革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ -10ページ目

革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

文芸復興が主目的。ネオ新感覚派を求める、文学、読書好き、の人のための文化的ブログ。
革命的文章表現をテーマに、その創造と、その支援を目的としたい。
山畑健と言う本名で、キンドルで本を出している。文学、読書に関する底辺拡大の行動として、ブログを選んだ。

 もういいよ。もう頑張るだけ頑張ったよ。もう何もしなくていいんだ。世界に望むのも、世界から望まれることもない。ただ、気楽にしていればいいんだ。君は、僕は、もう、頑張る必要はない。やるべきことは、すべてやりつくしたから。世界に対して、使命と呼ばれることは、果たしつくしたから。

 僕は、僕を慰める。本当に、これまで、絞りつくせるだけ、絞りつくしてきた、と思う。もう、これ以上ない、と言うぐらい、やるだけのことは、やった、と思える。

 だから、もう、頑張らなくていい。誰にも責められる筋合いはない。

 あいつらなら、勝手にやっていくよ。ほっといても大丈夫だよ。心配はいらない。

 性的問題が、相変わらず、問題になっている。誰かが、美人の奥さんがいるのに、浮気を繰り返していたらしい。何度も聞いたような話だ。いつまで経っても、なくなることがないような話だ。

 人間を愚か、と言うのは愚かだ。そんなものだ、と言うのもそんなものだ。愛ある生き物になりなさい、と相方は言ったそうだ。そう、それがいい。

 世界は、暴力を許可した世界だ。愛情は、裏切るものと、言い切った世界だ。この星に尽くしてきたことを、酷く、惨めに思う。すべて、監督の責任なら、創り主が、すべて諸悪の根源、と言うことになる。そして、彼は、改善も図らず、諦めた。

 スキャンダル嘲笑社会の出来上がりだ。自分はしない、そんなことはしない。ご立派なことだ。ぜひ、誰もがそうなっていってほしい。異論は、誰もないだろう。異論をあげれば、そのものは、否定を受けるだけの存在だろう。

 けれど、自分は、絶対しないから文句を言っているのか? 自分はしたいけど、しないように努力しているから、声をあげるのか? は分からない。

 人間誰しも弱さはある。そんな、程度のものじゃ、今回はなかった、と言えば、そうだが、努めるべき倫理を他人が外せば、そこには、残骸の街が残る。荒廃では、生きていけない。それゆえに、倫理は大事だ。強く、これまでも言ってきたことだ。

 けれど、スキャンダルの断罪を求める程度の社会にしたかったわけではない。嘲笑の方が、よほど、ましだ。

 なぜ、人が、一人では満足できないのか? 他人より多くの経験を欲してしまうのか? 僕は、一人でいい、と言う、人に、女にも、会ったことがない。そりゃ、罪になり、罪は問われるだろう。

 完全、清純、清潔社会は、死んだ。誰が殺したのか? 分からないが、.死んだ。おそらく、神、という名の、糞、だろう。あれは、何もかも、どクズでしかできていない。

 教わったのは、自分で学ぶ、と言うことだ。神に教わることは、すべて、ゲス以外のものはなかった。そして、その、クズで、ゲスな、彼の望むような世界に、社会になった。

 よかったな。とだけ、言ってやろう。面白かったか? 何か、後に残ったか? カタルシスはあったか? 救われた気になれたか? 自分で自分が好きになれたか? 

 自分は、人間より高等だ、と思えたか? 貧相な、自慰行為だ。

 相変わらず、可哀そうなのは、真面に生きている人間だけだ。僕は、もう、何もできない。何もしよう、としない。神に逆らうなんて、バカげているものな。そいつの、望むままだ。

 さて、可愛い女の子でも、漁りに行くとするか? 

 

 

 僕らは、夢なしじゃ生きられない生き物だ。最後の、最後まで、夢を見続ける。真実が、いったい、どういうものか? 誰も説明できない。ここは、ただの、夢の中、なのかもしれない。蝶の見る夢が私なのか? 私の見る夢が蝶なのか? そんな感じだ。

 ただ、ただじゃ終わらない。そんな声が、あちこちから聞こえる気がする。それでもただで終わるかもしれない。何せ、何が現実化なんて、分からないのだから。

 しょせん、何を組み立てても、砂上の楼閣。形を成しただけで、無意味な、虚像かもしれない。それでも、楽しい、と言う現実はあり、神は、楽しんだもの勝ちだ、と教える。

 夢を見ろ、夢に生きろ、夢の中の君が本物の君だ。は、そんなに、悪しきことか? 愚かなことか? 分からない。そうかもしれないかもしれないし、そこでさえ真面に生きられない人間の方が、よっぽど、価値がないかもしれない。

 その人間の価値を決めるのが、他人なら、他人に決めてもらうしかない。受け入れる、受け入れない、は自由だ。

 夢の怪物、として、生まれ生きていく。この超幻想を、意味がない、くだらない、邪魔くさい、と言われることもある。それでも、夢の怪物として、可能だと思う羽を広げる。

 飛び立つ空は、蒼天か? 

 ただ、ただじゃ終わらない、と言えばいい。

 

 

 

 

 

 

 

 街を作った。ビルディングを作った。橋を作った。道路を作った。人間は、創造の怪物、だ。

 車を作った。電車を作った。飛行機を作った。交通と言うシステムを作った。創造するものは、すべて、人を利便に導いている。

 本を作った。漫画を作った。音楽を作った。絵画を作った。テレビを作った。それは、感傷にまで及ぶ。

 今、人を作ろうとしている。神の領域だ。けれど、すでに、人を作ってきた、とも言える。

 教育がある。道徳がある。哲学がある。科学がある。心理まで探ろうとしている。人は、人を作ってきた歴史でもある。

 その歴史を作った。兵器を作り、戦士を作った。歴史とは、戦争の歴史だ。今も、戦争はあるけれど、戦争がいかに非効率なことかの理解を作った。

 今後の歴史は、人間の歴史になる。

 法を作った。スポーツをルール付きで作った。遊びにも、ルールがある。説明書付きのおもちゃを作った。貪欲に、楽しむためになら、その叡智を絞り切る。

 まさに、創造の怪物だ。

 今、Twitterを作った。ブログを作った。Instagramを作った。YouTubeを作った。SNS時代を作った。個人生活環境にまで、その創造は、及びつつある。

 お笑いを作った。コントを、漫才を作った。ドラマを作った。キスシーンを、ベッドシーンを作った。アイドルを作った。華やかな衣装を、ダンスを、握手会を作った。人を作る、を内面ではなく、商品として作っている。

 伝染病が起きる。抗う術を作ろうとしている。自然災害が起こる。予知する術を、被害を最小限にする術を、作ろうとしている。問題があれば、それを解決するために叡智を絞るのもの人間、創造の怪物、だ。

 これからも、色々なものを作っていくだろう。想像もしないものを作り上げていくだろう。かつて、どこかの学者は、人間に想像できるもので、実現できないものはない、と言った。まさに、それに近づく挑戦が、今後も続いていく。

 創造の怪物、二十一世紀は、人間創造の時代、と僕は勝手に言っている。これから、人間を作るのだ。まだ、人間は人間を作るをやっていない。勉学が必要だ。血肉になる学術が必要だ。もっと、献身的に、人間に向かわなければならない。

 そうすれば、もっと、人間に有能な、人間としての、創造の怪物が、できていることだろう。優秀である必要はないが、優秀であろうとする必要はある。人を、作れる人になっていこう。

 

 

 

 

 綺麗事が好きだ。綺麗事は、綺麗だ。

 人は優しくなければ生きていく資格がない。善意あることをみんながしていけば、理想的な社会ができる。人間は最後まで人間を信じ続けられるか? どうかにある。愛に優る、力はない。愛があれば、他に何もいらない。人は、パンのみに生きるために生まれた訳じゃない。どんなことがあれ、決して人をバカにしない。

 これに対するのが、汚事、あるいは、現実事だ。

 人は強くなければ生きていけない。自らの望むままに生きた方が、楽しいに決まっている。楽しむために人は生まれて、楽しんだもの勝ちで、世界は過ぎていく。人間なんて、信じるに値しない。それは、初めから知っていた方が、人生で、失敗しないで済む。愛なんて、何の役にも立てない。愛だけじゃ生きていけない。パンを食うために、毎日必死に働くのが現実だ。人は、バカにしてでも、押しのけていくのが、人生の上手い生き方だ。

 いくつでも出る。両方。どちらが、正論か? は分からない。ただ、綺麗事が、綺麗なだけだ。自分の本性が汚いから、憧れるように、綺麗でいたい、と考える。これも、綺麗事だ。

 それでも、僕は、極力、綺麗なことしか言わない。嫌われることもある。毛嫌いが起こることもある。それでも、綺麗で、いたい。神様が、綺麗事を言う人間に、痛みを与えるのが、自然になっていても、綺麗事を並べる。

 神様が、綺麗事を言うのが、自分を追い込んでいるだけでしかない、と言っても、綺麗事を望む。心に、醜い意識は入れたくない。もちろん、欲望は別だ。全然、綺麗じゃないじゃないかと言うかもしれないが、それは、生理現象だ。人の持っているものとして、受け入れる。

 けれど、汚い考えは、なるべく持たないでいたい、と思う。神聖が、好きだ。清い、が好きだ。潔い、が好きだ。潔白で、ありたい、と願う。

 綺麗事が、どうして、汚事に、劣る、と言うのか? 僕には、理解できない。

 

 

 

 ミケランジェロは、大理石の中に、掘りだすべき形が、予めあり、それを自分は掘り出しているだけ、だと言った。これは、実は、芸術の、神髄だ。小説いおいても、それは言える。ある形、と言うものがある。

 僕らは、それを、どれだけ、自分の意識で、道を逸らさず、含まれているものの形のままに、掘りだすのか? が問われている。それを感知する能力こそが、芸術において、一番、価値のある、意識なのだ。

 それが、何が、形を決めているのか? は分からない。神かもしれないし、自然かもしれない。けれど、その通りに、掘りだした形が、一番、的確な形であることは違いがない。人間の、小手先の技量で、いじくった創作なんて、見るに堪えない、と言うぐらい、完璧なものだ。

 自然の流れ、水の流れ、雲の流れ、が、創造の最高点でもあるように、それがあるんだ。

 書いていて、声はやってくる。今も、声はやってくる。僕がしているのは、それを使うか? ここでは、別のと使うか? その判断だけでしかない。それが一番、無理のない描き方、だ。

 逆らって、何が出てくるか? は分からない。ひょっとすれば、創造の限界を超えたものが誕生するかもしれないし、結果、橋にも棒にもかからない、凡なものができるかもしれない。酷い有様か? 奇跡的凄みか? は経験してみないと分からない。

 人間の、本来持っている美、だってそうだろう。自然、天然に、光輝いている方が、圧倒的に美しい。

 人は、それを、神聖、と言った。

 現実にある、人間の形、美だ。

 何ができるか? は難しい。何かをやらなきゃ、はある意味、同じことかもしれない。けれど、人間の成功は、そうは、上手くできていない。そこには、疎外があり、排除があり、妨害がある。人は、神様に、嫌われているのかもしれない。

 嫌われるように生きてしまったのか? 分からない。それでも、自分に、ある形が、そこに感じられる限り、何もないように見える、大理石に、白紙に、出てくるべき形を掘り出し、あてる。

 勉学になる、とは、それゆえ、なのかもしれない。自分でも、作り上げてみない限り、作品に出会うことはできないのだから。

 神は知っているだろう、その形について。

 だから、あくまで、創作をやるとは、人に形を作ってみせてやる、と言うより、自分も知らない形に出会う勉強をしているため、と言う方が近いかもしれない。

 だから、創作をできて、それを誇れる人間なんていないのだ。あくまで、純粋に、あるものを、あるまま見ることができるか? のひたむきな想いを持てているかの、人間的価値、だけでしかない。

 優しい人になれ、とは、単に、それが、一番、人間を、人や、物を理解するのに、適した、形であるから、だけのことなのだ。

 そんな想いを持って、今日も、僕は、創作をし続けて行く。逆らったとき、ダメな文章だな、と言う、自戒を絶えず、横に感じながら。そんなときは、真面な、悔しさしかない。あの、思うとおり、行ったときの、快楽は、まるで、逆になっている。

 けれど、最後に、地の利、天の刻に逆らうものよ、見せてくれ、人間の持つ、光のすべてを。人間でしか持てない、その超越のすさまじさを。ぜひ、期待している。

 

 

 ジャイアンツ旧式論。もう、読売巨人軍は、永久に不滅じゃなくなった。みたいに、世界は、動き出す。僕らに、前を変えようという意識があったからだ。

 テレビが終わり、個人メディアになった。メディアは、個人のものに。個人主義を求めたからだ。個人で、動き出す時代だ。個人で、決める、選択する、全体に従属しない、時代だ。人間として、高価な生き方ができるようになった。

 個を磨き、個で社会活動をしていく。理想が、今一歩、のところまで来ている。

 そして、今から、政治を変えていく。政治に、個人が参入していくべき時代だ。これまでなかった概念が、市民間に、生まれていく。

 あとは、芸術。いかに、文芸を、人が、礼賛するか? これも、これまでなかった、概念が、一般に誕生する。

 人間、人間愛に目覚め、その表現方法を悟る。

 古き良き時代は、完全に消え去った今となっては、戻ることのできない時代だ。前進に、前進するしかない。そこは、希望、を現実に変えるための世界。

 人間の、強さが、勝利した、万有こそ真理な世界。ここから、新創造が、始まる。

 あまり、上手く書けなかった。ようやくここに来て、無限の源泉が、枯渇してきたらしい。文章が、進まない自分がいる。しばらく、休憩でも取るか? のらくらやりながら、今まで見たいに、復活を待つか? のどちらか、しか方法はない、だろう。

 申し訳ないが、休ませてくれ。他人を頼らせてくれ。君の活躍を、願っているよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 詩を書くなら、ブログより、Twitterだろう。その方が、数見られるし、利潤も大きい。もちろん、Twitterなら、何かの、商品が、別に必要になるかもしれない。アフィリエイトも、ブログとは違う。今や、ブログは、オワコン化しているかもしれないが、まず、詩で、ブログ、アフィリエイト、と言うのは、端から、困難なことだ。Twitterは、短文、と言っても、百文字以上は書ける。充分、詩を表現するのには、向いている媒体だ。やはり、インプレッションの数が、けた違いで大きいのは、意味があるだろう。

 一つ、一つ見ると、言葉だけ、時事ネタに頼らないものは、そう多く、ニーズはないが。

 それでも、一日、何回も投稿すれば、千単位、僕でも最高、一万を超える、数を集められた。そこから、行動、エンゲージリングと言うが、それに移ってもらうのは、ほんと、ほとんどいなかったが。ほとんど、ヤクルトネタばかりだった。

 けれど、だから、意味がない、とは思わない。声が届いているか? どうか? が最大の、問題だ。後は、自分の技量の問題だから、特別、批判的なことは何もない。

 ただ、そこからフォロアーとなると、まさに、天文学的数字にさえなりそうな気さえする。それぐらい、言葉だけで、読者になってもらおうというのは、虫のいい話のようだ。それでも、このメディアは、有能だ。ツイ廃、Twitter廃人、と言う言葉が流行るのも、分からないでもないでもない。

 考えを、長文で説明するには、やはり、ブログの方が向いている。それは、文字制限と言う意味においてが、一番のことだろう。それを、毎日投稿して、毎日、重ねていってくれる、この媒体は、言ったように、ジャーナリズムに向いているし、発想、思案、アイデア、らで、創作していくには、もってこいのものと言える。

 あとは、いかに、マネタイズ、できるか? なのだが。そこは、今までの手法であってもいけない、と思う。ぞろぞろ、フォローしてくるけれど、理想の生活を、とか、副業で、とか、言うヤツは、読んでもいない。僕は、もっと、本当の意味で、商業化できる、情報売買を確立したい。

 今は、名前もないので、何も行動には移していないのだが、いつか、このツールが、こういう使い方をするのが、理想なんだ、と言うのを、形化したい。それは、Twitterでも同じだ。

 本当に、呟く程度の、改革論なら、Twitterは向いているし、人はもっと、主義、主張を、Twitterで述べていくべきだ、と思う。こういう人間なのですよ。と言うのを、売り物にするべきだ、と思う。

 実現したい世界がある、から、でもいいし、実現すべきだと気づいた世界があるから、でもいい。行動しなきゃ何も始まらないの、第一歩になることは、事実で、実際のことだろう。その有益な、ツールを個人で持てる訳だから、十何年前からすれば、ものすごい進化だと言えるだろう。

 さらに、優れた、何かしらの、利器は出てくるかもしれない。そこにおける、マネタイズのしかたを、上手く、仕組んで、作り上げていってほしい、と思う。

 情報、とは何だろう? 今、世界で起きていること。これは、情報と言えるだろう。また、今、世界が求めているニーズ、これも情報と言えるだろう。それをうまく扱える人間が、Twitterでも強い。また、新しい価値観、新しい創造性、新しい視点も、情報と言えるはずだ。この分野の開拓は、まだ進んでいない、と思える。ここを、どう、開拓していくか? が、今後、Twitterや、ブログ、SNSと呼ばれるものが、文化となれるか? にかかっている、と思う。僕は、この分野を、開拓していきたい。文字通り、畑仕事だ。土を耕し、種を植え、作物を育てる、作業だ。

 肥沃な土壌はある、と思っている。問題は、耕す人間が、的確な、開拓ができるか? だけだ、と思う。肝心なのは、有益であり、社会にとっても有益であり、人類史にとっても有益であることだ。

 人間は、人間を売らなければならない。そのために、自分を、どういう人間にするか? を考えて、思案して、自分で作り上げていくんだ。そして、作り上げた自分を、売る。

 その媒体に、適した、Twitter。これからもっと、社会が、人間、混沌社会へ向かうにあたって、利用すべき、主張場、統一場になっていくことだろう。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 文化の成塾を目指さなければならない、最近、よく使うようになった。ブログの文化化、SNS、あるいは、SNS経済の、文化的成熟へ。そして、小説論の、文化の復興。文化と文明は違う。文化は、利器ではなくて、人間観だ。人間の、創造性と、想像性の卓越だ。

 だから、成熟すれば、立派な、人間社会への入り口、と言うことになる。

 では、今ある文化は、成熟しているだろうか? 

 テレビ、これは、50近い視聴率の時代から、それでも30を超える視聴率の時代を経て、20が最大値の視聴率の時代まで来た。隆盛を極め、右往左往して、少し、落ち目な今まで、なすべきことは、一通りなせた、と言うべきだろう。もう、テレビに依存しなくても、情報を精査できる能力を、ネットの流通で、個人が、確保できる時代になった。これは、称賛すべき時代だ、と言えるだろう。

 では、肝心の文化としての、成熟はあったのか? まだ、テレビ文化は、オコチャマの域を超えてはいない。実に、原始的で、実に、発展性を失った変遷をたどってきた文化、だ。これほど、成熟、と言う言葉から、かけ離れた文化も珍しいだろう。

 だから、没落していく。もう、人が戻ってくることはない、だろう。確かな、成熟と言える、感性が、価値観が、そこに宿らない限り。それは、作っているものの、課題であり、出演しているものの、課題だ。僕らの課題ではないから、まァ、あまり気にしなくてもいい。

 ただ、最大限、ものすごい非効率な文化、だとは思う。テレビほど、多くの人に、一瞬で、ものの価値観を伝えられる利器は、他にないのだから。それを台無しにしてきた、ものはまさに、バラエティー文化だろう。バラエティーが、すべてを毒してきた。だから、取り返しのつかないところで、文化は、腐敗している。腐っている。もう、期待すべきものじゃない。どんな真面目も、次の瞬間、ジョークに上塗りされては、後には、何も残らない。未発展な人間だけだ。

 漫画はどうだろう。これも、隆盛と、少しばかりの衰退を経験して、今に至る。まァ、それなりに頑張っている、文化、だと思う。これまで、何千種の漫画が出ているだろうが、どれも、それなりに、叡智、努力、研鑽が、込められたものだ。ものすごい永い時間をかけて、今がある、と言える。

 人間の創造性は、革命的すぎた。

 僕なんかは、ジョジョの奇妙な冒険の作者が、映画を撮れば、ハリウッドに負けない映画を作れるんじゃないか? とずっと思っていた。だから、漫画家が、もし、みんな、映画監督を目指していたら、ものすごい、文化の構築、となっていただろう、と思う。

 海外では、コミックアートと、評価も高い。

 音楽、ゲーム、これらも、イコールだ。充分に、内発的、開拓を成してきた。それは、文化として、だいぶ、成熟してきているのではない、だろうか? ただ、惜しむべきは、日本の創作のほとんどが、子供向け、に作られている、と言うことだ。だから、やる側も、子供心を用意して、しか楽しめない。もっと、大人な文化があってもいいのじゃないか? と思うが、作り手も、買い手も、頑なに、子供心、だ。

 成熟と言い切れない点には、その点が、加味されているかもしれない。

 そして、これから向かうのが、このブログや、SNSの文化への発展になる。どうか、商業主義に溺れず、その利点を最大限に発揮した、物造りとしての、また、情報ツールとしての、役割を、巧みに発揮してほしい。こんなに、貴重な、個人の利器は、他にない。やっていて、面白いし、もう少し、反応がよければ、遣り甲斐もまた、出てくるだろう。それを実際、体験している人もいるはずだ。

 ブログは、十人程度にしか見られていない。もう少し、何とかならないものか? と思うが、いくらここで、文化の成熟、成熟、と言っていても、みんなに知られるわけではないのだから、もどかしい。それより、商業主義の方が数字がいいのが、相変わらず、文化的指数が低いな、と思わずにはおれないところだ。最近、やたらと、フォローされるのだが、これは、舐められているのだろうか? 

 まァ、それは気にしないが、相互フォローしているし、特別、特別ではないのだけど、あまり、ブログを、本気で、文化にしようと考えている人は少ない、と言うことだ、と思う。金儲けになればいい。起業した話、月いくら稼いだ話、スピリチュアル、ばかばかしい。

 すでに、毒されていたところに入ってきた感じだ。

 ただ、可能性は見ている。その可能性が、どれだけ勝つことができるか? だろうが、このツールを、商売の道具としてしか考えていない人間には、それだけのものになってしまうんだろう。

 実にもったいない。また、多くの、厚顔な人間によって、一つの革命的ツールが、闇に染まっていく。と吐いたところで、誰にも届きはしない。正当な、世界には行けない。

 残念、無念であるが、やることをやるだけだ、が信条だから、それだけのことだ。

 社会の勝手な変遷まで、責任は持てない。聞きもしない相手は、聞こえないのだから、仕方がない、と割り切るのが僕だ。

 とにかく、僕にできることで言えば、できるだけ、中に入れた一員として、文化に持って行けるように、そして、成熟、と言えるところまで持って行けるように、努力するだけだ。やることを、やっていくだけだ。

 共に、本当の意味で、面白くなった未来で、会うことにしよう。

 

 

 

 

 二日続けての投稿になるが、社会は、日本は、芸能人の不平不満のためにあるのか? それとも、芸能人への不平不満のためにあるのか? ここから抜け出せていないことが、一番の社会的には、害悪、だと思う。

 もっと、僕らは、一般的生活を、一般的人間として、生活し、利用していくために、僕らの社会はあるはずだ。そこに芸能人の、何たら不満が関与するスペースなんて、一切ない。僕らは、僕ら自身の生活保護者であるべきなんだ。

 芸能人もまた、そうなるために、看板としてのみ存在するべきで、これからは、その考えを変えていくべきだと思う。国民が、芸能人のマネージャーをやるべき時代ではない。

 だいたい、芸能人、一般人と分けて、区別すること自体、おかしい。おこがましい。

 彼らにあるのは、一般人と同じ、基本的尊重などの権利と、三大義務に他ならない。一般人との価値が、等価なのだから、一般人がぞんざいに扱われるなら、その存在もぞんざいなものになるし、尊ばれて扱われるなら、尊ばれてあるべき、はずだ。

 それは、どちらに優位性があるわけでもなく、どちらが高価、と言うわけでもない。確かに、テレビや、メディアに出るぶん、権利を侵害されやすくなることはあるだろう。その点は、考慮しなければならないが、人間的に価値が勝る、と言うことはない。

 英雄を求めららる時代だ、と思うが、英雄は、そんな考え自体をしない。初めから、市民と同一の価値のもの、と思っているだろう。

 これに反することは、人間社会の未来への前進に反することだ。誹謗中傷が問題になっているけれど、そもそも、特異な、存在として、扱っていなければ、誹謗中傷もおきないはずだ。隣人で、迷惑がられる人がいるなら、それは、隣人の行いが、度を越している、と考えられる。

 それを仕組んだ、メディアは、大罪だろう。出会う数があるから、不倫も、浮気も、遊びも多くなる。日本で一番嫌われる、異性にだらしない、生活者だ。これは、表には出なくても、普通の社会でも、嫌われる。芸能人としての生命が断たれても、一般生活者としての生命が断たれるわけではない。

 影響力、それを、タイマイの金と変わりに持っていることは、自覚しなきゃならないだろうが、また、保護される立場であることも、分からないでもないでもないが、だからこそ、不平不満を述べて、それで生活をする、と言う立ち位置は、実に、惨めなものだ。

 誰が、先陣を切ったのか分からないが、文化になるべきものを、自分たちで、品位を落とす必要はない。庶民的、と言いつつ、実に、非庶民権利者だ。

 未来へ向けて、もう少し、分別の効いた、大人な社会を、僕らのもとに、持っていたいものだ、と考える。芸能人、芸能界に、感化され過ぎない社会は、そのために必要だ。

 

 

 

 どれもこれも、何かを、誰かを、否定する。批判する。前進的なことは何もない。ただ、少し、過激なことを言っている人間が、評価を得る。あるいは、綺麗に、オチをつけられるか? オチだから、それまでの、主張は、ほとんど忘れられる。やはり、前進的なものは何もない。

 誰が、誰を襲っているんだろう? 誰が、誰の、損失を狙っているんだろう? 周りには、得になることばかりのはずだ。現に、多くの金額を手にしている。こんなところで、無料で、意見を言っている人間なんていない。それでも、批判で生きてきたから、いまさら、肯定には回れない、とばかりに、批判に生きる。前進的なことは、相変わらず何もない。

 社会まで、それを推す。許す、どころか、推す。自分らが、どれだけ、損をしているのか? を知らない。恵まれていないのは、自分たち、であることを知らない。バカな大衆、とまではいわないだろう。けれど、大衆のために何かをする自分ではない、とは言っている。

 芸術の美は、市民への奉仕の美だ、と言ってきた。太宰は、批判的に使ったのだろうが、僕は、これは、肯定的な意見だ、と思っている。

 彼らが生き残るには、その美を残すには、サービス精神、これしかない。

 努めることだ。市民に、喜んでもらうために努めることだ。先導することじゃない。扇動することでもない。尽くし、愛さなければならない。人を想う、を実践しなければならない。

 なのに、当人たちは、いつも、何かに、襲われている気になっている。被害妄想、甚だしい。英雄は、どこにも表れない。待っても、待っても、現れない。そう言う産業じゃないのだろう。それならば、そう初めから言っているべきだ。テレビに英雄を求めていたのは、何も、僕らだけではない、と思う。彼らも、その時代には、英雄を求めていたはずだ。

 いくらなんでも、アニメよりは、現実、だろう。

 それが、世界の、根底として、流れ、広がっている。なのに、なぜか? 画面には、否定論ばかりが、流れている。肯定するのは、自分より立場が上の人間にばかりだ。いやらしい。卑しい。指摘しても、誰も、何とも言わない。ただ、自分の思うとおり生きるのが悪いのか? と暴論だ。

 悪い。世間では、少なくとも、それを堪えている人は、山ほどいる。もう、市民が、タレントから離れるべき時代だ、と思う。これからは、個の時代だ。芸能人の、マネージャーになる必要はない。

 自分で、自分を決める時代だ。それに合わせて生きている人間が、テレビでも生き残る、だろう。そして、人間の創造に向かう。人間を完成させる、に向かう。誰かが、それを示さなければいけない。僕は努めるし、相変わらず、誰がやってもいい、と言う。