TVドラマでの死別悲嘆の取扱い | ペーパー社会福祉士のうたかた日記

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社会福祉士資格をとるまでと、とったあと+α。浮世のつれづれ、吹く風まかせの日々。

国内・海外の区別なく、TVドラマはわりとよく見る方だと思う。ジャンルはミステリーが多い。この先どうなるんだろう、という興味関心の集大成だからだ。

 

もちろん、ドラマに過剰なリアリティを求めるほど野暮ではないが、それでも、脚本家や演出家が身近な人の死別を体験しているか、していないか、あるいはしているのに無関心だったか、もともと生死に鈍感な奴か、などはびっくりするほどよくわかる。

 

「死に際」の描写については、ほんとは切れ切れに言葉を吐いてがっくり首を垂れるなんてこた絶対にないんだけども、歌舞伎でもミュージカルでも形式美の範疇に入るので、そこに噛みつく気はない。死に方にリアルを求めたらあらゆる物語は成立しない、『ベルサイユのばら』も『レ・ミゼラブル』も。

 

そこではなくて、「死別悲嘆」、つまり、遺族の悲しみ方の描き方は、もうちょいリアルにやってほしいなあと思う。

 

名作『大草原の小さな家』で起きる不幸と不遇、不慮の死はことごとく長女メアリーに集中しているが(←もはやお祓いした方がいいほど)、その反応のどれもが「そうはならねえだろ…」というものだった。

 

たとえば、火災で子どもを亡くして茫然自失…まではいいとしても、その後寝たきりになり、周囲の呼びかけに無反応になったり、突如ハナウタを唸ったり、叫んで暴れだしたりする遺族なんて見たことがない。「このくらい悲しいんだぞ!」という表現がなかなかに粗末。マイケル・ランドンが不勉強だったんだろうか。

 

また、二時間サスペンスあるあるだけど、遺族が死の真相を「知りたがらない」ことがある。

 

刑事とか監察医とか探偵が事実を伝えようとすると(←しかもなぜか自宅をいきなり訪問)「今さら何を知っても〇〇は戻ってこないんです。帰ってください!!」バーン!!(鼻先でドアを閉める)、みたいな場面がお約束だが、これも「そうはならねえだろ…」と思う。

 

いや、追い返されないと、刑事や監察医や探偵などのメインキャラの頑張りが目立たないのはわかるんだけどね。そうじゃないんすよね…

 

遺族は知りたい。

どんな凄惨な死に方であっても、遺体がどんなに無残であっても、大切な人に何が起きて、どんな末期であったか見たいし、知ろうとする。故人が味わった痛み苦しみと共にあろうとする。どんなつらい事実があろうと、死ぬよりつらい事実はこの世にはないからだ。知りたい欲求の根底にあるのは愛だ。失ってはならない人を失うと、人は狂気に近い執念を抱く。例外はない。

 

だから、遺族の知りたい欲求に他人の第三者のそれが優るなんてことは、断じてありえない。死別と死因、その経過を描くなら、せめて『アンナチュラル』のように、遺族と専門職の欲求がほどほどイコールくらいにはしてほしい。『監察医朝顔』初期はそこら辺をちゃんとやろうとしていたが、結局描き切れずにファミリー路線に転向している。きっと制作陣の手に負えなかったんだろうなあ。もったいない。

 

これまで見た中で、最も「こいつは凄い」と思った死別の場面は、唐沢寿明版『白い巨塔』。

 

病室に横たわる無言の財前を前にした若村麻由美と西田敏行を俯瞰で撮ったシーン、秀逸とか傑作とかいうレベルじゃない、あれを演技でできる役者さんの能力たるや戦慄だった。役者さんって常人じゃないんだなあと痛感させられた。これ以降のどの作品も、この場面を超える遺族の表現を見たことがない。

 

そして、今期の朝ドラ『舞い上がれ!』。

朝ドラあるあるで、大黒柱のお父ちゃんが急逝するのだけど、遺された奥さん(永作博美)と舞ちゃん(福原遥)の表現が見事。奥さんの白髪もそうだし、二人並んだときの青白い顔や赤い目元は、胸が痛くなりそうな造形に仕上がっていた。

 

先日、舞ちゃんがお父ちゃんの靴に触れて泣く場面があったが、あれはト書きにあった仕草なのか、演出家が指導したのか?

 

あそこで靴をぎゅっと抱きしめて、うわーんと号泣でもしていたら「はいはい、遺族ってそうなると思ってるんですね」と鼻白んだところだが、舞ちゃんは一言もしゃべらずに、お父ちゃんの靴に手のひらで触れる。そのあと「靴はあるのにお父ちゃんがおらん」「いやや…」と涙があとからあとから静かに零れ落ちる。視聴者わし「うおっ?」となり、ドババと涙が出ましたよ。くぅ~、なんてリアルなんだ…

 

そう、遺族は遺骨や遺品にああやって触れる。

抱きしめることももちろんあるけども、ほとんどは、名前を呼びながら、手のひらと指先の全体で、視界の中で(抱きしめてしまうと視野に入る部分が少なくなる)包みこむ。見つめて、撫でて、さすって、言葉をかけて、繰り返し繰り返し名前を呼んで、触っている。何時間でも膝において、じっと両手で触れている。生まれてきた赤ちゃんを慈しむような姿になる。

 

この動作をト書きで書いてたとしたら、この脚本家さんはご自身に死別悲嘆の体験があるか、観察眼がものすごスルドイんだと思うし、演出家が指示していてもしかり。もしやとは思うが、福原遥ちゃん個人が自然にやってたんだとしたら空恐ろしい。遥、恐ろしい子。。

 

それと、余計なことだが、モテモテ舞ちゃんをめぐる二人のイケメンの扱い。

 

幼馴染の風来坊詩人は「もう少しここにおる」といい、エリート彼氏は「(そっちに)行こうか?」という。また、風来坊は無言を貫き、エリート彼氏は「夢をかなえることが親孝行だ」と励ます。

 

ネットによると、このエリート彼氏の受け答えに賛否があったそうだが、賛成派は死別体験がない層、否定派は死別体験がある層じゃないかと思う。親孝行したい相手が死んじゃった彼女に「行こうか?」と自分の行動の決定を丸投げし、加えて屁の役にも立たないアドバイスで追い討ちをかける彼氏、どんなイケメンでもわしだったら別れるね。脚本家さんもひそかにフラグを立てたんじゃないだろうか。

 

死別悲嘆には想像では補い得ない衝撃と情動がある。体験がある視聴者にしかわからない特徴を細かく(マニアックに?)描くことで、虚構の中のリアルさが増す。

 

死別はドラマチックな素材なので、扱うことも多かろう。制作者は、日本人の標準的な遺族がどんな心境でどういう言葉を吐き、どういう経過で回復していくか、ちょっとでもリサーチすればいいのになあと思う。

 

寒風吹きさらす中、健康第一で過ごしましょう。

いろんなウイルスが跋扈しております、手洗いうがい、怠りなく。

 

ricorico1214