革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ -13ページ目

革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

文芸復興が主目的。ネオ新感覚派を求める、文学、読書好き、の人のための文化的ブログ。
革命的文章表現をテーマに、その創造と、その支援を目的としたい。
山畑健と言う本名で、キンドルで本を出している。文学、読書に関する底辺拡大の行動として、ブログを選んだ。

 数字社会がいや、で抜け出た。そして、世界を知って、数字自体に意味がないことを知っている。けれど、数字がいいと嬉しいものだ。これは、何の性分だろう? 

 ブログを始めたときは、当然、アクセス数だ。これは、やけに気になる。いいねは、有料のアプリがあって、見ない人でもしてくれることがあるが、見てくれる人でしてくれないと、逆に、単純じゃないことを書いていることが認識できて、悪い気にはならない。それでも、分かってほしい人には、貰っていることが多いから励ましになる。

 読まれなきゃ意味がない、これは当たり前だ。それで、最近、Twitterの方に力を入れようかな? と思うようになった。フォローは0だが、見てくれている人は、ブログと段違いで、さらに、僕の望む、不特定多数の人に見られているからだ。

 そう、ここでも、アナリティクスが気になる。だから、数字をあげようとする。自然な行為だ。そして、本末転倒にならないように、と気を使う。言いたいことがあるんだ。だから呟いていたことだ。それを、踏み間違ってはいけない。

 数を追うは、えてして、悪い方に転ぶことがある。神様も、数だけを求めるようになれば、落雷を落とす。中身が伴う、というより、中身の方が先じゃないと、してはいけない行為だ。それでも、昨日より増えた、は、楽しいものだ。今ブログは、基本、十五人ぐらいが見ているのだろうか? 記事のアップ数で、アクセス数が、三十を超えるくらいのものだ。

 もう、ブログには、数は求めていないから、特に気にしていない。そこまで、渾身込めて記事を書かなきゃ、という数でもないかな? とも思っている。ただ、今は、Twitterにも繋がっている。流れてきてる人の数は、僅かだが、意外に、嬉しい。狙っていた、不特定多数だから、もっと、読んでくれたらな、と思う。

 キンドルの方は、相変わらず、低調だ。この一か月、十三ページしか読まれていない。リーピーターもないところを考えると、だいぶ、駄文をやったか? と思う。技術をあげるより、しょうがない。

 書くことにおいて、ブログをやったこともあるが、また、違う角度から、前進できている。世界は面白い、今中学生ぐらいだったら、どれだけ、希望的未来を見ているだろうか? と思えるぐらい、面白いものがたくさんある。それだけ、メディアが、人の、市民のもとに降りてきたのは、素晴らしいことだ、と思う。今後、このSNS経済がもたらすものは、計り知れない、だろう。

 詐欺にならず、売れるものを売れるよう、身を律し、気を使って、育てていこう。楽して儲けたいは、誰でも思うことだが、尽くして儲けたいも、充実感があっていいものだ。

 何にせよ、今は、勉学だ。勉学している限り、人生は、あくなき挑戦で、飽きない挑戦だ。自然と、人にも寛容になれる。苛立ちもなくなる。愛し、愛されなよ、と言える。

 だから、今は、勉学を、続けていこう。きっと、それが、他人に対して、意味を持つ未来は、いつか、来る。そっと、ほほ笑みながら、やってくる。

 それに見合う、ほほ笑みを持てる人に、ならなきゃ、ならないんだよ。

 

 

 

 舞台に出る。色々な舞台があるだろうが、聴衆の面々のいる舞台に出る。その舞台にもよるだろうが、けれど、多くは、無差別で、不特定多数の聴く、見る、舞台だ。だから、見たくもない人の目に触れる場所である場合もある。注目を集めれば、集めるほど、そうだ、と言える。

 聞きたくなくても聞こえる。見たくなくても、目に入る。は普通にある。見たくなければ、聞きたくなければ、見なければいい、聞かなければいい、は通じない。そう言う人にも気を遣うのが、常識、だと思う。

 けれど、すると、棘のない言葉、ばかりの世界になる。それも、果たして、人の望んでいるものなのか? という題意は残る。 

 私意を入れるのが、正しいのか? 難しいところだ。思想や、主義があるから、それを込めた作品を発表する、というのは、民主主義では認められる。資本主義でも認められる。けれど、それでは、囲われた中での作品、思想、と言うことになる。主義を通すのは、ある種、危険だ。思想を簡単に翳すのも、ある種、思い違いを引き起こす原因になる場合がある。

 とは言え、思想、主義のない作品が面白いか? と言われれば、そうは言えない時代に来ているかもしれない。作者は、その思想を、主義を、主張すべき、なのかもしれない。

 すべて、資本主義で、民主主義と言う、囲いの中で、なら。

 国の思想を変えてはいけない。国の主義を変えてはいけない。まだ、そこまで、文化は、はっきり言えば、成熟していない。もっと、色々な立場からの、色々な意見が、発言されるべきだ。思考の、議題に上がるべきだ。人は、もっと、いろんな色を見なければならない。

 そこで、熟考し、新たな価値観、道徳観念、世界の安全性を、精査、思案したうえで、色々こねくり回した中で、生まれてくる、思想、主義を、次代へと、進めるべき、なのだろう。

 だから、現状を確約したうえで、今は、色んな、多岐の、思索、思想、主義、趣向を、盤上に、合わせ、確認し合うべきだ、と、僕は考える。

 言ってしまえば、思想も、主義も、私感、私意で、話さなきゃいけない。自分の考えを持つこと自体は、より、要求とされる時代、だと思う。

 表現者は、今のうちに、私意を含んだ、表現を示し、見せつけるべきだろう。

 ただ、最後に、落ち着くべき場所に落ち着く、それを、了承したうえでのことだ。ただ、嫌々で、ごねるだけの、オコチャマな時代には、サヨナラだ。

 僕は、思想、主義を相変わらず述べて、売っていく。

 

 

 

 

 恐怖は常にある。革新、それは、何も勢いだけでやれるものじゃない。思い付きだけで、済まされるものじゃない。それによって生まれる、プレッシャーも、後悔に近い踏み込まなければよかった、という安全地帯から自ら抜け出たことでの、負荷も、当然ある。

 けれど、進まなきゃならないものは、進まなきゃならない。そのままにしておいても、ただ、時間だけが過ぎるだけだ。人は、世界は、いつまでも、同じままではいられないんだ。どこかで、変革は起きるし、どこかで、違う主人公は生まれる。

 僕も、僕の今見ている社会も、例外ではない。覚悟は、いつか決めて、それに殉死するように、立ち向かわなければならないときはある。

 変わるのは怖い。変えるのも責任があり、怖い。変わると言う言葉は好きではないから、進む、進み続ける、と言ってきたが、結果は、変わってしまうものを望んでいるのも事実だ。

 怖いから、やらない、を選択する臆病ではいけない。敵は自分だ、とは、そういうとき使うのだろう。

 和を保ち、すべてに不満が行き渡らず、誰もが笑顔でいれて、それでいて、前進、変わった、と言えるまで、進めていかなければならない。

 そんなこと不可能だ、は通じない。ある程度、和が崩れるのはいたしかない、は通じない。みんなが、納得できなきゃ、愛情ある結果、とは言えない。愛情のない人は、どんなに、寂しい思いをすることか? 先頭に立つなら、できるだけ、理解しなきゃならない。

 それが、勇気になる。そう思えていることが、思って、最善を心がけようとすることが、変える中でも、自分を支える勇気になる。怖いものは、何もないになれる。

 自分の意志を通すために、革新をするんじゃない。みんなをもっと、確かな世界へ、進ませるために、今必要なこととして、革新をするんだ。

 誇りに、ぶれはない。前進し、勇敢に立ち向かおう。

 

 

 

 

 

 

 これは、本来、国勝ちて山河なし、だった。二十年前は、そう書いている。もちろん、国家の発展によって失われていく、自然を嘆いての句だ。

 また、国破れて山河在り、に戻るか? そんな度胸があるか? 

 野田洋次郎が言っている。天才音楽家だ。

 国には救う力がないことが分かりました。もう国と言うものを信用しないし、期待しない。

 それで終わりか? いまさら、それで終わりか? Twitterにも書いたが、だから、これから、期待できるものを作っていかなければならないのじゃないのか? そんなことは、もう、二十年も前から分かっていたことだ。そして、それを放っておいた数に、あんた自身は、数えられているんだぞ。その国家の上で、利潤追求を図ってきたのだぞ。

 税金さえ納めれば、義務は果たしたから、何でも言える、か? 

 検察庁法改正案のハッシュタグ、でもそうっだ。本当に、その先を見て、その先に種を植えようという、意思があるのか? 本当に、この国を憂い、本当に、この国をどうにかしよう、より良き国にしよう、という気持ちを持って、生きている人間がどれだけいるんだ。

 オレは、専門外だが、ずーーーーーーーーーーーと、思ってきたぞ。別の分野で、より良き国にしようと、道を外れてまで、進んできたぞ。そのおかげで、精神まで病んだ。手首を切ったこともある。血の色をよく知っている。だけど、気づけたことも、自分として学べたこともたくさんあった。世界には、感謝をしている。世界の良さは、日に日にわかる。専門外だから、今の政治にケチをつけようとも思わない。

 盲目に従う、とも言わないが、ある程度の、醜聞なら、どうこう言える身分じゃない。納税の義務も果たしていないし。社会的弱者として暮らしている。

 だから、だ。気づいたのだろ? 今の日本が、今の日本の政治が、ダメだ、と言うことに。じゃァ、どうするよ? 新しい候補者を立てるか? その候補者の経験で、知識で、課題を処理していける、にかけるか? そうなったとき、それで、間違ったとき、元の方がよかった、とか言い出さないか? 世界には、ヒーローが必要なんだ。オレが何とかしてやる、という気概を持った、天才が必要なんだ。

 そんな人間を育てる、夢を見て、大志を抱いて、実行してもらう、そこまで描き続けてもらう、絶好の、いいチャンスじゃないか? これを逃す手なんてない。作ればいい。コロナで、テレビの在り方は変わっただろ? じゃァ、そう言う人間を作るための番組を作ればいい。確かに、政治色を出すのは、色々問題はあるだろう。けれど、誰かが、総理大臣だったら、みたいな番組もやっていたじゃないか? 大観できる、視野を持った、創作人で、日本のどこが課題なのか? という解決手段まで、責任を持って、追及した番組を作ればいい。

 そうすれば、テレビの在り方も、また変わるだろう。

 でも、結局は、二十年後も同じことを言っている。それは、当たり前のように読めている。今がチャンスなのに、それを逃して、言っている。

 誰がバカなのか? 火を見るより明らかだ。

 

 

 

 

 

 大陸を渡れ。カモメ。海の鳥。我が思想。

 天と地を変えて、勇気と愛に育まれ、強靭な翼で、風を友に、遥か、人の波を、見据えて、光に向え。

 世界は、変わることを恐れている。変わることに怯えている。君は、変えるものじゃない。続ける、ものだ。

 あの日見た、感情ではなく、理屈の涙。そうか、世界は、始まりだけを待っていたんだ、と悟った涙。

 慈しみが、愛だ。真剣が、勇気だ。痛みさえ、忘れられる。

 教わったことは、覚えたことより、使えるものじゃなかった。

 覚えたことを、世界に、表現しろ。

 変わることが嫌なら、進み続ける速度を速めればいいだけだ。世界は、いつしか、変わっている、と思うだろう。それぐらい、経過しなきゃならない、愚行があって、過ちがあって、それらを越えた向こうにしか、人間の国がないのなら、そこまで、真っ先に、真っ直ぐに、突き進むだけだ。

 世界の王は、ただ、お前だ。お前の世界だ。お前が、お前の世界の王だ。歌でも、画でも、字でもない。お前の選択が、すべてな世界へ行くんだ。

 王様は、人民の幸福を願うのが、賢王だ、と習って、そこへ行け。

 平和も、公正も、平等も、安全も、すべて、そこにあるだろう。

 悲しみが足を止めたこと、行かないで、と止めたこと、傷に背負い、痛みを覚えに数えて、そして、大空へ、舞い上がれ。

 世界、思想だ。世界の、世界が、手を携えるときだ。

 何万の距離を走ってきた足で、とうとう手にした大空にあった翼で、優美に、滑空しろ。

 日の昇る国から、日の沈むその時の間を飛び続け、また、日が昇る、その時まで、優雅に、飛び続けろ。

 朝焼けが来たら、まず、世界は、また、新たなページに立った、と尊く鳴くんだ。世界は、改めて、命の音を、奏で始めるだろう。

 さァ、舞い上がれ。大陸を渡る、銀色の翼。世界は、新しき情を、旅情と言って、感激することだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

  非人情、というブログを書いた。今回は、それと、逆になる。二律背反か? アンビバレンスか? よく分からないが、まァ、人は、二つとも、同時に、自分の中に、共有できる、と言うことだ。

 情に厚くなれ、とは、失敗をしろ、という意味だ。非人情と言うのは、できるだけ失敗をしない方法を選べ、と言うことだ。

 どちらが人間ぽい、と言われれば、情に厚いであり、どちらが人間として賢いか? と言われれば、非人情の方だろう。賢く生きるのが、痛い思いをしない、という意味で、先に、非人情の方をあげた。

 けれど、今は、情に厚くなれ、を言う。失敗してもいい、痛い思いをしてもいい。人間らしい人間のどれほど美しいことか? 

 人間、どれだけ、非人情を気取っていても、最後は、情を出さなければいけない、と思う。その方が、素直に、人として、受け入れられる。

 常人、常識以上に、情なるや、だ。

 情に尊い人であることは、人間にしかできない。動物にも、神様にもできない。なら、人間がやらなければ、誰がやるのか? と言うことだ。

 優しい、温かい、そう言うことよりももっと、情だ。愛情、でいいだろう。友情、でいいだろう。人情、でいいだろう。情に深いことだ。

 深く、泣いて、深く、感動して、深く、心揺れ動かされる。そう言う人間でいたいし、いるべきだ、と思う。下手に、非人情なんかで、誤魔化すべきじゃないことは、たくさんある。非人情は、使い勝手がいいから、直ぐ使ってしまう。けれど、面倒くさい、この情が、僕なんかじゃ表せない、人間の美学、であることは、事実だ。

 情で見た景色を書き、情で見た人を書く、そう言う作家もいいのかもしれない。

 

 

 

 

 どうしてもこれができなかった。共感できる言葉だが、当時は、反発さえ、感じていた。

 若い頃、一秒も無駄にしたことがない。毎日、毎秒、何かを絶えず探し、頭を回していた。人を笑わせること、面白いこと。自分で、自分に作った想像世界。それでも、今日一日、とは言えない僕がいた。当たり前かもしれない。前途ある若者に、今日一日だと思え、と言って話しても、そうは思えない。明日を見ているし、明日が来なきゃ意味がないし、明日もまた自分自身として生きていたい。そう思うのは、自然なことだろう。

 では、ある程度、老成してからはどうか? 大分、怠けるようになった。疲れもあり、怠惰に慣れたこともある。だから、今日しかない、と言われても、この鈍重の頭は、動かない。勉学はする。一日を無駄にする、と言うわけじゃない。けれど、今日一日という意識では、大切にしていない。

 人生は、明日も続く、が正直な感想だ。

 世界には、どうだろう? そんな人間はいるのだろうか? もしいるなら、ものすごく、生きる達人になっているはずだし、充実満ちた世界を、そこに示しているはずだ。

 感じ、探してみる。

 いない、と思う。結論、を言えばそうだ。綺麗な言葉だし、間違っていないが、それこそ、これを、綺麗事、という気がする。

 けれど、世界は、さも、人生の最大義のように、それを掲げて、見せつけてくる。鬱陶しい。じゃァ、そう生きている人間を見せてみろ? と聞きたくなる。明日がない、人間。人間には、無理だ。人間には、明日がなければ、今を生きることもできない。

 僕は、そう感じるし、人にも、当然、それを求めない。君には、ちゃんと、明日があるよ、と話す。間違っても、滑って転んでも、明日は来るさ、と話す。明日は、明るい日だ、と話す。

 人生とは、今日一日のことじゃない。とても、永く、過酷で、且つ、喜び溢れる、日々のことだ。

 

 

 

 

 人間をどれほど考えた? 難しいことは嫌いか? 人間をやっているんじゃないのか? 頭は、飾りか? 使わないのか? 

 人間に何ができる? やはり、その前に、人間とは何だ? だろうか? 僕も、人間をやっている。

 ここから先、人間の世紀、とやりたい。

 高らかに、宣言したい。

 悪は消えない。人間が悪、と言うより、悪が消えない。悪は、人間がなくても、あるものだ。誰かが、望んでいる。不必要に思えるが、人間をやっていくなら、受け入れなければならない。情けないは、何度も言ってきたが、哀れだから、言うのをやめた。

 人間教の始まりだ。心して、知恵を絞れ。豊穣の火と、たきぎを燃やせ。ここから先に、ロマンも、真理も、愛も、美しさもある。

 小鳥が朝さえずるように、人間をさえずれ。見えていないものも、見えるようになるだろう。

 人間、手と足があるだろう? 動くかい? 恵まれたことだ。そこから、無限に世界は続く。無限に、世界を歩いていける。

 風の王は言っている。また、違った風を吹かせてくれないか? 相変わらず、人の苦労も知らない。好き勝手、望むばかりだ。

 だから、言ってやろう。人間と言う風が吹いたことはあるかい? ここから、人間と言う風を吹かせて見せよう、と。

 やらないか? やらないか。殺生だな。人間でありながら、人間を見殺すのだな。

 人間の叡智の底から見た、人間の素晴らしさに、震えたい、今日この頃だ。

 

 まだ、これが言えるほど、優秀な人間ではない、ことは百も承知しているから、少し、柔らかい目で見てもらえるとありがたい。ただ、もう少し、進めば、もっと、本域で、言えるかもしれない、ところまでは、来ている、気もする、今現在だ。

 

 

 

 これからとるべき位置は、肯定の肯定か、否定の否定、と言ってきた。もう、二十五年以上の前の話だ。世界は、否定ばかりをしていた。真面目の否定、頑張りの否定、純愛の否定。それらは、肯定だ。真面目も、頑張りも、純愛も、肯定だ。それを否定する、のが社会、メディア、だった。

 だから、そこから抜け出すために、僕らが、一つ、順調なうえの世界に行くために、肯定を肯定しろ。肯定を否定することによって恩恵を得る、不真面目、怠惰、不純、などの否定を否定しろ、と言ってきた。ただの、肯定ではなく、ただの否定でもなく、もっと、強い、肯定と言う結論になる、肯定だ。

 肯定の肯定も、否定の否定も、行ってしまえば、強い、肯定だ。それをとるべきだ、と言ってきた。

 それで、創作はできる。

 真面目を真面目に肯定する。頑張りを、頑張りで肯定する。純愛をもっと純愛で肯定する。あるいは、真面目を否定した否定を否定する。頑張りを否定した否定を否定する。純愛を否定した否定を否定する。充分、作品化、可能なものだ。

 そう言う時代の前に今いる、と、二十五年前に言っていたわけだ。けれど、世界は、全然変わらなかった。そして、なんだか、なし崩し的に、肯定が、残ってきた印象だ。結果、肯定が残るなら、ましな時代と言えるだろうが、その間に踏んだ過程は、見事に、最悪なものだ。誰が指揮した? と聞きたいくらいだ。

 そうとう、無能なものが、動かしていた、としか思えない。何も得るもののない、空白の二十年とやらを過ごして、その誰かは、いい気になっている。馬鹿げた話だ。もっと、密な、濃い時代は、そこに誕生させられたはずのことだ。

 可哀そうなのは、大衆で、好き勝手、おもちゃにされている。その責任さえ、指揮者はとらない。

 さて、時代は、ここまで来た。これからどうするか? 少し古くなったが、これから、肯定の肯定、否定の否定を使うか? それとも新しい形の、創作を作り上げるか? 現代の指揮者の手腕に、期待が集まる。

 予言しておくと、どうせ、くだらない、で終わる、バカがばれるだけの結果しか残せない、だろう。

 と、僕は思う。

 ぜひ、期待を裏切ってほしいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 あまり、いい表現ではないが、僕は、きっと、社会主義者、だと思う。共産主義、マルクス主義者、でもいい。ただ、無知だから、どれだけ、正確か? は分からない。

 普通に、資本主義の、民主主義の社会生活の中に生まれ、育ち、考えは、平等、公正、民主の考えになっていった。より、富は分配すべきで、多くの人が、同じ分だけ、苦労を分け合い、誰も、傷つけない、理想的社会、と言うものを目指す方向で、考えが、思想が、育まれていった。

 それは、たぶん、社会主義、あるいは、共産主義、マルクス主義、というのだろう。

 ただ、僕は、明らかに、資本主義の産物だ。この主義がなければ、僕は、僕になれていない。比較的、呑気なのも、能天気なのも、民主主義下、だから、と言える。この違い、アンビバレンスとでも言おうか? それは、どうして生まれたのか? 

 日本の持つ、特殊な性格があるのかもしれない。あるいは、日本人の持つ、特殊な性質かもしれない。僕は、世界が終わるのは、世界から、社会主義思想がなくなったときだ、と言っている。みんなで、公平に、手と手を取り合って、幸せになろうは、ガキの発想かもしれないが、同時に、一番、大人な発想でもある。

 いつか、無限世界、叶わなければならない、楽園化、だろう。

 共産主義と言うと、北朝鮮を思い出す。あれでは、ダメだ、は誰にでもわかることだ。あるいは、日本の、共産党を思い出すかもしれない。これでもダメだ、は分かることだ。けれど、本来の、マルクス主義は、美しい。完全な、優美な思想だ。これが、成果を発揮しなかったのは、人間の、惰弱ゆえに過ぎない、とさえ、思える。

 ソ連が倒れたとき、完全な富の分配化が、民衆の怠惰を生み、与えられるのなら、やっても同じだけしか分配されないのなら、それ以上努力しない。が、原因で、国力を落としたことが要因だ、と聞いたことがある。それは、まるで、日本の、高度資本主義経済成長の、逆だった。そのころ、日本人は、働くな、と言われても、働いていた。

 今も、その血を流す、日本人はいる。僕だって、こうして、働いてはいないものの、日々、何らかの役に立とうと、必死に、探しものを探しているわけだ。言われてもいないのに。病気なのだから、深く考えるな、と言われたこともある。実際、いいことを思いついた、と言うときに限って、圧迫が強くなる場合がある。でも、何かの役には立ちたいは、大事な原動力として、僕を、社会の一員にしている。

 いつか、真意が伝わると思って、前向きな思想を語る。その根底から、社会主義を抜き取ったら、何が残るだろう? きっと、何の役にも立たない、ゴミ思想に、一気に変わる。『全人類の恒久的幸福』を目指すから、いる、意味があるんだ。それは、いつまでも、たとえ、死んでからも、続く。

 それは、僕が、ここまで歩んできた、道、そのものになっている。

 不思議な話だ。共産主義は、悪そのものと教わってきたような気がする。と言うより、そう見えていたんだろう。けれど、そんな資本主義の中で生きると、今度は、その社会主義が、目指すべき主義のような気になる。ある時期なら、危険思想と、言われる思想だ。チャールズ・チャップリン、ジョンレノン。それは、自然なことだったことのような気がする。

 僕らは、そんな時代を経て、成熟資本主義にいれるだろうか? ずっと、未来は、理想主義だ、と言ってやろう、と思っていたのだが、理想的な、主義に近づいていけているだろうか? いつまでも、理念のない、働く機械、じゃいられない。

 誰もが感じていることに、理想的な理念を、説明できる、開拓者、前進家は、いつ、誕生するのだろう? 今は、社会主義をいじるのが、面白い、と思う。

 勉学を、共にしていこう。