革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ -11ページ目

革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

文芸復興が主目的。ネオ新感覚派を求める、文学、読書好き、の人のための文化的ブログ。
革命的文章表現をテーマに、その創造と、その支援を目的としたい。
山畑健と言う本名で、キンドルで本を出している。文学、読書に関する底辺拡大の行動として、ブログを選んだ。

 合成の怪物。人工の怪物。つぎはぎだらけの怪物。

 人間が、生命を作ると、こうなる。そういうことだ。

 人間が、人間を作る、と言っている。二十一世紀は、人間創造の世紀だと。どこかで、未熟は、働くだろうか? 

 もちろん、クローンを作るわけではない。そんな逸脱変換はいらない。それは、内面的なものだ。優れた、雄が、優れた雄を作り、優れた雌が、優れた雌を作る。

 人間は、完成したか? 

 簡単に激怒し、簡単に欲に堕ち、簡単に堕落する。

 いや、良心的に、節制をし、自分を律して生きている。そんな人も、中にはいるだろう。けれど、その人には、人の未来が見えているか? 人が今後、どうなっていくか? どうなっていくべきか? が見えているか? はまた違う。

 おそらく、人の可能性さえ、知らない人が、ほとんど、だろう。人は、どこまでも気高く、なれる、と言っても、ピンと来ないだろう。それが普通だ。今までの教科書には、そればかりが載っている。

 だから、こそ、ここへ来た。人が、キメラになる時代。自分で、自分を合成する時代。果たして、どこまで、気品高く、美しい、生命になれるだろう? 人を愛し、愛される、生命になるだろう? 作りものじゃない人間は、自分の足で、歩き出す。

 ただ、楽しめばいいだけだ。そんなに、苦悩深く、悩むことじゃない。人が人を作れる、と言うことが、楽しければいいだけだ。人間の完成が、悪意であるはずがない。そんなの、誰もが思っていることだ。素直に、そこに向かうだけの、冒険記だ。

 人間は、面白い、十分、分かったことだ。だから、十分に楽しむ。

 人間を、深く、考えようじゃないか? 苦痛じゃない、悩みで、悩もうじゃないか? ただ、物が動くだけの物体から、自らの意志で、物を作れる生命へ。

 物を語り、物を伝え、人を愛す、に沈む。喜びの源に達し、人を楽しませることが一番楽しいことだ、と知る。

 ハッピーエンドを越えた向こうに、何があるだろう? そこまで、行ってみようじゃないか? 

 

 

 

 

 

 Twitterを冒険記にしている。僕の人生の冒険記だ。革命的文章表現で挑む冒険記、と名を打っている。まさに、それが、僕の人生だ。どれだけ、現代に、文芸復興を興せるか? だ。最早、ここまで来たら、引き返すことは、必要もない。ただ、前へ、進むだけだ。

 失うものは何もなく、進んで得るものしかない。僕は、他人様には悪いが、かなり、お得をして、進んで行く。後は、それを、社会全体に広げ、紹介するだけだ。

 僕には、純粋と言える想いは、これしかない。いや、最後に残った純粋が、これだった、と言うべきかもしれない。それに邁進するのは、当たり前のことだろう。

 できる、できないの問題ではなく、やりたい、やらなきゃいけないの問題でも、ここまで来たらない。これしかない、これをやるしかない、だけの問題だ。

 人生を、冒険として生きられる人は、羨ましい人だろう。人生を十分に堪能できる感じがあるだろう。僕は、十分に感じている。そして、他人も、それができないわけではない。みんな、やろう、と思えば、自分の何らかで、目指すことはできる。

 世界は、二割の人が、仕組み、動かしているらしい。じゃァ、その二割の人に任せて、後の人は、自分の冒険をすればいい。もちろん、その中には、二割に数えられる人もいるだろう。いや、むしろ、多い、かもしれない。

 人生を、有意義にするも、何も考えず、あっという間に手放してしまうのも、自分次第だ。僕は、はっきり、自分の手でつかんだ、自分の人生を生きていく。面白い以外は、何もない。勉強になる以外は、何もない。学び、楽しみ、楽をして、生きていく。他人に見える苦痛も、もう、慣れっこだ。

 物語は、次から、次に上書きされていく。今は、これ、ブログをはじめ、SNSだ。なかなか、面白い、現代人の利器、だと思う。

 思案し、描いた空は、多くの鳥たちを招いて、その空に広がっている。

 行けるかな? 行くしかないさ。行こうよ。掛け声は、永遠の生命、だ。僕らは、永遠の生命になるんだ。そのために、真っ直ぐ描く、冒険記。進め、進め。

 僕は、走り続けて、はしゃぎ続ける。

 世界にある、数多の物語から、純粋が消えないように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Twitterに、#ブームに抗議します。と打って、幾つか、ツイートした。このSNSの使い方に、疑問を感じたからだ。今後、SNS経済は、主流になる。誰もが、SNSを使いこなせなければ、時代の波に乗っていけないだろう。と言うより、それだけの、力が秘められているツールだ。

 結果は、予めの予想通り、無反応に近いものだった。いいねもなければ、拡散もされない。見てくれた人の数は、ブログと大して変わらないぐらい。全然、真意は、伝わっていない。

 僕は、そこで、個人主義、と言うワードをあげている。これから、日本が、個の時代、個人主義の時代になるために、個人がメディアを持てる、SNS、ブログ、YouTubeなどは、必要なのだ、と。今後、日本には、この社会には、漱石が明治時代に行った、私の個人主義的な、時代が、来なければならない。日本人は、直ぐ大衆化しやすい民族だ。集団になり、個の持ちうる、能力を、他人のだけではなく、自分のさえ、押し潰してしまう民族だ。そこには、そんな大昔から、懸念される部分があった。そこからの脱却のために、SNSが、個人でメディアを持つと言うことが、極めて、奇跡的な、貴重なこと、だったのだ。

 一つ、文明開化の、黒船が来た、と言ってもいいくらいの変化だ。

 僕は、ブログを始めて、四か月、アメブロね、また、Twitterは、十数日だが、十分に、その持っている可能性は分かった。YouTubeや、Instagram、などもそうだろう。個人で撮影した映画を全国に流すことだって可能だ。写真家は、個展を開かなくても、ネット上に個展を開ける。音楽家だって、自分のバンド演奏を、YouTubeで、流すことができる。しかも、利潤もちゃんとある。無論、それは、本格的に、監督、専門家になるための、土台、だろうけれど、表現を、一般人が、その気になれば、いつでも、世界に向けて発信する場所ができた、と言うだけで、画期的すぎる変化だ。

 これが、個人主義になり、個を満たす媒体になれば、自然、社会の、ストレス軽減へとつながる。より、豊かな、表現社会が、できてくるだろう。まさに、個人が、世界に対する、武器、利器を、手にした、と言えることだ。

 #に抗議します。は、ノーイジィマイノリティー(うるさい少数派)が、騒ぎ立てているだけのように映る。もし、マジョリティーであるなら、その方がもっと、問題だ、と思うが、これは、まるで、テレビの文化が、移ってきたようで、個人主義を堕落させる、大衆化させる、最悪な結果を生みかねない、と僕には映った。だから、反応がないのが分かっていても、情報を発信したのだ。今、発言しておくことは、とても重要なことだと思ったから。

 ブームであるなら、去るだろうから、とも書いたが、SNSの正しい使い方を、今後の社会において、どうあるべきか? も踏まえて、理解していってほしい。いや、これこそ、曲がることなく、成熟させていかなければならない文化、だ。

 誹謗中傷も、酷いことだが、もっと、危険な要素ならあることを、微力なその力で、世界に、述べたい。正しい、を追っているもの、ゆえの、発言だと、理解してほしい。

 

 

 

 

 

 本当は、叫びまくっているけど、うるさいほど、泣き喚いているけど、時は、待っている。来るとは限らない。けれど、来る、とも言われている。足りないのは、時間だ、と言われている。

 だから、待っている。忠犬のように、待っている。

 と言っても、動かないわけじゃない。八方、手は尽くしている。できることはやっている。一瞬でも、その瞬間が、近づくように。けれど、逆効果な気がしないでもない。普通に、時間は、伸びている気がする。やれば、やるほど。喚けば、喚くほど。

 抵抗は、やれる元気がある証拠だ。だから、余裕がある、と伸びる。

 鉄は熱いうちに打て。今が、一番熱い。その言葉を無視するように、伸びる。伸びた麺のどこが旨いのか? 旨くない麺にしたいんだ、と言っているような気さえする。

 それでも、やることをやらずにはおれない。勉学として、時を刻まない限り、不安は消えないから。不安が消えた状態が、幸福だから。だから、伸びる、とも思う。不安じゃなきゃ、チャンスは来ない、とも思う。真実は、なかなか、堅調だ。

 融通が利かなくて、道理を嫌う。不条理の方が好みだ。事実は、必ず、そうだ。現実は、必ず、正義じゃない。

 それが分かっていても、努めないわけにはいかない。勉学に時間を勤しまないわけにはいかない。時が来た時、何もできない人では、色々申し訳ない、が先に立つ。まだ、時さえ、来ていないのに。来てから考えろ、が言えない。準備をしてからじゃないと、迎えることができない。

 悪癖、と言われる。無体な、悪癖だ。少しも、理に適っていない。だから、不条理が好きなんだ。

 とは言え、時は来る、と信じている。予兆もある。色々、可能性を潰されているが、可能性を潰されているからこそ、可能性が出てきている。

 何事も、ことが起こる前は、一度、沈むものだ。昔からの、ならわしだ。

 それに期待している。今は、ただ、自分に蓄えられるものを、経験として、蓄えるしかない。それが、勉学、になる。

 象徴、と言う話がある。ずいぶん頑張ったから、象徴になればいい、と言う話だ。僕が決めることじゃない。僕は、一、傭兵として、戦える日に備えるだけだ。

 静かに、時を待つ。

 

 

 

 二人いれればいい。二人でいれるなら、どこでもいい。いっそ、二人きりになってしまえばいい。何て言えたのは、とうの昔。今じゃ、二人きりは、息が苦しい。息苦しい。やはり、みんながいて、みんなの中の二人だからいい。

 けれど、そうすると、邪魔される。二人の仲は引き裂かれる。運命が、加担する。

 理想は、現実には、降りてこない。みんなで、和気あいあい、仲良く、には行けない。みんな、どこかで、妥協した生活を送っているんだ。だから、二人、幸せなんて、あってはいけない。

 嫉妬、と偏見は、どこでも起こり得るものだ。なかなか、おめでとう、とは、心から言ってもらえないものだ。

 世界は、君らだけのものじゃない、と言う。みんなのものなら、僕らのものでもあるのじゃないか? と疑う。だから、と説得する。聞いてくれたようで、聞き届いてはいない。また、言われる。世界は、君らだけのものじゃない。

 この愛すべき世界を、愛すべき人たちと、みんなカップルになって、それで、永遠に、なんて、ことは妄想に過ぎない、と直ぐ知らされる。

 平等がありえないように、僕らも、君らも、平等ではない。

 上手くいけないものは、上手くいけない。それでも、二人の幸福を描くか? わがままでしかない、と言われ、決定づけられる。動き出す足を奪われ、別れを用意される。

 愛しているんだ。強く言えば言うほど、離される。引き裂かれた愛の方が、固く結びついた愛より、画になる、と言われる。何て、哀れな人間なんだ、と自分で、自分に言う。

 彼女に聞いてみる。

「楽しみましょ。楽しめるだけ、楽しみましょ」

 と言う。意外に、受け入れている。ただ、そうか、楽しめるだけ、か? と思う。

 そうだな。二人が、二人でいること。それは、楽しめる限りで、楽しむことだな、と思う。

 

 

 

 

 

 

 各々の花が咲き誇る時代。想い、想いの開花を目指す時代。人の数だけ、希望があり、と言うなら、人の数だけ、物語があるはずだ。それを邪魔は、誰もできないだろう。

 未来は、そう言う時代を目指してほしい。人は、単に、考え方はそれぞれ、とか言うんじゃなくて、その歩みを、自分の意志で変えられるように、自分の意志で決められるように、世界が、まず、それを了承する、認知する社会から始まるものだろう。

 それには、まず、市民が、多数の選択肢があることを知らなければならないし、それを、職業学と言って、教える段階から、一般的に、なっていくしかない。

 無知は、損失でしかない。実は、簡単なことも、知らないだけで、損をしていることはたくさんある。誰かの母親が、副業のブログで、月、数十万稼いでいても、可能な時代だ。もう、ブログは、無理ゲーと言われているけれど、新しい、価値観はまだ眠っている、と思う。

 そこをうまく、利用して、知ることさえできれば、社会で、成功することも、実は、そんなに難しいことではない、だろう。もう、社畜をやっている時代ではない。若い人は、どんどん起業して、どんどん、失敗して、どんどん、学び、どんどん、未来への投資をするべき時代だ。

 既存のものに、用はない。そう言えるはず、だろう。それには、現状を、自分に与えられているものを、自分にできるものを、知っている、いく必要がある。それを、教えてあげるのが、これからの教育において、課題と言える、大事なことだ、と思う。

 夢は見なければ始まらない。初めから、そんなものは無理だろう、と言わず、それなら、それで失敗しても、こういう職業があるよ、と、幅を知らせてあげることが大事だ。

 だから、職業学は、重要な科目になる。人は、みんな働き、働いてからの時間の方が永いのだから。僕も、作家を目指していたが、どうやれば作家になれるか? は全然知らなかった。そして、それでだめなら、こう言う、ライターと言う職業があるとか、テレビの企画はどうだ? とか、新聞の記者はどうだ? とか、メディア関係の仕事を知っていれば、こんな苦労はしなくて済んだ、と思う。

 それだけに、若いうちに、仕事の、数を、方向性によっての種類を、若い人に、教えて欲しい、と思うものだ。そして、若い人も、これしかない、と決めるんじゃなくて、柔軟に、発想を広げてほしい。

 職業学には、これからは、SNS経済もいれるべきだろう。

 やりたいことをやれていることほどの、充実感はない。世界は、より多くの人に、体験として、それを与えるべきだ。そう言う世界じゃなきゃ、地球は意味がない。価値がない。地球である必要がない。僕らはもっと、充実を、吸収していっていいはずだ。

 そんな、百花繚乱な世界を、この世界に、誕生させてほしい。

 可能なだけに、可能を無視しないで欲しい。やれる人がやらなきゃ、何も、ことは成立しない。力がある人がやることは、後進の援助に他ならない、が社会に浸透すべき、順序の正しきあり方だ。

 

 

 

 

 攻撃的な言葉、意外にヒットする。どれだけ、世界が、混沌としているか? だ。まだ、世界には、体力はあるらしい。あまり、僕みたいなひ弱な人間が住み心地のいい世界ではない。

 厳しい、辛い言葉、これは、嫌われる。逆に、厳しい、辛い言葉をもらう。世界には、自分勝手な人が多い。それを否定されると、顔が真っ赤になる。あまり、成熟した文化、と言えないわけは、そこにあるだろう。

 優しい言葉、は愛される。相変わらずだ。世界にはまだ体力がある、と言ったけれど、同時に、疲弊もしている。同時で、起こりうることじゃないけれど、二種に分かれる、あるいは、体力の切れた人がだいぶ出てきた、でもいいのかもしれない。

 正直、世界は、優しい言葉を求めている。

 それは、心のない言葉、では報われない。心は、最低条件のように、付き、揃っていないといけない。だから、心のない人には言えない。

 見せかけでもいいよ、と言うまでは、落ち込んでいないだろう。

 けれど、優しい言葉が、同情である限り、どこかで、跳ね除けられるのも事実だ。そこは、程度の加減は、自己責任で、測らなければいけない。

 と言うと、とても、身勝手な世界に思える。

 が、残念ながら、それは事実だ。みんなガキだし、成熟何てありえないし、我が儘で、自分が一番大切な生き物だ。

 どれだけ、大人にならなきゃ、と言ってきただろう。そして、同時に、どれだけ、大人なんてなりたくない、って跳ね除けられただろう。

 優しくするほどのこともないんじゃないか? と思わなくもないし、言われてもいるかもしれない。

 けれど、優しい言葉は求められている。とても、必要としている人がいる。

 愛し、愛される。人に生まれたら、自然、求める、あり方だ。

 せめて、優しい人が、優しさを失わないようには、優しい言葉を、心を込めて、持っていたい。かけられる人でいたい。

 あの日から言っている、優しい人でいたいは、今も、思っていることだ。

 

 

 

 左手のない人間をずっとやってきた。訳でもないか? ずいぶん、左手もやっている。右手でいたいのだけど、商業が絡むと、左手が必要になる。

 バランスが必要、だ、と言ってきた。右手だけでもダメ。そりゃ、左側も、人の臓器のある場所だ。特に、心臓がある。どくどく、と、脈打っている。

 世界は、どちらかに偏る、じゃいけないのか? なんだか、中途半端にも思える。ファシズム、を起こす。そりゃ、危険だ。面倒だ。迷惑だ。だから、中庸。

 それは分かる。勤勉家、のつもりだ。学んでいるのは、偏りの人のためのみじゃない。右も、左も、みんなが、それぞれに、手を繋ぐためだ。

 右手しかない人がいるなら、左手しかない人と、手を繋げばいい。そうして、世界は、バランスを取り戻す。それぞれに、それぞれの役割を持っていることも、認識できる。

 勉学は続けよう。また、進んでは、後退したような感覚に襲われる日。謙虚さを失っては、自己破滅を導くだけだ、と思い知らされる。自分が、底辺の一つだから、上にものが言える。上にものが言えるのは、それより上の人じゃなくて、それより、下の人だけだ。

 少し、右手が過ぎるか? まァ、英雄的夜、を夢見よう。語りたいのに、語れないのは、僕だけじゃないはずだ。

 世界は、完成を知っているのに、完成させない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 子供心を忘れたくない。少年のようなところが好きです。結局、精神年齢が低い。確かに、確かに。

 憧れの大人なんているか?

 それは、まるで、価値のある勉強なんてあるか? と言うようなものだろう。

 価値のある文学、芸術、なんてあるか? と言うようなものだろう。

 少しは、分かる人には、分かっている。文学も、芸術も、分かる人には、分かっている。

 価値の美しさ、人間の奥深さを見るような幅の広さ。分かる人には、分かっている。

 大人、もそうだ。心が広くて、正負の判断ができて、理知的で、理性的で、他人に説明できる力、経験がある人。

 いるなら、憧れられて当然のはずだ。

 理想の大人像なら、ここにある。けれど、誰も、大人になりたい、何て言わない社会ができあがった。

 誰が、大人なんて、なりたくない。なるものじゃない。を広めたのだろう? きっと、自分が大人になり切れない、人だ。自分が、損をする、と言うのが、耐えられない人だ。

 だから、いつまで経っても、オコチャマな社会で、推移する。少年の心は大切かもしれない。子供の頃は、子供の気持ちが分かる大人になりたい、と思っていた。今は、子供の心も分からない、年だけ取った、大人にもなり切れない、中途半端な、敗残者になっているけれど。

 それでも、多少損をしたぐらいじゃ、文句は言わない。堪える、耐える、力は、身につけている。人前だと、上手くしゃべれず、どもるけれど、分別はつけられる。理解力、理解してあげたい、と言う気持ちなら、そうとう訓練してきた。身に宿してきた。

 僕には、僕にしか喋れない言葉を持っている。

 大人に、なってほしい。成年したら、人が大人になる社会になってほしい。憧れられる、大人ばかりの社会に進んでほしい。他人を、他人が理解できる社会なら、争いも、そうは起きないだろう。

 世界に足りないのは、何でもない、大人、なのだ。

 これだけ、成人している人間がいる、ばかり、だというのに。情けない話だ。

 なぜ、言い争いが起こる。なぜ、他人の欠点ばかり喋らなきゃいけない。なぜ、愛するを裏切る人がいる。

 始まりに戻って、もう一度、大人を見つめよう。何が大事かなら、子供の頃の方がよく分かっいたはずだ。あの頃抱いた、大人へと、なれるよう、上を見上げよう。

 成長することは、色々、いらないものも身につけることだ。それは、素朴に、大人になりたい、なんて、言えなくなる。次第次第に、もっと、子供でいたいになっていく。けれど、それでは、生物の、成長過程として、正しくない。大人は、大人だ。色々身につけたものの中には、大人になれるために、身につけた、倫理観、知性、徳義もあるはずだ。

 世界は大丈夫だよ。あの大人たちがいるから。と、子供たちに、言われる社会へと、一歩でも、近づけられるように、進んで行こう。

 最高の世の中は、直ぐ、近くに、あるはずだ。僕らは、そこへ行けるはずだ。正義以外じゃ叱らない、気高い心は、すごく勇ましい、と思う。

 お互い、平和を尊ぶもの。大人になって、いきましょう。

 

 

 

 

 

 

 もし、人間に、性欲と老い、これがなかったら、人は神にもなれる、と書いたことがある。

 けれど、現実は、性欲と、老い、これがある動物が人間だ。

 老いは、とりあえず、若いうちは関係ないもの、としよう。なら、若いうちは、神なのか? と言う問題だ。人を、女神、と表現するのは人間だ。そして、どちらかと言えば、老いが関係の深いのも、女性だ。

 永遠の若さに憧れて、そう言う魔物に憑りつかれた、女性の話は、腐るほどある。男は、年をとっても、渋いとか、哀愁が増すとか、言われることもあるが、やはり、女の人は、若さを求められる。

 いつまでも若い人を、美魔女、と言ったりするほどだ。

 それはいい。花は散るもの、命短き、恋せよ乙女、だ。どんな女性にも、若く、溌剌とした時期はあるわけだから。

 問題は、性欲、だ。若くても、性欲はある。性欲が、人を惑わす犯罪もある。僕も人のことは言えない。

 けれど、だからこそ、もし、人間に性欲がなかったら、とても、清い、生き物、だろう。潔白過ぎて、眩しいくらい、の生物だろう。

 永遠に穢れなき魂、それが人間だ、と大見えを切って宣言できるだろう。

 けれど、人間とは、穢れと、共にある生き物だ。それが醜いか? どうか? は別にして、醜さを持った生き物だ。あえて言った。やはり、醜いな、と思わせるものは、性欲から、生まれているものが多い。だから、こそ、性欲がなければ、それは神に近づけるのではないか? と言うほど、高潔になれる。

 清楚な女性は、昔から、幻想であったとしても、聖女だ。

 もちろん、今の、性欲のある僕らからしたら、性欲のある女性の方がいい。けれど、それは、醜い、と言い、穢れ、と言うだろう。

 男性にしても、同じ価値観を女性に与えているだろう。

 そして、何より、神が与えた能力は、子供を産むためには、性欲がなければ、産めない、と言う事実だ。一番、神聖な行為であるはずなのに、一番穢れた状態でなければ、できない。

 この二律背反は、人を何者にするのか? と言うことだ。何者にもしない、が答えかもしれない。

 ロダンの石像は深く考える。人間は、潔白か? 穢れ、か? この地獄の門を潜らせるべきか? 否か? そのために、性欲なんてものが、まるで、人間に与えられたみたいに。

 なのに現実は、最も、性欲に詳しいのも神だった、と言うオチなのだが。