革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ -14ページ目

革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

文芸復興が主目的。ネオ新感覚派を求める、文学、読書好き、の人のための文化的ブログ。
革命的文章表現をテーマに、その創造と、その支援を目的としたい。
山畑健と言う本名で、キンドルで本を出している。文学、読書に関する底辺拡大の行動として、ブログを選んだ。

 小説、漫画、ドラマ、映画、と言えば、当然、物語だ、と思われている。僕だって、物語を組みこまなわけじゃない。ある程度は、物語になっていないとかたちを損なうし、物語に特化したものもある。けれど、基本、今は、物語を描かない作家、をやっている。

 物語卿、物語教、物語狂、物語今日、と言ってきた。世界は、多くは、その、物語キョウだ。あるいは、病、でもいい。だからこそ、物語じゃない、話を作り上げてきた。どんな話か? と言えば、こうした、エッセイのような、小説論、思想犯だ。思想を書く。会話形式を使って、主義と、思想を語り、売るのだ。それ以外のものは、大して、価値がないもの、と考えてきた。

 これは、僕の到達した、文章学の、行方、の行く末、だった、と思ってもらえばいい。どんな感じか? は基本、このブログでも書いている、小説『・とー』みたいなのが基本だ。物語としての筋より、主人公の価値観、思想、理想が、主になっている。それに、僕から見た、世界の、神様の取り繕い方、だ。けっこう、神様は出てくるし、難癖をつけている。色々、経験したものが悪かったのだろう。

 必要性は、分からない。評価は、いいねの数を見ると、あまり芳しくない。ただ、人と同じことをやるのに、必要性は、もっと、感じないだけだ。売れることだけを考えた作家なら売れなくてもいいと思うだろ? と言うのが、僕の、姿勢であり、概要だ。

 だから、何らかの、姿勢を書く。意識を書く。主義、思想を売る。

 実は、革命的文章らしきこともいくつか挑戦している。メタファを多く使った作品とか、時間を前後させた作品とか、雑誌自体を小説にしたような作品も挑戦している。芸術科の大学の卒論を、卒業課題の過程を作品にしたものもある。既に廃版になっている、アンチテーゼは、作品自体による、反対命題だ。アンチテーゼは、こちらはまだ世に出ていないが、2もある。やはり、ウケは、芳しいとは言えない。

 やってみて分かったのは、これから、文章と言うものには、もっと、深く、掘り下げられるだけの、可能性がある、と言うことだ。その可能性に、自分の能力が追い付いていないだけ、だ、と思う。わりかし、自信なら、あるのだが。それが、自身になって、毛嫌いされている、とも取れなくない。

 それでも、この姿勢は、変わらない、だろう。ずっと、僕が、終わるまでだ。いや、今回が終わっても、まだ、続くかもしれない。それぐらい、病的に、面白いの域に達している。

 とは言え、ある程度の、物語性も、加味させなければいけないのだが。『・とー』が、示した通りだ。ただ、物語を読む、という姿勢で、読まれると、外れる、だろう。考えることが、これも、病的に好きなのだ。

 一般受け、書籍自体が、低調の世の中にあって、どれだけ、やれるか? はものすごく、困難だろう。それでも、困難にこそあたれで、やっていることが、ここ掘れワンワン、だと信じて、やっていく。健気な犬だ。その実、楽しみたいだけの犬だ。

 何か、きっかけがあればいいのだが、と思ってブログにも挑戦したが、アメブロは、アメブロ内での、集客だった。あまり、不特定多数の人に見られる、というイメージの媒体、とは違った。やるなら、ワードプレスで、ホームページでも、自分で、立ち上げるでもしなければ、意味がない、だろう。もっと、自在に、必要としてくれる人が集まる媒体、メディアがあればいいのに、と思う。

 Web小説も、ファンタジー関係ばかりだ。本当に、考えることが訓練されていない、国民だ、と思う。想像力は、だいぶ、漫画などで訓練されているようだが。

 まァ、それでも、題意は変えない。上に記された自己紹介のように、仰々しいままだ。やりたいことで、やらなきゃいけないことと思っているので、色々、可能性は、これからも、探っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 納得していない、には意味がある。今は、聞き流している言葉でも、たとえば、この意見にしても、自分が、気に入っていないものには、そこには、それなりの意味がある。

 何気に聞いていて、同調するでもなく、否定するでもない言葉がある、と思う。世界では、何度も使われている言葉だったりする。例えば、僕の言葉で言えば、『全人類の恒久的幸福』、とか言っている。これは、そこに、今の人間の感性で、行ける、と言う意味で使っている。

 おそらく、納得していない人もたくさんいるだろう。納得している人は、人で、一つ、意見が、形になった、と言うことだが、納得していない人には、そうさせる、自分の意見が、その肌に、その感性に、その見えているもの、見てきたものに、あるから、納得しないんだ。

 だから、答えは、人の数だけある、と言う言葉が成り立つ。

 僕は、この言葉にも、納得していない。答えは一つだ、と言うのが、僕の意見だ。すると、それに納得できない人がいるだろう。その意見、気に入らない、だ。

 だから、彼には、彼の意見ができる。そこに、意味として、価値のあることが生まれる。自分が、どういうタイプか? は、自分しか知らない。僕は、こう作られたから、答えは一つだ、を信奉している。間違っている、というふうにとらえる人がいても、僕には、そうとしか思えない、と返すよりしょうがない。これは、僕の意見だろう。

 正しい、正しくない、はあるかもしれない。何事も、計算で、できている世界だ。にも、気に入らないがあるかもしれないが、あるかもしれない、という意見だ。だから、正しくないなら、それは間違いだ、といつか訂正される世紀が来る。人類の歴史が、天動説、などを訂正してきたように。

 けれど、今現在では、二つ、または、それ以上の意見が、同時に存在することになる。そうして、それで、人は、人と、摩擦を生むこともある。これが、ストレスを生むことにもつながる。相手を尊重するとき、その立場で、その環境で、その経験で、見たものがそうとしか映らないから、そう感じるのだ、という意識は持っておいた方が、互いを思いやることができる。軋轢をなくせば、災いも少なくて済む。

 本当に、人の数だけ答えがあるのなら、それもまた、美しい、数式だ。と、僕は答える。

 気に入らないは、何かの報せであり、気づきのもとであるから、注意して、吟味、試行してみるといい。そこに、誰も発見しえなかった、答えが、見つかることだろう。それが、革命、革新、になるから、面白い。

 

 

 

 

 

 

 

 才能はある、と思う。誰もが、優秀だ。やはり、個人は、みんな、ちゃんとしようという意識を持っていて、それに見合う、能力も磨いていっている。ただ、才能の使い方が、特別、必要なことに向いていない気がする。

 何を想うか? だ。人、世界、社会、未来、こういうものに、想いをかける人が少ない。その方向性を変えるだけで、順序正しい世界は、出来上がる、と思う。

 検察庁法改正案で、芸能人が動いた。アレは、どうも、フェイクニュースみたいだったようだが、芸能人が、政治、経済に関心を持つのはいいことだ、と思う。その場だけの発言にとどまらず、本当に社会を良くしたいなら、未来に向けて、どうすべきか? を考えるのは、考えないで、何もしない人間より、ずっといい。誤っていれば、後出しじゃんけんになるが、謝って、前進すればいいだけだ。

 元来、社会の人が、政治や、経済に、夢を見なさすぎな社会が、今の日本だ。なら、誰が、政治への夢を語る、と言ったら、インフルエンサーしかない。否定論ばかりでは困るが、こうすべきだ。こうなっていくべきだ、と言うのは、本来は、それぞれに、持っておくべき、国民の義務、と言えるものになっているべきことのはずだろう。

 あまりに、人が、自分のことばかりで遊び過ぎた。なれの果てが、今の、この国だ。だから、誰にも、今の政治を、批判する資格はない。と言ってきた。

 とは言え、それで止まっていたら、いつまで経っても、政治は、どれだけ、国民のためになっているのか? 分からない、まま進んで行くことになる。いつか、どこかで、政治に、国民の視線自体が、関心を持てる、優良な社会にならなければいけない。それなら、今、これはおかしい、間違っている、と思ったなら、どんどん、声をあげるべきだ。それで、ファンが減る、スポンサーが去る、と言うのを考えるのが、元来、間違った発想だ。

 能力があるのだから、それを何のために使うか? は重要なことになる。僕は、文章に、命を懸けることを決めているので、政治には、動けない。物を言う資格がない。これは、幼いころからの、選択の問題と、訓練の問題だから、仕方がない。けれど、まだ、才能の使い道がある人間なら、存分に、その方面にも、せめて、若い人が夢を持つぐらいは、働かせてほしい。

 夢は、抱かなきゃ、理想には行けない。世界を理想へと導くのが、今を生きている人間の背負うべき課題だ。それをやっていくには、当然、僕一人が足搔いていても、どうにもならない。

 もっと、力のあるものが、もっと、声の大きなものが、世界に対して、何をすべきなのか? 何が、本当の意味で、悟り、と言えることなのか? に気づいてもらうしかない。

 勇者の登場を待つ、じゃなく、勇者の健闘を待つ。

 勇者なら、英雄なら、もうすでに、いる、ではないか? と思える、良識を、他人に垣間見られただけに、惜しい、では、終わってほしくない。

 

 

 

 

 

 ウソップとはいい名だ。イソップ童話が本当だったことは一度もない(体感的に、偏見あり)。だったら、ウソップ童話の方が、本当かもしれない。それなら、いかに、本当になるべき、ウソップ童話を書くか、だ。盲目的に信じていても、いいことなんて、一つもない。

 イソップ童話と言えば、ちゃんと道理を通せば、ちゃんと報われる、と言う話だ。ウソップ童話は、自分に利益になるように話すことで、自分の利益になる、と言う話、だろう。

 どう考えても、イソップ童話の方が、正しいはずだ。正しくなければならないはずだ。なのに、なぜ、それが分かっていて、そんな話をするのか? 

 したいわけないだろ。

 の一言で済む。残念ながら、世界は、正しいを行っているだけでは、正しく報われない世界だ、と言っているわけだ。言ってみれば、最悪な、世界だ。そんな世界住みたくない。

 だから、ウソップ童話が必要になる。より、自分の利益を考えて、誠意を尽くす中で、ちゃんと、自分の利益を生む、童話。

 真面、がどちらで、真面じゃない、がどちら、だろう? 

 なぜ、イソップ童話は、生まれ、これほどの支持を受けているのだろう? 原点に返ってほしいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分、分からないですよね? 自分は、自分じゃ見えない。鏡があるとはいえ、他人を鏡にできるとはいえ、自分で、自分を説明できる人間は、そうはいない。

 それは、いくら、年を重ねても、ずっと、考える人間をやっていても、自分が何か? にたどり着くものはいない。だから、自分の評価は、他人が決める、と言う人もいるぐらいだ。

 けれど、僕は、自分は、自分が決める、と言う。自分の評価は、自分でするものだ、と言う。

 じゃァ、自分で、自分を掴めているのか? と言えば、感覚的生き物過ぎて、きっちり、とは答えられない。ただ、自分は、自分で作るものじゃないか? と言うぐらいだ。

 自分という、はっきりした個体ではなく、自分の中に積み上げて言ったものが、自分なのではないか? と言えるぐらいだ。それでも、それでは、記憶の産物になってしまう。自分で、自分を覚えることはできるけれど、記憶である以上、確実ではない。

 あなたは、どんな人ですか? と聞かれて、

 割と、人見知りで、思ったことが言えなくて、けれど、打ち解ければ、すごく親しみやすい人間で、気も使いうし、わりに、嫌われることが嫌なので、使い勝手のいい人間だ、と思います。何て、言える。

 けれど、それが、自分のすべてな、訳はない。自分で知っている自分でさえ、それがすべてなわけはない。考えれば、そうとう時間をかければ、自分と言うものについて、作文を書きなさいと、原稿用紙を、十枚渡されれば、ある程度、それなりに、まとまった自分像と言うものは見えてくるかもしれない。だけど、誰も、そんなことやらないから、自分は、分からない、ままだ。

 それでも、誰より、永く、それはいつも、自分は、自分と付き合ってきた訳で、なかなか、自分が嫌い、と言う人もいないわけではないが、結局は、好きになる。好きでいたい、はずだ。そんな自分。

 文章をやっている。自分を主人公にした、僕という一人称の文章しかやらない。相当、自分に詳しくなったはずだ。書いたページ数では、万を超える。それでも、まだ、自分は、知らない自分がいる。やっていて、新しい発見に出会うことがある。まだ、まだ、掘り起こせる自分だ。倍も、何倍も、ありそうだ。

 自分探しの旅、とか言う。けっこう、嫌っていた。そんな旅、出たくもない、と思っていた。旅には出ても、自分は、自分としてあるか? 自分では、掴めない自分のままか? のどちらかでいい、と思っていた。割り切っていた。

 と言えど、自分が見つからないままで終わるのも、なんだか、寂しい話だ。いよいよ、自分探しの旅に出る時が来たのかもしれない。

 想像の産物は、果たして、正確な、それ、と言えるだろうか? 僕は、僕を想像する。たくさん、たくさん、想像してきた。それで出来上がった自分が、ここにいる。

 でも、それが、本当の自分なのか? は分からない。単純に、自分なんて、作ればいいんだ、と思っていたけれど、そんな単純な話じゃないのは、昨日と、今日の自分が、いきなり、がらりと違うことでも分かる。理性が、自分だと言えればいいと思っていたが、理性は、確かに、経過だから、積み上げの上にあることだけど、昨日と違っても、思い直せば、そこに戻れるけれど、まだ、不確かな要素が、嘘つき、と言われてしまう要素が、確かに、残っている。

 自分を見つけた人がいるなら、自分とは? と言う問いに、答えて、語ってほしい。どうして、こんな身近な、難題を、ほうっておいてきたのか? 人間の、人間探しは、まだ、始まったばかりだ、と思う。今後世界は、そこに踏み込んでいくべきだろう。

 自分を見つければ、まず、自分に困惑しない。それだけで、確かな一歩を、今日も、踏めることになる。

 

 

 

 

 他人を楽しませること、それは、快楽だった。他人を笑わす能力がある、と言うのは、何より、強い自己防衛能力でもあった。実際、他人を笑わす力があれば、その人は、他人から求められ、他人からのけものにされることはない。自分を楽しませてくれる人を邪魔者扱いするほど、人は、センスに強い生き物じゃない。

 センス、それを、何より、笑わせる能力と言うのは、必要にされるからだ。それは、その冗談、笑わせ方を聞いた人間も、よく分かる。どれだけ、機知のあるものか? と言うことは。だから、笑わせる人間が、今、日本で、一番、幅を利かせているのだ。

 僕が、子供の頃は、当然、無償だった。友達を笑わせるのに、金はとらない。それが、僕が大人になるにしたがって、他人を笑わせることは、お金をとることに変わった。長者番付、と言うものがあったが、いつも、上位は、お笑い、だった。

 吉本興業は、興業だ。

 それが、世界の悪徳だ。無償なら、無償でよかった。他人を笑わせることは、ただの、サービス精神なのだから。芸術の美が、市民への奉仕の美だとして、ただ、無償で、奉仕していれば、美しかったのだ。それが、金を稼ぐ、役職になったから、政治家と同じ、腐敗に満ちたのだ。

 今では、面白くないは、人間否定だ。面白い人間の不合格通知は、何より、悪魔的烙印にされる。それが、社会の空気を支配して、笑いをとれれば、何より重宝されるようになっている。

 一発屋、と言う商売がある。一時期、一つ、二つのネタだけで、あちこちのテレビに、出没する職業だ。それを、便利だから、椅子にふんぞり返っている、大御所連中さえ、賑わせで、あるいは、数字稼ぎで、番組に用いる。使い捨てを繰り返す世の中になり、それに飽きたのか? それさえ、使い捨てになりつつある。元から、実力などなかったのだから、しょうがない、と言えば、しょうがない。ただ、後味の悪さ、だけを、後に残してしまう。

 スカシ芸、と言うのがある。つまらないことをやって、逆に、注目を集める、連中だ。共感があるのか、何なのか、分からないが、これが、使われる。また、地位安泰になった連中が、落ち目になった、番組に呼んで、冷たい目線を向けて自分の位置を確保しては、飽きて捨てられる。

 そりゃ、何かを間違っているのは、分かりそうなものだ。全体のレベルが取り返しのつかないところまで、落ちる。本当に、頭が悪いのは、お前だよ、と言ってあげたい。

 自分が表に出て、自分の葦で、働いていないものは、当たり前のように、そのうち、そいつが何もやっていないことに気づかれ、そのうち付き合いで見ていた連中も、見限って、廃れていく。自力でやっていないのだから、当たり前、と言えば、当たり前だ。

 そして、残ったのは、何でもいいから、金を稼げ、だ。本来中心だった、他人を楽しませること、それに対する、無償の愛、と言うものは完全に失われ、殺伐とした、ごり押しの、強制的、悪意だけが、残ってしまう。サービス精神でさえない。凶器になったお笑いなんて、それこそ狂気だ。世界を、いい方向になんて持って行けるはずはなく、また、自分らのお笑い、と言う職種さえ、いい方向に持って行けるはずはなく、ますます、ジリ貧になっていくだけだ。

 テレビを見る視聴者には、見たくないものは見ない、と言う権利があるわけだから、チャンネル一つ変えるだけでできる。あるいは、テレビの電源を消すだけでできる。当然、そうやって、見限られていくのは、普通のことだ。元来、取捨選択の権限は、視聴者にあるべきだ。強制的にテレビを見せる、なんてものがあるわけはない。僕らは、どこかで、お笑いに、脅されていた。そして、とうとう、そのつまらなさに気づいた。だから、お笑いが廃れていく。普通のことだ。

 お笑いを維持したければ、何本もレギュラーを持って、その数で競うのではなく、数を絞って、構成から、参加して、やり直すべきだったのだろう、と思う。日本のお笑いが、金稼ぎじゃなく、文化としての意義に注視していれば、世界は、こんなに落ちぶれていない、と思う。

 それとも、ここまできたら、凶器で脅し、、狂気的、強喜劇として、売っていくか? まァ、そんな度胸もない、だろうな。しょせん、履き違えの人間たちだ。

 誰が、悪いわけでもない、お前が悪いんだ。調子に乗せた、お前も悪いんだ。酷い結果になったことに、酷く、お笑いの神様は、ご立腹だ。才能の使い方を、人間、考えるべきだった、と思う。

 

 

 

 

 

 

 人生は、永いようで短い。短いようで、永い。それは、人生において、何を学ぶか? によって決まる。

 充実した人生は、永い、と言う。それに似て、たとえば、ものすごい分厚い本を勉強しなきゃいけない時、それは、きっと、永く感じるだろう。

 たとえ、勉強することに、快感があっても、永く感じるものだ。それだけ、覚えなきゃいけないものが多い、と言うこと。一度、一度、リセットしていたら、どうか? は分からないけれど、生涯、勉学したと言えるようなものなら、時間を永く使える。

 何も学ばない人は、あっという間に時間が過ぎる。つまったものが、何もないから。けれど、そこで、覚えているものがあるなら、時間は、それだけ、凝縮されているものだ。中身が詰まっているから、重さがあり、ただの、日々ではなくなる。

 時間が早く過ぎるのは、ただ、勉学していない、と言うだけのことだ。だから、早いね、は、あまりいいことじゃない。自分は、勉学していない、と言うだけのことだ。本当に、毎日、勉学しているなら、それを積み重ねているなら、いくら、どこかにゆとりや、怠慢を持っていたとしても、それは、とても、永さを感じられる時間になっているだろう。

 人は、毎日、勉学しなきゃいけない。ただ、無駄に過ごしていたら、意味がない一生になる。死後、世界があるか? どうか? は知らない。あってもいいし、なくてもいい。けれど、何も学ばなかった人生は、死んだ後も、何にも繋がらない。

 バカになれ、と歌う歌手がいる。それは、生きるな、と言っているのと同じだ、と僕は思う。日々は、どれだけ、勉学したか? だ。一日、一日、一歩でも、前へ進まなきゃ誰もが、何かを腑に落とさなきゃ、生きた証は、何も掴めていない、と言うのと同じだ。

 学ぶことは、無限にある。いつまでも、いつまでも、学べるのが世界だ。人生を、永く感じるか? 短いものにするか? は、君の、世界への対峙のしかただけでしかない。

 このせっかく生まれた世界、無駄になんかするな。誰もが、とても永い人生だった、と言って、終わる生であることを、僕は、強く望む。

 僕は、逆を言う。賢くなれ。頭よくなれ。天才になれ。人を、自分を、幸せにできる人になれ。とても、永い、永い、人生を、生きろ。人生は、決して、あっという間なんかじゃない。もっと、濃密な、芳醇な、実感できる、十分、永いと言える、生まれてから、死ぬまでだ。

 短いというのは、何も学ばなかった、と言うことに過ぎない。

 

 

 

 

 

 願わくば、すべての人が、心安らかに、穏やかに、喜怒哀楽の、怒と哀を取り除いて、喜びと、楽しさだけの、人生でありますように。

 願うことは幾らでもできる。そして、その気持ちにも、嘘はない。本気で、信じている想いだ。

 人を悲しませるのは、人だ。それが、理解できない。なぜ、そんなことをしなきゃならないのか? 単純に、楽しいばかりの世界になればいい。疑い、非難し、認めず、許さず、否定して、また、哀しみを生む。必要のない、痛みを作る。

 愛する人が、愛される人でいいだけの世界。人を誰より愛した人が、人から一番愛されればいいだけの世界。違う、と言うのは、世界の何が違うのだ。何を、その人は認められないのだ。

 僕は、覚えたことしか話せない。信じていることしか伝えられない。人間を信じているから、人間の話をする。

 複雑なものはいらない。複雑は、迷路に填まるためじゃなくて、迷路を楽しむために、必要なだけだ。

 願ったよ。誰より、願ったよ。本気で、心から願ったよ。けれど、叶えてもらえなかった。この願いが、そのつけで、他人の願いを叶えないようにするのは、違うから、それだけは、違うように、と、もう一度願うよ。

 世界に、願いの数だけ、奇跡があるわけじゃない。

 けれど、願いの数だけ、優しさがあるのは、事実だ。

 その事実に、もっと、願いたくなったよ。叶わなくても、願いたくなったよ。世界は、きっと、みんなを、行くべき場所まで、連れて行ってくれる。そうだよね? 

 今は、そう、願うよ。

 世界にある、優しさの一つになれるなら、それで、十分だから、願うよ。

 叶うといいな。届くといいな。何かが、何かで、報われるといいな。ただ、ひたすら、愛する人でいたい。人を否定何て、しない、あり方を探し続けて行きたい。

 僕の生まれた星は、命の憩う場所だ、と信じたい。

 報わらない魂なんてあるものか? と言い切れたら、どれだけ、真っ直ぐでいられることか? 

 

 

 

 

 

 

 ブログが、本来のブログになった。何でもいいから、書きたいことを書く。文化目的でもなく、文章革命目的でもない。ただ、その日のことを、エッセイでも、文章表現でもなく、書ける。

 アクセス数が一時期、急に百を超えて、何だ? と思ったけれど、訪問者数は、二十幾つだった。まだ、二十近くいるのが不思議だけど、もう、そろそろ、力を心底抜いて、書きたいことだけを書けばいい、ところまで来たかな? と思う。

 それで、夢を語れ、だ。このブログでは、大志は抱くな、と言っている。本気で書くなら、そうなる。僕の人生が、それを証明してきた。ろくなことは一つもない。素直に、流れに身を任せている方が、楽だし、恵まれる。差別も受けない。

 けれど、ここで、夢を語れ、と書く。

 なぜか? 

 なァ、神様、そろそろ、夢に飽きてきたよな? 違う夢が見たいよな? どんな夢か見せてほしいよな? 

 だ。だから、夢を語れ、になる。たくさん、どでかい、大業な、健やかな、人間的に豊かな、夢を、みんなに、語ってほしい。夢を、若者が語れなくなったら終わりだ。と、何かの、記事で読んだ。それが、どれくらい、人を想ってのことか知らないが、近しいことはあるだろう。

 だから、どんどん、夢を語ってほしい。今までになかった夢を、築いてほしい。世界を、そっちに引っ張るほど、威勢のいい、夢を語ってほしい。

 つまらない。そんな時間、時代に、一時期でも持たせてはいけない。神様は、みんな見ている。経験談。多少、失調症気味。けれど、僕は言う。神様は、みんな見ている。全知全能なのだ。だから、たくさん、この夢が、この夢の続きが知りたい、と言うような、夢を多くの人に語ってほしい。

 読む人が少なくなったことで、宿命のような意義をこのブログにはなくしたことで、無責任に言える。

 けれど、つまらない、は、本当に、一時期でも、作ってはいけないんだ。世界が、生きるに値する。とても素晴らしき世界だ、と次の世代、次の世代に、繋いでいくためにも。

 夢を見るというのは、人生において、最高のことだ。夢がなかったら、起こらなかった奇跡が幾つもある。だから、君の夢は、人を励ます夢だ。だから、大いに語り上げてくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 追いかけて、追いかけて、追いかけて。泥だらけになりながら、追いかけた。夢。それは、白き、魂。

 他人は言う。一球入魂、と。

 投げるボールだけに限らない。その一打。その一捕球。みんな、魂のかかった、世界だ。

 ピッチャーが、二度、三度、マウンドで、手元で、、遊ぶように投げる。お前の魂は、オレが持っているぞ。ここにあるぞ。って。さて、どうするか? と、弄ぶ。

 オレは、打てるのか? あの球を打てるのか? 打たないまま、終わるのか? 期限は、そこまで長くない。外野に転向して、二年目。先を見てのことだったが、それでも、二軍でも結果を残せない人間を、いつまでも、雇ってくれるような、甘い世界じゃない。

 打たなきゃいけない。守りは、できている。足には自信がある。後は、打つだけだ。

 長打はたまに出るが、一軍でのプロ初ヒットは、ホームランだったが、まだ、打撃は荒い。確実性、を備えたいものだ。今まで、何をしていたんだ。で終わっては、後にも続かない。野球の世界で、食っていくためにも、とにかく、打って、結果を出すしかない。

 登れなかった、スターダム。ここで終わるのか? コロナ禍の中、残り、二年、三年の、限られた戦いが始まる。まずは、二軍で結果、そして、一軍定着。代走でも、守備固めでも、信頼を掴むこと。そして、打って、打って、使ってみたいと思ってもらい、スタメンに名前を刻むこと。後は、そこから、レギュラーだ。僕が打って、悲しむ人なんていない。応援してくれる人はいる。

 なら、いくらでも、打てばいいはずだ。

 磨け。そのスタイル。泥臭く、守備でも、バッティングでもボールに食らいつく、そのスタイル。栄光の途中に、この道はあるんだ。そう信じるものは、僕だけかもしれない。けれど、僕が、僕の人生を信じなくなったら、何もない、ことだ。

 始終苦しむ、その番号をもらった。至急に、お前が必要だ、の番号でもある。もっと、もっと、輝け。僕は、これから、人生の最後の前線に向かう。ここを勝ち抜かなければ次はない。諦めるのも、悪くないが、最後のあがきぐらいは、見せつけたいものだ。