カウンセリングに対する根本的な疑念 | ペーパー社会福祉士のうたかた日記

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社会福祉士資格をとるまでと、とったあと+α。浮世のつれづれ、吹く風まかせの日々。

相変わらず文句ばっかり言ってて恐縮だけども、カウンセリングの効果ってなんだろうか。素朴な疑問である。

 

少なくとも、自分が受けたことがあるカウンセリングは、時間と労力を消耗するだけのむしろ苦痛な時間だったのであって、これを受け続けられる人は、そもそもメンタルが強靭なんじゃないかと思う。「精神的に強くないとカウンセリングは継続できない」、この矛盾の解答をわしはいまだに見つけられていない。

 

厚生労働省並びにカウンセリングの効果を謳う諸団体の惹句を見ると、カウンセリングの効果はだいたい以下のようなものである。

 

心が軽くなる

問題を客観的に理解できる

問題に取り組む姿勢が生まれる

人間関係が円滑になる

新しい自分に出会える

自分のマネジメントを習得する

 

この長所の最大の難点は、「気分で何とかなる問題しか解決できない」、しかも、自助努力によって、ということだ。考え方イッコ変えればすべて氷解するような軽微な問題しか俎上に載せられない。

 

いや別に、それですっきり解決できたケースをくさしてるんではない。嫌味でなく、本心からそれはよかったですねと思うし、それだったらカウンセリングは効果があるんだろう、というとこまでは譲歩したっていいと思う。

 

ただ、問題点が、依存症とか偏執的嗜好とか、ソコまでいかなくてもどう考えてもおかしな奴とか、「相手が変わる以外に解決策はない」というときには、何の役にも立たない。


受け入れがたい嗜好を持った相手との関係や環境に適応するか、適応できるか、許容できるか、否か、ということには、いったいどう対応するんだろうか。「おかしな相手だけれど、そいつがいる環境になんとか適応したい、せねばならない」というクライエントには、どうするっていうんだろうかね。非難も批判もしないで。ほんとに疑問。

 

わしの過去の経験では、

「どう考えても相手が変わる以外にない」という固定観念を捨てましょう、と言われたことがある。「あなたが変わればいいんです」と。そんなバナナ。順応しようと、適応しようと、身を削って努力して、努力して、精魂尽き果て、万策尽き果てて、これ以上努力することはもう無理です、でもなんとか、どうにかなりませんか、と転げ込んだ先で、まだなんかわしにやれ、努力が足りない、って平気でいうんだよね。いいよなあ、高みの見物で。

 

「相手から離れて自分の人生を生きていきましょう」と言われたこともある。そう簡単に離れられないからそれを聞いている。自分の共依存や執着をどう捨てればいいのか、捨てる方法があるなら教えてくれっつってんのに、満面の笑みで「それはこれから一緒に考えていきましょう♡」、、いや明日殺すか死ぬかするかもしれないって切羽詰まった空気の中で、そんな悠長なこと言われてもねえ。いいよなあ、他人事で。

 

「日々の五感の幸福を増やしてください」と言われたときには、さすがにカウンセリングには絶望したやね。

食ったり飲んだり、寝たり、背伸びしたり、いいニオイかいだりすれば、この苦悩がなくなるとでも? どんな因果関係があんだかエビデンス見せてみろと思いましたよ。「五感の幸福を感じよう」なんて、干からびたゾーキンから浴槽を満たすほどの水素水を絞り出せと言われているに等しい。もう苦笑しか出んかった。いいよなあ、いいご身分で。

 

そんなこんなで、わしの中には、カウンセラーなんて、疲弊したクライエントに無理やり自立を促し、自己決定の名のもとに自らの言動の責任をいっさい放棄し、くだらない傾聴技法とやらを弄んでクライエントを追い詰めてへーぜんとしているお気楽な人種、というとてつもなく失礼な誤解(たぶん…)だけが残っている。

 

この誤解のモトとなっているのは、一般人と遭遇するカウンセラーの質が、総じて低いことにある。

 

ちまたに、産業カウンセラーをはじめ、いい加減な心理系の民間資格、ちょろっと数週間やれば簡単に取得できるレベルのカウンセラーが多すぎるのだ。町の心療内科も、そんなアホな人材をわしみたいにひねくれきったクライエントにいきなりぶつけるから、衝突が起きる。

 

だいたいなめてんだよ。他人の悩みの深さ重さを。心理系専門職と名乗ることの怖さを。

語れば軽くなる程度のことなら、自問自答で解決するってタイプもいる。それができなくなったときギリギリの状態で専門職を頼るのに、そういうことがわかってないんだよなあ、きっと。

 

「対話がすべてを救う」というのは、お言葉を返すと、固定観念の最たるものだろう。対話なんかじゃもう救われないというクライエントの扱い方を知るべきだし、そもそも「救われない」という感覚がどういうものかわからないんだったら、カウンセラーなんてやるべきじゃないと思う。

 

なんでこんなに怒り狂っているかというと、カウンセリングを受けてヒドイメにあった遺族と会ったから。

 

死別悲嘆をナンモしらないクソカウンセラーとやらがいたずらにいじくりまわして、繊細なバランスを土足で入り込んで踏み荒らして、無意味無根拠なアドバイスで負荷をかけて、もっと悲嘆を深くしやがった。

くっそー。。

 

こういうことを書くと「カウンセリングを理解してない」だの「アタクシは違います」だの、メッセージをいただくこともあるが、そんじゃまずわしの文章約10年分をほぼ読んでからにしてもらいたい。人間を理解してないのはどっちだといいたい。

 

こういうジャンルでわしが唯一救われたのは、公認心理師による心理検査、精神科医によるその解説。

 

淡々と機械的に検査を進める公認心理師の前で、わしは幼児退行していく自分をはっきり感じた。一番幸福だった記憶、5歳くらいだったと思う。「自分を知りたい」とかいうんだったら、同じ保険外で高額ということを考えると、カウンセリングじゃなくて、心理検査を受けた方が絶対にいい。精神科医は頼りになる。もちろんそうじゃないのもいるけど、探せばいいのがいる確率は、カウンセラーのそれよりはるかに高い。ご参考までに。

 

アタマに来すぎて一睡もできず。

ricorico1214