家族のさまざまなことを書こうと思い、始めたブログですが、最初に母の話をずっとしてしまったので、今回は違う話を書こうと思います。

 

ダンナと出会ったのは1999年。つき合いだしたのがその年の春頃で、一緒に住みだしたのが7月の下旬でした。なれそめ等の説明は省略しますが、ダンナは日系の外国人です。

 

要は彼の先祖(日本人)がその国へ移民し、おばあちゃんがその国で生まれ、彼の父母も、そして彼もその国に生まれたというだけで、血は日本人なので、国籍だけ〇〇〇〇人(ヒント:4文字の国)というだけで、顔も見た目も日本人です。

 

ちなみにこのブログのタイトルにある『ナカタ』は彼の苗字。ただダンナが外国籍だと日本の苗字でもカタカナ表記なんですね。たとえば私の免許証などの苗字は

「中田」でなく「ナカタ」と表記されています。名前は漢字で。

だから知らない人は間違いかと思い「これはカタカナ表記でいいんですか?」と聞いてきます。

かれこれ20年以上聞かれています。

いわゆる外国人の苗字…たとえばキャンベルさんだったら

『あ~外国人と結婚したんだな』とすぐわかるんですが

日本の苗字なのにカタカナ表記だと、一見『??』となりますよね。

 

で、私と同じく子どもの苗字(戸籍上)も「ナカタ」となり、学校に行き出して毎回誰かに『なんでカタカナ?』と尋ねられるのも大変だと思い、入学説明会などに行った時に、教頭先生に“通称として漢字の「中田」を使いたいです“”と前もってひとこと言っています。

そのようにしておくと、書類やら名札なども全部「中田」で通せます。

家庭裁判所へ行けば漢字に変えられるそうですが、もうここまで来てしまったので

ま、いいかぁ。

来年は高校なので、また説明しておかないとな~と思っています。


 

私には父親はいなく、ほぼ生まれた時から母と二人だけの生活でした。母は昔で言う“職業婦人”というやつで、長年、とある会社の経理をしながら私を育ててくれました。当時はパソコンももちろんないので“ソロバン1つで生き抜いてきた”って感じです。

 

小さな2DKのマンション?ビル?に住んでいましたが、私はウチが貧乏だと思ったこともありませんでした。当時の女性としてはお給料もわりと良かったようです。

 

たとえばテレビで新しいおもちゃのコマーシャルをやるとしますよね。

それを見て私が「あれほしい」と言うと、翌日もう買ってきてあるんです。

 

大人になってから母に聞いたら、母にとって常に私に罪悪感があったから…と言っていました。そして

 

あそこの家はお父さんがいないから〇〇を買ってあげられない

 

などと絶対他人に言われたくない!そんな意地も母にはあったそうです。

だから母から「うちはお金がないから買えない」って言葉を聞いたことが

なかったんです。私はほぼ毎日息子に言ってしまいますがキョロキョロ

 

とにかく母子家庭だとバカにされたくない!強くいなきゃ!と自分自身に言い聞かせて生きてきたんだと思います。まさに昔の人って感じです。

 

私の小学・中学時代は、いわゆる母子家庭は少なく、

「お父さんがいない」ってことは、友達にも堂々と言えることもできず、私にとってはちょっと恥ずかしいというか、触れられたくない部分ではありました。

 

今でも覚えてるんですが、中学1年の時、新しく友達になった子の家に遊びに行く話になった時に「ZUBORAちゃん(私)は来たらだめ。うちのお母さんが遊んだらダメって言ったよ。だってZUBORAちゃんちはお父さんがいないから」と面と向かって言われたことありましたもん。すごい差別…そんな時代だったんですよ。今じゃ考えられませんが。

 

とにかく、母の人生は私だけが生きがいだった…と言っても過言ではありません。

再婚も考えず、ひたすら私のことだけ考えて生きてきたんだと思います。

 

思春期、反抗期などいろいろありましたが、でも基本的に恋愛の話でさえ何でも母に話していたし、私が大人になるまでは二人で一緒に泣いて笑って生きてきた感じです。

 

ただ私のせいで、ひたすら働く人生だったなぁ。

もっと楽しいことたくさんさせてあげたかったなあ。と思うんですが

でも母自体が地味な人で、確かに生活のために仕事をしていたけれど

仕事が生きがいだったし、本を読むのも好きで、勉強家。

逆にあまり人と接するのが好きじゃない。限りなく孤独を愛した人でした。

だからたとえ有り余るほどのお金があっても、いろんなモノを買ったり

旅行したり、そんなハデなこともしないだろうな…と考えると

私がいちおう結婚し、孫の顔を見せられたことで

ひとまず安心はしたんだろうと言うことで、

まあ親孝行したことにしておこう…と勝手ながら思っています。

 

亡くなる数年間は認知症になり、まともな話ができませんでしたが

良い悪いはおいておいて、ここまで母と密に生きてきた中で

母の気持ちはほぼ、手に取るようにわかります。

 

そんな母からのメッセージ

 

私はずっとアンタの母だからね

 

その言葉の裏には

チヨ(母の名前)の人生のほとんどが「母として生きた人生」だった。

ということと、母として見守ってるよという意味とか…いろいろあると思います。

亡くなったんだから、もっと自由にのびのび生きればいいのに、と思いますが

きっと母である自分を私の中に刻み付けておきたかったとか

そんな意味もあるんじゃないかと勝手に想像しています。

 

母の日に亡くなった私の母。

言葉も話せない母が、伝えたかった最後のメッセージだと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

母のいる施設は老人健康保険施設(略して老健)と言います。

病院と違い、お医者さんは常駐していません。

なので母は深夜に息をひきとりましたが、それを確認するお医者さんが夜中で不在のため、

ひとまず朝まで待って下さいとスタッフの方に言われました。

 

亡くなった母と対面。節子ハムスターのように息をひきとる瞬間を見届けることはできませんでした。

でもそれで良かったのかもしれない。もし間近で見ていたら、たぶんこの先何年もそのシーンが頭から離れないだろう。

 

何か月も点滴していたけど、むくみも一切なく、チヨさんとてもきれいですよ

 

スタッフの方がそう言ってくれました。

母は確かに小さくはなっていましたが、まさに“枯れるように死ぬ”という言葉がぴったりだと思いました。

きっと臓器の働きはちゃんとしていて、最後まで吸収&排泄ができていたんでしょうね。

亡くなる前日もオムツは濡れていると聞いていたので。

 

数年前、母の体調が悪くなり施設からいったん病院に移り、約1か月入院生活をしたことがありました。

その時も、今後食事ができなくなるかも…と言われ、胃ろうをするかどうかと考えた時が

あったのです。胃ろうをしても生き続けてほしいのか。本人はどんな気持ちなんだろう?

もちろん聞くこともできないので、通常周りの家族にその判断はゆだねられるのですが、

私は母の気持ちをおおよそ予測できていたので、胃ろうはしないと決めていました。

同時に延命治療もしないと。

なので、前回もですが今回も、母の容態が悪くなった時に施設のスタッフの方にはその旨を伝え、

もし本人が苦しんだりしていないようなら病院には送らず、最後はこの介護施設で看取りたいと言っていました。

 

幸いにも母は眠るように息をひきとりました。苦しむこともなく。老衰です。

 

認知は進んでいて、ここ数年は一人娘である私の名前も覚えてなかったけれど。

話もほとんどできなかったけれど。

でもいつも私の顔を見ると、目を丸くして私を見るんです。

「あら、アンタ、来たのね」と言わんばかりに。

だから絶対わかっていると私は信じています。

 

・・・・・・・

 

ひとまず私が数日前まで使っていたソファをベッドにして、ダンナと息子、3人でゴロゴロしながら時間を過ごしました。

夜が明け、お医者さんが死亡確認をし、施設のスタッフの方がひとり一人部屋を訪れて

母のベッドの横に立ち、お別れの言葉をいただきました。

5年間の施設での思い出話とか、いろいろ、いろいろ話していただきました。

 

そのスタッフの方々の姿を見て、本当に感謝の気持ちしかありませんでした。

それがマニュアルだろうがどうでもいいです。

本当にこの方々のおかげで、認知症になった母を、こうして穏やかな気持ちで見送ることができたのですから。

 

母は10年以上前から互助会に入っており、

葬儀の会場も決まっていたので、葬儀場へ電話をするのも混乱することなくできました。

 

スタッフの方に母の身体をきれいに拭いていただき、パジャマから用意してあった服に着替えさせてもらいました。

そうこうしている間に葬儀場から手配された車が到着。

介護施設の正面玄関にたくさんのスタッフの方が集まっており、皆さんにお見送りされました。

 

もうここへ通うこともないんだな。

 

5年間通った施設とも今日でお別れ。その時は、母が亡くなったことに対しての実感はまだ乏しく

スタッフの見送る姿を車内から見ながら、そんなことを思ったのを、今でも覚えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年5月、節子ハムスターが亡くなってすぐの

ゴールデンウィークのさなか、

いつものように母の施設に面会に行くと、スタッフの方に

「チヨさん(母)もしかしたら危ないかも…。良ければここに泊まります?」

と言われました。

 

えっ!!節子ハムスターのショックも冷めやらぬうちに、ついに…!?

 

と動揺したけれど、そんなこと言ってられない。

母の顔を見て、家に戻り、泊まる支度をしてダンナと息子に事情を話し

夕食をとって、また施設に戻りました。

 

施設では私が寝起きできるよう、ソファベッドが部屋に入れられていました。

寝転がってみると、そこから母の様子を伺うことはできません。

母がいびきをかいていれば安心できるのですが、静かだと逆に

不安になり、起きて母の寝顔を確かめ、またソファベッドに戻る…の繰り返し。

スタッフの方も時々様子を伺いに来てくれるので、その音で私も目覚め

母の顔を確認し。そんなこんなで朝が来ました。

 

スタッフの方から

「とりあえず一度家に戻って。昼間もし変化があればお知らせします」

と言われ、家に戻ったのですが、

なんと息子がこんな早朝にも関わらず起きている…

聞くと、夜一睡もできなかったと。

 

その頃、まだ息子と同じ部屋で寝ていた(ベッドは別々)私は、

じゃあひとまず寝よう!と

部屋を暗くして二人で寝たのを覚えています。

たぶんいつも隣のベッドにいる私がいないのと、

おばあちゃんの容態が気がかりだったんでしょうね。

 

その後、母はまだ大丈夫で、3晩くらい続けて私は施設で泊まったんですが

毎朝帰ってくると息子が眠れず起きている状態で…

 

これはまずい!昼夜逆転して生活のリズムが狂ってしまうと思い、

母の状態がまた安定しだしていたこともあり、

施設に泊まるのをしばしやめることにしました。

 

5月9日の昼間、またいつものように母の施設に面会。

確か前日もそうだったんだけれど、その日も母は寝ながら

 

あーあー  あーあー

 

と、結構大きい、うめき声のような声をずっとあげていました。苦しそうではないんだけれど、なんと言えばいいのか、低くておどろおどろしい?声をずっと。

 

勝手なカンですが、お迎えが近いのかな…と思ったんですね。それでほんの数秒その様子を動画撮影したのですが、それが母の生きてる最後の映像になりました。

 

明けて5月10日の夜中3時、私の携帯に母の施設から電話が。

 

2時にスタッフが様子を見に行った時は、眠っていたけれど、

3時に見に行った時には、もう…と言われました。

 

こんな電話がいつ来ても動揺しないようにと思って

毎晩携帯を枕元に置いて寝ていたんですが、やはり深夜の電話は

ちょっとあせりますね。

 

早く施設に駆け付けなきゃ💦えっと何を持っていけばいいんだろう…とか

 

ひとまず隣のベッドで寝ている息子に声をかけると

すぐに飛び起き、

 

お母さん、大丈夫!落ち着いて。まずは施設へ行こう!

 

とはっきりした口調で言ってくれ、私はテンパりながらも

「この子も大人になったな」などと冷静に考えている自分もいて、

なんか不思議な感じでした。

速攻で二人で服を着替えて、そのあと別屋で寝ているダンナに声をかけました。

ダンナは

 

どうしよう💦どうすればいいんだ!?

あ~ オカアサンが死んじゃったんだぁぁえーん

 

・・・・・・・・・・

はい…この人はいつもこんな感じです。

おいおい話していこうと思っていますが、

この人はイザという時も、もちろん、イザじゃない時も

基本、全く頼りになりません。

そんな様子を見て息子は

 

お父さん、泣くのはあとでいい!

早く施設に向かうから支度して!

 

と言ってました。ダンナのことはひとまず中1の息子にまかせて

私はいつ帰って来れるかわからないので、犬の朝食分の餌だけ置いたり

戸締りなどを確認。

 

そして3人準備ができたところで、車で施設に向かいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~①の続き~

その頃テレビのニュースでは連日コロナの話題に明け暮れており、

息子も小学校の卒業式、中学の入学式は終えたものの

休校が続いている状態だったので

平日の昼間から息子と一緒に施設へ面会に行くことができて良かったと思ってます。

※コロナ禍であっても

看取り期間ということで、施設では短時間の面会が許されていました

 

4月の下旬になり、息子が飼っていたハムスターハムスター(名前は節子)の調子が悪くなり、病院で診察、薬をもらって

飲ませていたんだけれど、一週間して亡くなってしまうという出来事が。。。

 

ハムスター亡くなる日の1時間前…ケースの中に入っていた節子ハムスターの異変に気付き

ケースから出して様子を見ていたら、息苦しそうにしだし、少しすると突然グルグル動き回ったり、そしてぐったりしたりと、とにかく不穏な様子。

息子と私は節子をひたすら見守るのみ。そのあと

 

あ、なんかおかしい不安不安不安不安

 

と感じた息子が、節子ハムスターを手にとり、撫でたり言葉をかけたりしている中

息苦しそうな節子ハムスターがやがて静かになり、息をひきとりました。

私と息子は号泣。

息子は嗚咽しながら

「ありがとね、せっちゃん。うちに来てくれてありがとう」と。

 

けれどなぜかダンナは、私たちのそんな状態を尻目に

カップラーメンを作っていた…あんぐりあんぐりあんぐりあんぐり

※夕飯づくりの途中で節子の様子がおかしくなり、私も中断して見守っていたので

お腹が空いていたらしい

 

そしてダンナはせつなそうな顔をしながらも、ひとこと

 

『これだからオレは生き物を飼うのは嫌だったんだ』

 

…と。

 

は?アンタあれだけ、せっちゃんせっちゃんって可愛がってたよね?

何でいまそんなことを言う?

いや、ダンナはダンナで悲しい想いから出た言葉だったのかもしれないけれど、

これは私にとってほんと、理解不能なひとことでした。

(生き物を飼うのは嫌なんて聞いたことなかったし)

 

とにかく、手のひらにおさまるほどの小動物ではありましたが

それでも間近で死を看取ったのは私も息子も初めてで、

これは私の中で相当ショッキングな出来事でした。

 

桐の箱に節子ハムスターを入れて、周囲を花で飾り、庭に穴を掘り(ダンナがやった)

お墓を作って埋めました。

 

たぶん、おそらく、今度は母の番。

私は耐えられるんだろうか…とお墓に手をあわせながら

不安になったのを覚えています。

 

 

 

今回は母の話が少なくてすみません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の母は認知症でした。発症したのは…う~ん、おそらく息子が生まれてまもなくの頃だったかもしれない。

認知症の症状はどんな感じだったのか…はおいおい書いていきますが

約5年間介護施設に入っていて、

コロナ騒動が始まった2020年の5月10日 日曜日の

母の日に亡くなりました。

 

亡くなる3か月前ころ、一度、様子がおかしいと母の入所している施設から電話がありました。

かけつけると呼吸器をつけていて、朝から調子が悪そうだと聞かされ

もしかしたらこのまま…ということも言われ、その時は一旦覚悟しました。

というか、入所している5年の間に、もしかして…と思うことが数回あり

その都度、覚悟はしていたので、動揺するとか、慌てるとか、泣き叫ぶとか

そういう感情はあまり出なかったと記憶しています。

 

で、その時は呼吸器をつけていたにもかかわらず、翌日にははずれ、

安定してきてたので

あらら…?やはりこれまでのように復活?とひと安心していましたが

それを境に、食べ物が一切喉を通らなくなり、点滴だけになってしまいました。

いちおうスタッフの方も食べさせようと試みてくれましたが、難しいようで

この年齢で食べられない日が続くと、今後回復(口から食べられる)することはほぼないみたい。

 

 

「点滴だけなら、通常どれくらい生きられるんでしょうか」

 

不謹慎かもしれないけれど、私はスタッフの人に聞きました。心の準備はもちろんですが、実務的なことも含め

前もっていろいろな準備が必要になると思ったからです。

 

「もちろん人にもよるけど、チヨさん(私の母)のような年齢だと1か月半とか…かなぁ」

 

と言われました。そうか、それくらいか…と納得しながら、施設を後にした記憶があります。

とにかく母は点滴だけのベッド生活になってしまったけれど

回復はしてきて、私たちが行くと「ああ、来たのね」と言わんばかりに

目を丸くしたりして私たちを見たり、

小学校の卒業証書を持って息子と面会に行った時も、ニコニコしてくれたりしたので

(認知症なので言葉はすでに話せません)

「おばあちゃん元気になってきたじゃん」とみんな思っていました。

けれど点滴だけだから、いずれ弱っていくのだろうけど

 

 

そんなある日施設のスタッフの方に

 

「チヨさんの好きな歌を教えてください」

 

と言われたので、あまり疑問にも思わず何曲か伝えました。そして翌日母の部屋へ行くと

その私が教えた歌がラジカセ(懐かしいニコニコ)から流れていました。

 

 

でかいイビキをかきながら眠る母 zzzzzzzzz

それを打ち消すかのように少々爆音で流れる、昔懐かしい歌謡曲音符ルンルン音符

 

イビキ VS 歌謡曲

これ、今だとちょっと笑える光景。

 

どうやらスタッフの誰かが自宅から私物で持ってきて、日中、母のためにかけてくれてるようでした。

もともと母は耳が遠いので、あえて大きめのボリュームで流してくれたんだろうな。

他の入所者の方に迷惑がかかりそうなので、少しボリュームを下げつつ

それでもスタッフの方の気持ちに涙が出てきたのを覚えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして7月のエアコンさよなら~事件に引き続き、先日は私の仕事の部屋のエアコンが壊れました。

エアを入れ替えれば?という意見もありますが、この家に引っ越した時に設置しているので、18年前のもの。

 

もう寿命ですね。頑張ってくれましたね…

悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい

 

 

でも私、毎日仕事していたわけじゃなかったから、そんなにキミを酷使させた覚えはないんだけど?

どうして今年の夏はこんなに出費が重なるの?エアコンに問いかけても、答えはない。

代わりに

 

「しょうがないね」

 

と言わんばかりに、ため息のような生ぬる~い風だけが出てくる。

あ~キミもこの家からいなくなるんだね。18歳のおじいさん。今までありがとう。

今年7月のある週末。

子どものレース送迎(そのうちお話します)を終え家に戻ってきたのは、午後2時頃。その日は確か雲も多く、7月にしては過ごしやすい日だった。それでも暑いのは確かなので、玄関を開けるとすぐに家族全員は涼しいリビングへ直行する。ウチはうさぎをリビングで飼っているので、昼間は出かける時もエアコンはつけっぱなしで出かけるの。

 

しかし…あれ?リビングのドアを開けると、期待したいつもの涼しさではないではないか。生ぬるいどよ~んとした空間。

もしかしてエアコン温度の設定を間違えた?冷房ではなく送風にしていた?と焦りながらリモコンを見てみるが、いや、おかしくない。

「もしかして…」となんとな~く嫌な予感が心をよぎるが、とりあえずその予感は素早く打ち消して、ひとまずエアコンをOFFにし、もう一度ONにしてみる。しばし待つ。“冷気よ来い!”と祈りながら待つ。けれど…もう二度とあのひんやりした風が流れて来ることはなかった。

 

悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい

 

はい、ついにエアコン、壊れました。それもリビングダイニング&キッチン用の我が家で一番大きいエアコンが。あ~ショックだわ。真夏にエアコン壊れてショックだわ。しかも大きな出費にWパンチだわ。泣きたい…

 

使う頻度の少ない部屋なら何とかナシでやり過ごせるかもしれないけれど、一日の中で一番長く過ごす場所のエアコンがないのは、まず無理ですね。しかも夏はまだ続くのに…(当時は7月)。あ~子どものレース観戦は暑くて疲れて、涼しい部屋でくつろぎたかった。でも汗だくになりながら、重い腰を上げ、今から電気屋巡りに行かなくてはならない。大きい買い物だから、1店舗目で決めるのは怖い。最低でも2、3店舗は回らなくちゃ…もう泣きたい。出かけたくない。でも暑い。あ~また出費。それもかなりの。。。

 

心の中でさまざまな想いにかられながら、重い足どりで、夫婦二人、電気屋へ向かったのでした。向かう途中の車内は、当然会話もありませんでした。

結婚生活20数年、子どもは中学3年生の息子一人、ダンナは日系〇〇〇〇人。

新築で建てた家も18年経ちました。

母ひとり子ひとりだった私は、結婚して数年したのち、年老いた母と一緒に住むことを決意。

私の仕事の部屋(フリーランスしてます)と母のために設けたミニキッチン付きの部屋を1階に

2階は夫婦の住まいとなっていました。

そうそう、新居に引っ越して2年ほどしてから、犬を飼いました。

犬を飼ってすぐに子どもを妊娠。アラフォーで出産。

そして母が亡くなり、犬も去年亡くなりました。

それでも今もなおれっきとした家族です。

そんなナカタ家のできごと、いろいろ、いろいろ、思い出したことも含め、綴っていこうと思います。

ただ最初から宣言するのもなんですが、ハッピーな内容でないものが多くなることが予測できます。

そのあたりは、ご了承ください。