自分、分からないですよね? 自分は、自分じゃ見えない。鏡があるとはいえ、他人を鏡にできるとはいえ、自分で、自分を説明できる人間は、そうはいない。
それは、いくら、年を重ねても、ずっと、考える人間をやっていても、自分が何か? にたどり着くものはいない。だから、自分の評価は、他人が決める、と言う人もいるぐらいだ。
けれど、僕は、自分は、自分が決める、と言う。自分の評価は、自分でするものだ、と言う。
じゃァ、自分で、自分を掴めているのか? と言えば、感覚的生き物過ぎて、きっちり、とは答えられない。ただ、自分は、自分で作るものじゃないか? と言うぐらいだ。
自分という、はっきりした個体ではなく、自分の中に積み上げて言ったものが、自分なのではないか? と言えるぐらいだ。それでも、それでは、記憶の産物になってしまう。自分で、自分を覚えることはできるけれど、記憶である以上、確実ではない。
あなたは、どんな人ですか? と聞かれて、
割と、人見知りで、思ったことが言えなくて、けれど、打ち解ければ、すごく親しみやすい人間で、気も使いうし、わりに、嫌われることが嫌なので、使い勝手のいい人間だ、と思います。何て、言える。
けれど、それが、自分のすべてな、訳はない。自分で知っている自分でさえ、それがすべてなわけはない。考えれば、そうとう時間をかければ、自分と言うものについて、作文を書きなさいと、原稿用紙を、十枚渡されれば、ある程度、それなりに、まとまった自分像と言うものは見えてくるかもしれない。だけど、誰も、そんなことやらないから、自分は、分からない、ままだ。
それでも、誰より、永く、それはいつも、自分は、自分と付き合ってきた訳で、なかなか、自分が嫌い、と言う人もいないわけではないが、結局は、好きになる。好きでいたい、はずだ。そんな自分。
文章をやっている。自分を主人公にした、僕という一人称の文章しかやらない。相当、自分に詳しくなったはずだ。書いたページ数では、万を超える。それでも、まだ、自分は、知らない自分がいる。やっていて、新しい発見に出会うことがある。まだ、まだ、掘り起こせる自分だ。倍も、何倍も、ありそうだ。
自分探しの旅、とか言う。けっこう、嫌っていた。そんな旅、出たくもない、と思っていた。旅には出ても、自分は、自分としてあるか? 自分では、掴めない自分のままか? のどちらかでいい、と思っていた。割り切っていた。
と言えど、自分が見つからないままで終わるのも、なんだか、寂しい話だ。いよいよ、自分探しの旅に出る時が来たのかもしれない。
想像の産物は、果たして、正確な、それ、と言えるだろうか? 僕は、僕を想像する。たくさん、たくさん、想像してきた。それで出来上がった自分が、ここにいる。
でも、それが、本当の自分なのか? は分からない。単純に、自分なんて、作ればいいんだ、と思っていたけれど、そんな単純な話じゃないのは、昨日と、今日の自分が、いきなり、がらりと違うことでも分かる。理性が、自分だと言えればいいと思っていたが、理性は、確かに、経過だから、積み上げの上にあることだけど、昨日と違っても、思い直せば、そこに戻れるけれど、まだ、不確かな要素が、嘘つき、と言われてしまう要素が、確かに、残っている。
自分を見つけた人がいるなら、自分とは? と言う問いに、答えて、語ってほしい。どうして、こんな身近な、難題を、ほうっておいてきたのか? 人間の、人間探しは、まだ、始まったばかりだ、と思う。今後世界は、そこに踏み込んでいくべきだろう。
自分を見つければ、まず、自分に困惑しない。それだけで、確かな一歩を、今日も、踏めることになる。