第三巻)では、精神や霊魂といったものが不滅であるという主張を彼はひたすら反駁し、精神は死滅することの論証をあれやこれやと試みています。

そこで、もし肉体の死とともに精神も死すものであるとすると――彼は精神も原子で構成された物質であると考えています――、自分が死んでもそれを感ずる主体である自分、および感覚も存在しなくなるので、死は結局は自分にとって何でもない、と言っているわけです。

この冷徹で割り切った理屈が、ルクレティウス(←私は「レ」と「テ」の間に「ー」を書きません)の思想の特徴です。「そういう身も蓋もない言い方をされたところで、死の不安や恐怖、哀しみが取り除かれるわけではない」と言いたくもなってくるかもしれませんが、ある意味、禅や老荘思想のように、生死を超えているとも言えるものの見方で、強い生き方につながってくるものかもしれません。

「快楽主義」と呼ばれるエピクロス派の哲学詩人で、それとの連想から後世の人が汚名を着せるために丁稚上げた話ではないかと私は思っているのですが、媚薬を常習していてそのために発狂し、自殺したとも言われているルクレティウス。

しかし、確かに自殺はしたかもしれないけれども、肉体的快楽に耽り、刹那的な享楽に溺れたような人物であったとは、私は考えたくありません。

……と書きつつも、媚薬ではないが酒を呑みながら、今度は『山頭火句集』を読み進めるこの日の晩でした。

山頭火にも心を揺さぶる句がありましたが、記事がいつまで経っても終わらなくなってしまいそうなので、今回はここまで。

(最初の写真は自宅のベランダ。毎週月・木の午後、部屋に掃除が入りますので、自宅に居る場合は室内を空けて、ここに腰を下ろして本を読んだり作業をしたりしています)