他人を楽しませること、それは、快楽だった。他人を笑わす能力がある、と言うのは、何より、強い自己防衛能力でもあった。実際、他人を笑わす力があれば、その人は、他人から求められ、他人からのけものにされることはない。自分を楽しませてくれる人を邪魔者扱いするほど、人は、センスに強い生き物じゃない。
センス、それを、何より、笑わせる能力と言うのは、必要にされるからだ。それは、その冗談、笑わせ方を聞いた人間も、よく分かる。どれだけ、機知のあるものか? と言うことは。だから、笑わせる人間が、今、日本で、一番、幅を利かせているのだ。
僕が、子供の頃は、当然、無償だった。友達を笑わせるのに、金はとらない。それが、僕が大人になるにしたがって、他人を笑わせることは、お金をとることに変わった。長者番付、と言うものがあったが、いつも、上位は、お笑い、だった。
吉本興業は、興業だ。
それが、世界の悪徳だ。無償なら、無償でよかった。他人を笑わせることは、ただの、サービス精神なのだから。芸術の美が、市民への奉仕の美だとして、ただ、無償で、奉仕していれば、美しかったのだ。それが、金を稼ぐ、役職になったから、政治家と同じ、腐敗に満ちたのだ。
今では、面白くないは、人間否定だ。面白い人間の不合格通知は、何より、悪魔的烙印にされる。それが、社会の空気を支配して、笑いをとれれば、何より重宝されるようになっている。
一発屋、と言う商売がある。一時期、一つ、二つのネタだけで、あちこちのテレビに、出没する職業だ。それを、便利だから、椅子にふんぞり返っている、大御所連中さえ、賑わせで、あるいは、数字稼ぎで、番組に用いる。使い捨てを繰り返す世の中になり、それに飽きたのか? それさえ、使い捨てになりつつある。元から、実力などなかったのだから、しょうがない、と言えば、しょうがない。ただ、後味の悪さ、だけを、後に残してしまう。
スカシ芸、と言うのがある。つまらないことをやって、逆に、注目を集める、連中だ。共感があるのか、何なのか、分からないが、これが、使われる。また、地位安泰になった連中が、落ち目になった、番組に呼んで、冷たい目線を向けて自分の位置を確保しては、飽きて捨てられる。
そりゃ、何かを間違っているのは、分かりそうなものだ。全体のレベルが取り返しのつかないところまで、落ちる。本当に、頭が悪いのは、お前だよ、と言ってあげたい。
自分が表に出て、自分の葦で、働いていないものは、当たり前のように、そのうち、そいつが何もやっていないことに気づかれ、そのうち付き合いで見ていた連中も、見限って、廃れていく。自力でやっていないのだから、当たり前、と言えば、当たり前だ。
そして、残ったのは、何でもいいから、金を稼げ、だ。本来中心だった、他人を楽しませること、それに対する、無償の愛、と言うものは完全に失われ、殺伐とした、ごり押しの、強制的、悪意だけが、残ってしまう。サービス精神でさえない。凶器になったお笑いなんて、それこそ狂気だ。世界を、いい方向になんて持って行けるはずはなく、また、自分らのお笑い、と言う職種さえ、いい方向に持って行けるはずはなく、ますます、ジリ貧になっていくだけだ。
テレビを見る視聴者には、見たくないものは見ない、と言う権利があるわけだから、チャンネル一つ変えるだけでできる。あるいは、テレビの電源を消すだけでできる。当然、そうやって、見限られていくのは、普通のことだ。元来、取捨選択の権限は、視聴者にあるべきだ。強制的にテレビを見せる、なんてものがあるわけはない。僕らは、どこかで、お笑いに、脅されていた。そして、とうとう、そのつまらなさに気づいた。だから、お笑いが廃れていく。普通のことだ。
お笑いを維持したければ、何本もレギュラーを持って、その数で競うのではなく、数を絞って、構成から、参加して、やり直すべきだったのだろう、と思う。日本のお笑いが、金稼ぎじゃなく、文化としての意義に注視していれば、世界は、こんなに落ちぶれていない、と思う。
それとも、ここまできたら、凶器で脅し、、狂気的、強喜劇として、売っていくか? まァ、そんな度胸もない、だろうな。しょせん、履き違えの人間たちだ。
誰が、悪いわけでもない、お前が悪いんだ。調子に乗せた、お前も悪いんだ。酷い結果になったことに、酷く、お笑いの神様は、ご立腹だ。才能の使い方を、人間、考えるべきだった、と思う。