親愛なる先生へ


昨日のお手紙に出てきた、「自己嫌悪を募らされて、自分の判断がまったくあてにできなくさせられた」、という点について、書いてみることにします。


そもそもですね、こういうことが挙げられると思うのですが。

2020年1月19日のお手紙に「すごいけんまくで『泣くな! 』と怒ってた」と書いてましたが、そういうふうにつよく禁止するからには、それなりの然るべき理由がしっかりあるはずと思っちゃう、ってことなんですよね。


つまり、どうしても、こういう暗黙のメッセージを受け取っちゃうんですよ。

「これは愛ゆえのことであって、泣くようなことではないというのに、お前はなんて愛のわからないやつなんだ! 」と。

そういえば、2019年2月5日のお手紙に、「『愛情はあるんだ、無いと感じてしまうとしたらそれは自分が至らないせいだ。』と、これまでずっと自分に必死で言い聞かせていた」と書いてましたが、ちょうどそんな感じでしょうか。


で、ただでさえ、昨日のお手紙に書いてたように、いろいろつらい目にあってる最中のことなんですよ。

自己嫌悪とか、自分がダメだとかっていうように、ならないほうがヘンってもんですよね。


ではでは。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine

親愛なる先生へ


昨日のお手紙で予告したとおり、「泣くのを禁止されていたこと」による甚大な影響について、述べてみようと思います。


……まあ、まず思いつくのは。

「がまんするつらさ」ですよね。

だいたい、誰も泣きたくて泣くわけない、ていうか、どうしようもなくて泣いちゃうってのに、それをムリヤリねじふせるのが、つらいわけがない。

(それと同様のことが、「否定されるつらさ」という表現にした場合にもいえますね。)


「すごいけんまく」で泣くのを禁止されたから、というのも、いえるかもしれない。

だって、ますますイヤがられたんだ、って思えちゃいますもの。

それこそ、2020年1月13日のお手紙にあった、「自分のせいで、相手・周りが、不快になっている」というのが助長される、って感じで。


だけど、それらより何よりこたえたのは。

「自己嫌悪を募らされて、自分の判断がまったくあてにできなくさせられた」、という点なんじゃないか、と思ったりするんです。


それって、どういうことなのか? 

詳しくは、また次回ということにしますね。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine

親愛なる先生へ


昨日のお手紙に、こういうふうに書きました。

「わたしが感じてる『イヤ』って気持ちよりも、親たちがわたしのことを感じてる(と思われる)『イヤ』って気持ちの方が、輪をかけてひどい、ってことになってしまう」、と。

もしかして、これだけだと、なんでそういうふうになるのかイマイチわかんないかもしれないので、今からちょっと説明しますね。

(言うまでもないかもしれませんが、今回も「主観」まるだしです。だいたい、ひとの気持ちのことなんて、客観性とはそぐわないもんでしょ!? )


まず言えるのは、親たちが実力行使してきて、ムリヤリこちらに態度を変えさせたからだ……ということなのですが。

考えてみれば、それだけじゃなかったですね。

こちらだって、実力行使をこころみてたんです。

「泣く」という手段によって。

そりゃそうです。小さな子だったら、イヤなことがあったら、普通、泣きますよね。


ところがです。わたしが泣くと、あろうことか親たちは、すごいけんまくで「泣くな! 」と怒ってたんですよ。

わたしは、ソレのことも、スゴくイヤだったのですが、やはりどうしようもなかった。


で、今になって思うのが。

この「泣くのを禁止されていたこと」って、もしかしたら甚大な影響をおよぼしていたのかも!? ってことなのですが。

これについては、次回以降のお手紙で述べることにしようと思います。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine

親愛なる先生へ


昨日のお手紙で、「こちらとしては、決して『困らせようとして、やってる』のではない」というのに、「『困らせようとして、やってる』ことになって」しまうんだ……ということを書きました。

もっとも、ほんとにそうだったのか、なんて知りません。あくまで、自分にとっての主観の話です。

そして、このところ取り上げてるような話題では、この「主観」こそが大事なんじゃないか、と思えるんですよね。


で、やはり「主観」まるだしを続けますが。

そもそもが、スゴくイヤだったにちがいないんです。

何がっていうと、何度も出てきている、例えば妹たちからおもちゃを横取りされ」る、というようなことが。

ところが、そういうシーンで、あろうことかわたしのことを、親たちから、スゴくイヤがられた(と、わたしは受け取ってたんだと思う)。で、妹たちはお咎め無し……。

あまつさえ、わたしだけ、実力行使されて、どうにも否定しようがないんですよ。


これじゃ、わたしが感じてる「イヤ」って気持ちよりも、親たちがわたしのことを感じてる(と思われる)「イヤ」って気持ちの方が、輪をかけてひどい、ってことになってしまうんじゃないでしょうか!? 


まあとにかく、この続きは、また次回以降ということにしますね。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine

親愛なる先生へ


昨日のお手紙の要旨は、こんな感じでした。

「子どもが『無理を言ってでも自分の要望を言い張る』のには、何かしらの必然性があるはずで、親とか、養育者等を困らせようとして、やってるわけない。」


この中で、「親とか、養育者等を困らせようとして、やってるわけない」という箇所。

よく考えたら、『アレ? 』って感じじゃないですか? 何でこんなとこにこんな文が、出てきちゃったんだろう、って? 


これってつまり、普段から自分の意識の中に、そういう発想が潜んでるから、ってことですよね。


そういえば、こういうのって、2019年5月23日のお手紙に出てきてたことと、近いのかもしれません。

かつて「妹たちからおもちゃを横取りされて困った。それと同じように、親もきっと、自分が言うことを聞かないと困るんじゃないか? と思えてしまうんだ」、という、「板挟み」構造のことです。


要するにですね。

こちらとしては、決して「困らせようとして、やってる」のではないんですよ

なのに、結果としては、「困らせようとして、やってる」ことになってしまいがち。

なんとも、やるせないですよね……。


ではでは。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine