革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ -12ページ目

革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

文芸復興が主目的。ネオ新感覚派を求める、文学、読書好き、の人のための文化的ブログ。
革命的文章表現をテーマに、その創造と、その支援を目的としたい。
山畑健と言う本名で、キンドルで本を出している。文学、読書に関する底辺拡大の行動として、ブログを選んだ。

 SNSは、今後、重要なカテゴリーだ。だいぶ、普及して、当たり前のツールになっている、とは言え、まだ、社会は、上手く使いこなせていない、というのが、現状だろう。ブログも、文化になれる、と書いた。けれど、意見は、そう多くの人には聞こえず、相変わらず、自己表現にも、ジャーナリズムにも、計画、宣言の場所にも使われることなく、一、偏狭的なポジションとして、のままの状態は続いている。

 実にもったいないが、やっている人、あるいは、作っている人が、それに気づき、自覚しない限り、どうにもならないことだ。ポテンシャルがあるだけに、実に、惜しい。

 今、そんな中、僕が填まり出したのは、Twitterだ。フォロアーは、野球関連で、ようやくひとつついただけだが、アメブロとは違い、打算的な、フォローと言うものがないだけに、相互フォローを無視すれば、必要なニーズにあったものさえ、与えられるのなら、自然、情報を得たい人だけが、集まることだろう。

 この一週間、色々やった。アナリティクスも見て、分かってきたこともある。まず、普通に文章を書いているだけでは、二、三十のインプレッションは獲得できるものの、ニーズにはなりえない、と言うことだ。プロフィールにアクセスされないから、フォローもされない。

 僕の場合、このブログと同じように、文学系が主目的のTwitterだから、キンドルに、紹介することも、不可欠なことになっている。それだけに、フォローされなきゃ意味がない。ところが、それが、かなり難しい。興味持ってもらうような文句何て、そう簡単には、出ないものだ。書いても、一定の、インプレッションを得るだけで、終わり、というのが強い。

 反応を見ていると、野球、僕の場合は、東京ヤクルトスワローズだが、のツイートの方が、ずっといい。プロフィールへのアクセスも、それがほとんどだ。そこで、文学、を打ち出されれば、フォロアーになることはない。いっそ、ヤクルト一色でいった方が、数は稼げるんじゃないか? と思うほどだ。

 あと強いのは、有名人に絡んだツイート。これも、反応がいい。堀江貴文を、批判した数行のツイートを書いたが、それが、小さくバズって、インプレッションを、七百以上稼いだ。それが、周りのツイートのインプレッション数にも好影響を与えていたみたいだ。

 政治の話題も、そこそこ、この状況、強い、とみられる。

 けれど、それらは、僕が狙っている、本丸、じゃない、と言うことだ。

 多分、僕が狙っている本丸は、まだ、ニーズ自体がない、と思う。気づけば、面白さはあると、全員が全員は無理でも、あるパーセンテージなら、稼げるはずだ、と思うのだが、気づかせられないのだから、困難だ。僕は、ラスボス、と言っている。

 ニーズがないところに、ニーズを作る。これは、いったい、どうやるものなのか? まさに、難問中の、難問で、今後、僕の研究と、研鑽は続く。まさに、試行錯誤の毎日になるだろう。ただ、楽しんでいるので、苦労ではない。それに、いくら書いてもいいので、そこのストレスはない。しかも、気づいたときに、今まで、ノートにメモしていた感覚で、綴れる。

 ちょうど、昨日、インプレッションが、五千を超えて、調子に乗っていたところだが、今日は、冷やされた。全然伸びない。昨日、堀江氏のことで、バズったのが、良かったみたいだ。意図したところでも、意図すべきところでもないため、あまり意味がないのだが、数が、上がったのは、気分がよかった。で、今日の惨状、と言うわけだ。

 今後、また、何かの偶然性のある、ヒットのしかたがない限り、低調は続く、と思われる。いつまでも、理想的な、世界観には、達せないままだ。また、やる気をなくすかもしれない。けれど、継続は力だから、頑張るしかない。ブログも、相変わらず、書き続けて行くつもりだ。

 目的があり、それをやれる環境があるのだから、恵まれている。この時間を、十分な、勉学の時間だ、と思って、ちゃんと、こなしたい。

 やっていることは、人を想わなきゃ、始まらない、ことなのだから。

 

 

 

 

 前向きに、道を選んできた。後ろ向きになったことは、この何年ない。ずっと、前進することばかりだ。僕は、僕であることを約定とし、僕以外に侵されることを認めなかった。それは、純粋な、僕という、僕だ。

 世界は、不規則だ。常に、波乱をはらんでいる。けれど、修正も忘れない。乱れようとしては、立ち止まって、確認しては、また、整列した。ただ、いつ、何かが壊れてもおかしくない、凶兆のようなものは、常に、脅しでもあるように、突き付けていた。

 それを知らんふりすると、悲劇は起こる。だから、無視はできない。とは言え、生まれ持っての臆病から、死を越えてゆえの鈍感だ。気づかないうちに、不幸が、降りてくることはある。

 申し訳ない、では済まないが、世界の総体として、不幸は、避けられないものとして、存在することを教える。神の判断だ。文句は言えない。

 それでも、もう、性質にまでなった、鈍感は、酷いものだった。

 僕は、勇敢に、前だけ向いて進むよ、と笑って言っている。

 壊したい、の塊の天使は、地団駄を踏む。今、その身に感じるべきことは、悲しみ、でしかないことを覚えておけ、と言う。

 僕には、届かず、まるで空回りしているみたいに、情念が、蒸発していく。

 生まれてきた訳は? と聞く。

 悲しみを知るためだ、と言われる。

 悲しみとは、死んだ人間には、見えるのか? と聞く。

 生きているだろ? と言われる。

 いや、生きてはいない。まだ、生きてはいない。今、ようやく、生きている、を捕まえつつある、までだ。

 と、答える。

 好きにしろ、陰惨にこだわるのが、陰惨だわ。と言う。

 良かった。感情がないから、な。だから、感情を作ることを覚えたからな。だから、好きな感情で、いつも、いられるんだ。世界が、滅ぶ前でも、ウキウキを作れる、壊れた回路がある。

 残ったものは、そんなものだった。それが、ちっぽけか? 達観と言うのか? 卑怯と言うのか? 知らない。ただ、感情を感じるを切ってきた人間は、こうなるしかない、という現実だけがあるんだ。

 勇敢、とは、勇者の持ち物だ。僕はただの、戦死者の惰性だ。惰性で、戦死者であるがゆえに、色んなものが、希望に見える。

 世界は、キラキラだね。まるで、今日、生まれたばっかりのようだ。どう壊れているか? はよく分かるだろう。

 けれど、そう言って、朝を迎えるのさ。

 

 

 

 

 言葉と言う有限の箱を使って、その有限の人生で、めいっぱいの、享楽を感受してほしい。そんなために生んだつもりはない、と神が思わず、嫉妬してしまうくらい。

 僕らの人生は、有限だ。けれど、僕が何度も言っているように、学んでいる限り、ずいぶん永く感じることのできる、あっという間なんかじゃない、十分な長さのある、人生だ。

 どれだけ、楽しむのも、何かを身につけるのも、本人次第で、これは、限りなんてないんじゃないか? というほど、享受できる。何かを否定してもいいし、何かに没頭してもいい。幸い、僕らの生まれた時代は、憲法が、基本的人権を尊重している。

 言論の自由もあれば、表現の自由も、職業選択の自由も、宗教の自由もある。誰かに、押し付けられることは、嫌なら、しなくて済む。同時に、教育、納税の義務もあるが。

 それでも、こうして、好きなことをやれる。そこに、個人でもてる、SNSという、メディア、までついた。もう、恐れるものは何もない気がする。どれだけ、思想を発表してもいいし、商売に利用してもいい。もちろん、詐欺や、嘘は、違反だ。反社会行為だ。

 けれど、純粋に生きるには、実に、機材の揃った時代だ、と思う。今、若く、生まれた人がうらやましい。ここに、コロナや、今後、南海トラフによる大地震があるかもしれないが。それでも、ずいぶん、前向きで、自由で、十分に、知覚を利用できる社会環境、だと思う。

 苦労も、苦悩も、苦難も、味わうべきことだが、それ以上に、希望を見る、も味わうべきことだ。人は、人を好きにならなきゃ始まらないし、世界を好きにならなきゃ、面白いものも、面白くない。

 それらを芳醇に、味わえる、体制は、揃ってきている。これからも、世界の優秀な、人間愛好家が、さらに、よくしていくことだろう。僕も、その一端を担いたく、ここにいる。

 大きな悲劇が起こったとしても、その先は見ることができる。光は、未来の方に確実に、射している。世界は、ますます、広がっていくだろう。AIが進化して、自動運転になったり、テレワークが本格的になって、自宅で仕事、学業も、普通のことになるかもしれない。会えなくなった、集団生活から離れることによって生まれる、協調性の欠損は、SNSが埋めるだろう。

 普通に、個人が、個人として、立つ、時代の到来だ。漱石が、明治に夢見た、個人主義の時代が来る。

 人が、個人で立てば、非人情が大切になって、自然的人間ができる。そうなれば、まさに、人間の世紀のだ。人間は、人間を作るようになり、自分の人生を作れるようになる。

 何かに、かどわかされることもなくなるし、自分の意志のみで、自分の選択を、確り、選べるようになる。まさに、全責任が、本人自身の身に預けられる時代であり、もともと、個人は、バカじゃなかった僕らは、賢い、生き方をできる時代へと向かう。

 漫画も、ゲームも、音楽も、正義を語ってきたことは、間違いじゃない、となり、理想的正義社会ができるかもしれない。それも、お笑いを知っているから、柔軟性を加味した、正義社会だ。何もかもが、無駄ではなくなり、ここに繋がっていたのか? と言うものになる。

 今は、最悪なことがたくさん起きているが、未来は、僕は、明るい、と思う。だから言う、楽しめ、有限の生命。何にも詫びることなく、楽しめる時代は、そこに来ている。

 だから、幸運を祈っているよ。意志ある時期は五十年と言う、有限の生命。それは、とても、永く、貴重な、人生と言う瞬間、瞬間の連続、継続だ。

 

 

 

 

 

 何も起こらない方がいい。それは分かる。静かで、平穏で、安泰なら、それがいい。しかし、刺激を求める気持ちもある。それが、漫画だ。ゲームだ。パソコンだ。そこらで、疑似の革命を、人は興している。実は、革命は、扉のこちら側に、あるんだ。

 もう、俗世間になっている。文化としても、認められているんじゃないか? 内閣総理大臣が、漫画好きでも、ゲーム好きでも、驚かない。

 音楽だって、一時、ヒップホップがやたら流行った。彼らの潮流は、革命の音楽、だった。結果、口だけに終わったが、まだ、爽快な汗なら、流せる。世界の利用と仕方、としては、高等遊民的だ。

 世界は、そうして、遊ぶ必要がある。

 詩で何が起こせるか? 何て、考えない。詩で、遊ぶんだ。志でも、遊ぶ。実に、豊かな、文化へと、変わっていけるだろう。

 文学の良さは、すでに、学問として認められていることだ。意外に、格好は大事になる。学問だから、できれば、教養人、と言うことになる。これは、漫画卿にも、ゲーム卿にも、音楽卿にも、できないことだ。文章だから、言の葉だから、認められているものがある。

 文学を、文章学、として極めたい。

 僕も大袈裟のことを言っているが、一つは、真面目に勉学できるから、である、と共に、一つは、遊びとして、楽しめるから、高等な趣味にできるから、というのがある。

 当然、この文学と言うもの曲者で、思想、主義に直結するために、人を真面目にさせ過ぎることがある。太宰も、芥川も、三島も、自ら、命を絶った。僕でさえ、追いつめられた。そう言う、悪癖がある。だから、望んでいるのは、そう言うことじゃない。漫画や、ゲームで、世俗が変わることはあるかもしれないが、命まで絶とう、とすることは少ない。逆に、命を救われている人は、けっこういるかもしれない。

 僕の、文学に対して望む文化も、そう言うものだ。前向きじゃなきゃ、やる意味はない。後ろ向きにさせることに、文化人ぶるのは底辺だ。肯定の肯定、否定の否定、と、立ち位置をとったのも、強い肯定のためだ。中毒率は、填まれば、あるかもしれないが、あくまで、人生を豊かにする一つのこととしてだ。

 だから、革命は、扉のこちら、なのかもしれない。

 僕は、苦悩も楽しめるが、苦悩の意味が分からないくらい、そう言う人間ばかりじゃないから、考えるは、普通に、努める人間へと進んでほしいが、悩むに入る必要は、まったくない。悩むに入るくらいなら、外に出て、ナンパでもすればいい。それができない、陰キャ向きなのではあるが。

 ただし、考えることに喜びを感じる人間を作っていきたい、想いはある。

 それが、文学としての、僕の革命であり、改革であるものだ。

 だから、こちら側の革命、と言うことにしておくことにする。

 

 

 

 

 

 

 ブログをやっていると、どうしても、数を制限したり、投稿の感覚を調節したり、しなきゃならなくなる。別に、規定はないのだが、なぜか、自分で、そう、決めてしまう。これが嫌だ。だから、数が減ることを、意外に、望んでいる。数を気にしない、自由な表現の場所として、ここにいたい。

 書きたい時に、書きたい、と思ったことを、書きたいだけ書く。それで、いいはずだし、それが、本来の、ブログの在り方、なのだろう。一日一投稿はしなきゃならないとか、先に余分な知識を得たのが、まずいらしい。けれど、その知識がなければ、今でも、出会いはなく、アクセス二、三、辺りをうろついていたはずだ。何とも、上手く書けた、と言う想いがあっても、それを無制限に知らせることができないのは、歯がゆい。別に、お金をとっているわけではないのだが。

 今では、Twitterのために書くようにしている。Twitterから、読みに来てくれる人が、たくさんいるわけじゃない。微々たるものだ。けれど、その意識の方が、縛られるものが少ない気がする。

 僕は、本来、命懸けで、創作に向かう、人間を目指していたはずだ。実際、そう生きてきた。そこにプライドもあるし、夢もある。希望もある。面白さや、楽しみもある。生きている実感がある。ここで、何かを書いている自分は、あるいは、ワードで、文章を書いている自分は、自惚れて溺れ死ぬぐらい、達成感を持っている。世界に、何かをしている気が、少しでも、自分の中に芽生えるのだ。

 世界に、何らかのバタフライエフェクトを起こしている気にさせるのは、人間の生きるにあたって、重要なことだ。

 人間、命懸けは、何か、やってみるべきだ、と思う。言葉を書くのは苦じゃない。むしろ、楽だ。詰まることもさほどない。詰まったら、他所道に出るだけのことだ。それが、文学的に価値があるか? は分からない。ただ、知性なるものは、そうやって磨くことしか知らない。

 もっと、高くなりたいし、もっと、ましな文句が書きたい。誰も言ったことがない領域へ、ばかりを目指している。越えてきたものもあれば、見つけられたものもある。それには、書くしかないし、そこまで、そうやって、自力で歩むしかない。だいぶ、成長した自分は、確実にある。

 惜しまれるべきは、記憶力がないことだ。書いたものを全部、逐一、覚えていければいいのだが、閉じたら、何を書いたのかも、分からない状態だ。だから、感性だけの生き物になる。感性だけで、書いているのは、疑われても仕方がない、事実だ。

 それでも、成長していることは分かる。一日一歩だ。二日で三歩、三歩進んで、二歩下がる、だ。確かな僕は、ここに確かにある。

 もっと、充実が欲しければ、もっと、命懸けになることだろう。だから、もっと、命懸けを追う。もっと、はもっとになり、人の欲は尽きない。知識欲、記憶がないから、成長欲、経験欲、だろう。求め続けて行く。

 明日は、もう少し、遠くが見えるようになった、自分がいるといい。

 かけるだけ、書くのも、暇人だが、心にはいいことだ。たまに、何も書きたくなくなる日もあるが。進みたいときは、進み時だ。

 苦労を知らない。欠点は、これだろう。それでも、それらを携えて、文学へ、向かう。未来は、もう少し、人の思い勝ってにいっている世界になっているといいな、と思う。

 

 

 

 

 

 平和の象徴の鳩は頭が悪い、と書いたことがある。人が近づいても、逃げもしない、鳩は、馬鹿に見えたのだろう。それに変えて、カラスの賢そうなこと。けれど、その後記事で読んだが、鳩は頭がいい、らしい。平和の象徴が頭がいいなんて、素敵なことじゃないか? と単純に思う。

 世界の、シンクロニシティーは、そうできているもの、と思っていたからだ。以外だった。平和の象徴を、頭がいい、なんて、言い出すのが。

 数字がいい感じで落ちてきた。ちょうど、どうしようかな? と思うラインの数字が、ずっと、維持され続けていたからだ。気にしたくない。ただ、書きたいことを書いて、自分の文句とした、創作として、この場面を使いたかった。これで、ようやく、そう言うものとして、使っていいのかな? と思う。

 SNSとしての役割は、果たさないことになるが、Twitterと繋げていることだし、それでいい、と思う。SNS経済を勉強したいが、数値目標は立てず、できる範囲でやっていこう。

 もう、他人の意見も聞かない。聞く必要を感じない。自分勝手とか、独善的とか、言われる前に、つき詰めるところまでつき詰めて、もう、揺るぎない、自分の法則を手にした感じだ。これは、今後、変わりようがない、だろうし、変える必要も感じない。

 伝書鳩だ。メッセージを乗せて、空を飛ぶ。そう言う役割を担っていく。素敵な、郵便屋さんだ、と思う。ビートルズも、ミスターポストマンとやっている。色々、言いたいことがあったのだろう。世界は、他人が想っているより、意味深に、意義深く、意図を持って、回っているものだ。意味のないことなんて、そうない。

 けれど、最近増えている気がする。意義の薄いこと。見失ったか? 自分の目的を、見失ったか? と、僕は、傍観者的に思っている。結局、誰もが、自己保身で、という結論になってしまうだけだ。

 これだけ言ってきたのに、見せてきたのに、まだ、他人を喜ばせることの重要性を、覚えないか? 歩いていこうなんて言われなくても、歩くし、走っちゃだめだ、と言われても走る。変わること何て、僕は、僕の選択だけで、ここまで来たから、ないんだよ。だから、僕を、諭すことなんて、無意味だ。

 それは、自分で選択をしていない人に、対してすることだ。それさえ、投げ捨てている。僕を詰れば、何となく、何かをやっている気にでもなるのだろうか? その実、何もやっていない。何の役にも立っていない。バカなことを、バカに時間つぶしに使っているだけだ。

 まァ、これからも、伝書鳩をやっていく。言っているだろ? 僕を諭すことなんて、意味がない、と。まだ、文句があるようだけど、変わるわけはないんだ。

 変わるとしたら、色々忘れてしまって、数字卿にでもなったら、ぐらいのものだ。あまり、今の時点から見れば、好みの自分ではないけれどね。けれど、もともと、ゲーマー、得点稼ぎは、嫌いじゃないよ。本当の、本当の、創作関連の原点は、ゲーマーだからね。

 あまり、重用はしないが。まァ、だいぶ、遣り甲斐が見えてきて、やる方向性も見えてきて、やり方も固まってきた今、もう、僕の、今後の方針も固まったかな? と思っている。

 変わり映えがないは、少し、飽きでもきそうで、不幸な感じもするけれど、もう、そろそろ、そう言う段階になるのだろうな、と何となく思っている。そうだね。そろそろ、あちこちふらつくのではなく、道を一つ、と決めるべきとき、時期だ、と思う。そう考えれば、やはり、順調は、順調なんだな、と理解する。

 何だ。ちゃんと、歩んでいるじゃないか? なぜ、恩着せがましく、歩こう、何て言うのか? 

 それでは、それでは、

 さて、メッセージを乗せて、今日も、大空へ、羽ばたくか? 君の街にも、訪れられたらいいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Twitterにも書いたが、飼っている犬が死んだ。死はすぐ隣りにあることを実感した。今僕には、母の死も、父の死も、隣りにある。唯一、助けてくれている兄だって、どうかなるかなんて、誰にも分からない。自分が死ぬぶんにはいいが、他人が死ぬのは、筆舌に尽くせないものだ。

 僕は、涙は涸れた人間だ。ブログでもよく書いている。二度死んでいる、これは実際だ。だから、涙んなんて、一滴も残っていない。だから、母が死んでも、父が死んでも、涙は、流さないだろう。犬の死にも、結果、冷たいものだった。

 苦しい、とは、このことを言うのだろう。そんな気がする。

 今年、色々あって、母には会えていない。コロナのせいもあるが、その前も、車を持っている兄の都合がつかなくて、会えなかった。父は、僕らを、嫌っていた節もあるし、痴呆が入っているから、まだ、情は惹かない。けれど、母には、甘えてきた。もちろん、父が働いたから、今の僕の生活ができているのだが。それでも、僕は、マザコンのはしりのように、母には甘えていた。

 感謝をいかに表すか? だと思っているけれど、何もやれていない。面会に行っても、大した話はできない。母は、僕のことが、一番心配だ、と言う。

 確かに、そうだ。どう考えても、僕が心配だ。もろもろ、事情があるにしろ、僕は、情けない。もう、いい年なんてものじゃない。社会に貢献をなんて考えているが、全然役に立っていない。ただ、前向きなことを考えているときが、自分で、自分を救えた気になるだけのことだ。

 今世界では、多くの人がコロナでなくなっている。その数だけ、別れがある。流れた涙も、たくさんあっただろう。そこで、涙、涸れた人もいるかもしれない。

 死は、すぐ隣にある。けれど、なかなか思えない。死のことなんて考えていたら、今を楽しむこともできない。人間の生まれた意味の一つに、楽しむことは、絶対、条件としてあるはずだ。

 僕は、父もそうだが、母に、特に母に、何が返せるか? 考えなければいけない。口だけになるのが、僕の悪癖でも、想わなければいけない。できるだけ、今の状態が、好ましいものでなくても、安らかに、平穏に、永く、生きてもらいたい。そればかりが、望みだ。

 優しい人よ、神に仕える人よ、穢れた僕の代わりに、祈ってくれないか? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 SNS経済の終了のお知らせ、というのをブログに書いた。原点が違っている。という視点でのものだった。金稼ぎではなくて、自分に努められることを売る、というのが商売だ、という観点からのものだった、と記憶する。それが、昨今の、SNS経済は、金稼ぎがまさに、主軸に来ている。これでは、本来の、職業としての原点が違う、と言う想いから来たもので、内容自体は、悪いものじゃなかった、と思う。

 タイトルに反して、内容が、まとまったものになるのは、僕の記事ではよくあることだ。

 けれど、それは、消してしまった。すぐに消した。

 なぜか? と問われると、まさに、SNS経済が、終始するはずがない、からだ。今が、全盛期、と言うわけでもない。これから、ますます、最盛期を迎えるだろう。それが分かっていたから、消すことにした。圧力に負けた、というより、早合点、と言う方が近い。いずれ、言う日が来るかもしれないが、今は、時期尚早、と言うわけだ。そして、そのいずれも、きっと、ずっと、来ない、だろう、と今は思っている。

 まだ、僕自身は、経済には貢献していないが、やりようは、何となく分かってきた。これは、もっと、洗練化され、実用化が、精査されていけば、実に、使い勝手がよくて、それぞれの色の出し方が鮮明になり、面白い、と言える文化、だと思う。どれだけ、社会の、経済に直結していくか? が見物、だと思う。

 媒体、だけで、無数ある。

 Twitter、Instagram、Facebook、YouTube、ライン、キンドル、そして、このブログ。もう少し、ブログの使い方が、不特定多数に解放されないか? と思うが、そこは、Twitterと、繋げるなどして、幅の広げようはある。Instagram、は、最近注目されているし、YouTube、キンドルも、商業に使うのに適した媒体と言える。その視聴数、利益だけで、儲けるのではなくて、集客の場、として。勘のいい人は、すでに、使い方を、理解しつつあるのではないか? と思う。

 そこには、猜疑心もある。詐欺なのではないか? 簡単に儲けようと思っているのではないか? という意識だ。もちろん、そう言う使い方をしている人も多い。実際、それを感じたから、SNS経済の終了、なんて記事を書いたわけだ。けれど、もっと、一般的、生活者のツールとして、定着すれば、猜疑心も取れて、個人の考えを伝える、利潤と言うより、商業意識を話す、場になる。そうなれば、この資本主義経済は、成熟していく、と見受けられていくのではないか、と推測する。

 最後の、資本主義の経済の成熟は、このSNS経済が握っている気がする。

 Facebook、は、まだ、使っていないから、使い方が分かっていないが、ホームページはもちろん、ラインも、ダイレクトメールも、使えば、集客には繋げられるのだろう。ノート、という種類もある。

 とにかく、この個人主義になっていく世の中にあって、個人が、メディア、を持って、仕事に従事できる、というのは、起業家にとっても、また、普通に会社勤めする人にとっても、有効な手段だ。

 考え方をもっと、披露して、やりたいことを知らせて、目標とするものを話して、目指す経済社会を語って、資本主義経済社会の、この現代社会の、成熟を目指してほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 難しく、考えるな。と書こうか? と思った。けれど、自分の曲がった性根からか、やめることにした。そして、逆に、を用いて、難しく考える、を選んだ。難しいことを考えろ、でもいい。とにかく、考えろ、考えに考えろ、でもいい。頭を使う、ことが大切だ。

 心も使う。心の感想を、頭で選ぶ。そう言う繰り返し、の考える、だ。

 頭でっかちになる。百も承知だ。一歩目が遅くなる心配がある。感性で動く必要があり、感性でとらえる訓練をする必要もある。頭を使う、考える、と言っても、絶えず、感性は働いている。残った、意見でさえ、主張でさえ、感性の産物、と言える。

 では、何が、頭でっかちにするのか? 自分で考えず、人の命令ばかりを待つ。自分の行動に、認識を持てない。言葉ばかりになったとき、それは、頭でっかち、と言われることだ、と思う。

 考えるは、勘、と勘の繋ぎ合わせだ。決して、思考が、感性を使わないわけじゃない。一つの問いがある。答えを探す。この時すでに、勘に頼っている。感性に依存している。そして、感性で、勘で、答えを出す。それが正しいか? どうか? も、勘で、感性で判断する。人間は、考える、と言っても、何も、思想的な背景、哲学的な背景を、使っているわけではない。それは、その時、思い描いたことしか、言葉にならない。

 言葉も、感性の産物なら、埋もれていても、他人の感性にも同調を促す、感性だから、たくさんあっても、頭でっかち、という見識にはならない。

 今も、言葉を探っている。この時動いているのは、感性だ。勘だ。勘が、これがいい、と言ったものを、採用して、文字にして、続けている。よく考える人間とは、よく考えられる人間とは、この勘の使い方を、熟知した、訓練により卓越した、ものなのだ。

 それゆえに、難しいことを考える、ことに意味がある。難しいことにも、どれだけ、自分の感性が、勘が、働けるか? を経験することだからだ。どんなことでも、人は、勘を働かせることができる。自分なりの正しいを、感じさせることができる。この体験を、高い位置で、多く経験することが、とても重要になる。そのために、難しいことに挑むことは、無意義なこと、と言うことではなくなる。

 中には、理解できないこと、というのもあるかもしれない。高名な人が言っていることなら、自分に理解できないだけなのだろうか? と思うことで、諦める、済まされるかもしれないが、この文章なんかは、分かれ目ができるところだ。訳の分からないやつが、訳の分からないことを言っている、に振り分ける人もいるだろう。

 ただ、自分が、難しいことも、感性で、勘で、手繰り寄せた、認識で、日頃を過ごしている人なら、高名な人が言うことであれ、分からない、つまり、勘が反応しないであれば、それは違うのではないか? になる。その時、探りを入れれば、そこに自分なりの答えが、勘で、導き出されるかもしれない。これが、発見だ。これが多い人が、新しい、その世界における、創造性を持った、新旗手となれる。

 ゆえに、問題なのは、チャレンジしないことだ。だから、困難にこそあたれ、と言うし、難しいことを、考えろ、と言う。難しく、考えろは、よく考えると、勘を働かせると、違うかもしれない。ただ、このタイトルで始めたことだけに、そのいい例としても、そのままにしておく。

 だから、多くのことにチャレンジして、自分の勘と、感性を確かめて、自分と言う人間を作り上げてほしいものだ。この時、こうである、と言葉の方が先行するようになったら、それが、頭でっかちだろう。

 つまり、何も考えないで、考えること自体が頭でっかちと言う方が、論理的に、頭でっかりなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 色々やってきた。文章学家だ。何から始めるか? は、その作家の、生涯を、未来を、全人生の歩み自体を決める、と言って、試行錯誤してきた。

 本当の始まりの言葉が何か? は覚えていない。ファンタジーで、お遊び程度のものだった。文学も、文章学も、頭になかった。

 それから、いざ、文学として向かう、と決めたとき、決めたのが、

『僕の夢は一貫している。

 世界一、いや、人類史上もっとも美しい話を書くこと、と』

 だった。そう決めて、出立した。失敗したが、今でも、この言葉が、僕の始まりの言葉だ。

 そして、また、時は経ち、再び、書くことにした。初めて、物語らしい、物語を、最後までかけた作品だ。その作品の始まりの言葉が、

『僕は、まだ、誰も幸せにしていない』

 だ。これは、ジキルとメルシーの冒頭に書いてある。まだ、は、まだだ、とずっと、病に、脅されている。それから、また、時は経ち、幾つもの作品を書き上げてきたが、今、Twitterで、新しく、文学系の言葉も載せようと決めて、始まりの言葉を、探しているところだ。

 思い付きでいいが、当然、生涯を暗示させる言葉になる。決めるのは僕で、歩むのも僕だ。

 さて、気楽にいくか? 深さを決めるか? 色々、選択肢はある。Twitterだ、呟きでいい。

 ちなみに、太初の言葉も考えた。

 太初、言葉あり。世界の始まりの、始まり、言葉があったとしたら、何から、始まったのだろう、という問いだ。君なら、何と、思う。何と、描く。

 僕は、『永遠』、と言った。

 太初、言葉があった。それは、『永遠』だった。と歌った。

 色々、考えてみるといい。面白いものだ。自分の人生観。世界の歩み方。今後の見え方。色々、変わってくる。太初の言葉、君の物語の、始まりの言葉。

 世界は、一つきりの意志で始まった。と、うそぶかせてくれ。