真逆のセンスとグリーフケア | ペーパー社会福祉士のうたかた日記

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社会福祉士資格をとるまでと、とったあと+α。浮世のつれづれ、吹く風まかせの日々。

先日の買い物帰り、けっこうな勢いでわしらの愛車を追い抜いてったキーロイ外車があった。

 

まあド派手な色だわと思って眺めていると、ダンナサンが「うわ、かっこ悪ー。せっかくの〇〇(車種)なのに、何であんな色にすんだろ」とつぶやいた。「普通はああいう色にしないもの?」と聞けば、「しないねぇ」と一刀両断。

 

でも、その車のオーナーは「このボディ最高にイケてるぜ」と思っている。「そして最高な俺」と思って、狭苦しい青梅街道を我が物顔に乗り回してるんである。

 

「すげーいい」と「ちっともいくない」って、真逆じゃん!!

 

センスって、45°や90°のズレ(それでもデカいけど)ならまだしも、どうしてこう180°真っ向正面、左が右に、右が左になる人がいるんだろう。向こうもそう思って怪訝な顔でこっちを見てるんだろうが、不思議だなあ。

 

前置きが長くなったが、この「真逆のセンス」が人間関係で出てくることがあるので厄介きわまりない。特にわしの生息するグリーフケアの分野でこれが露呈すると対応にクギンすることになる。

 

昨年、大学のゼミ仲間のAという男が亡くなった。いま、ちょうど一周忌が過ぎたころ合いである。それをふまえて、「忘年会やろうよ~」「Aを偲ぶ会も兼ねてさ~」とか言いだした女がいた。そしてあろうことか、「Aの奥さんも呼ぼうよ~」。

 

えええええええぇぇええぇぇぇぇぇえええぇぇぇぇえぇ~~!!!

 

統計によれば、グリーフが深まるのは死別から1年以上経過してから。ちょうど一周忌を過ぎたころから強まっていき、2年目くらいがピークになる。奥さんは今とてもじゃないが、忘年会なんて気分じゃない。外に出るのも、人に会うのも、必要最小限にとどめているはずである。

 

ケアの会に来られる方々も、一様に「一周忌過ぎたら悲嘆がより強くなった」とおっしゃる。悲嘆の回復の経過は世間一般のイメージと大きく乖離している。

 

ていうか、

こんな専門的な知識がなくたってさあ、ふつう呼ばないだろ。考えてもみなよ。

 

できあがったグループに混じるのはそうでなくても難しい。旦那の友だちは旦那の友だちであって、私の友だちではない。名前と顔もあやふやな「知り合い」程度の集団に一人で入るってだけでもストレスなのに、奥さんは建前上、招待される立場であるために、行きたくないが断りづらいという葛藤に苦しむことになる。多くの遺族はこういう「素人考えによる善意の偲ぶ会」の苦い経験がある。

 

奥さん目線でリアルに想像すると…

旦那の友だちは、亡き旦那の話をしていいのかよくないのかもわかってなくて、おそるおそる寄って来ては「最近どう?」「落ち着いた?」などとお茶を濁す。どうもこうも、体調も気分もいいわけないし、落ち着いてもいない。腫れ物に触るのはさぞめんどくさいだろうが、腫れ物にされる方はもっとつらい。話はそこでおしまいである。

 

そんなこんなで旦那の話題は早々に切り上げられ、あとは飲んで食って笑い合う連中に、「こいつら、旦那の死を酒席の口実に使ったな」と思う。桟敷に置かれて「なんで来たんだろう」と後悔する。中座ばかりしてトイレの時間が長くなる。来なければよかったと涙する。

 

私と違ってみんなは幸せ。だってみんな夫婦だもん。私の時間はあのときで止まってる。A、なんで死んじゃったの。なんで私を置いて行ったの。つらいよ。苦しいよ。戻って来てよ。会いたいよ…

 

バカ女め!

こうなることがなぜ想像できないのか。

 

想像できないならせめて何もしなければいいのに、こういう手合いに限って「奥さんを力づけてあげよう♡」とか思う。みんなで楽しくご飯を食べれば死別の悲しみが薄れると本気で思っていやがる。百歩譲って無知までは許せても、そこに鈍感や無神経が足されてしまったら当方オテアゲである。

 

わし、自分のできること、その方向性を考えた。

①奥さんを誘わないようにバカ女を説得する

②奥さんの意向を尊重し、全力でサポートする

 

①の時間と労力は計り知れない。「これはステキ」と思っている相手に「それはクソ」とわからせるなんて、キーロイ外車を廃車にしろというようなもの。絶対無理とはいわないが、今年の忘年会には間に合わない。

 

②奥さんはもしかしたら来るかもしれない。イヤイヤ来るのか、断り切れなかったのか。仕方なくか。また、わずかな可能性だが、行って誰かと話したい、Aの昔話ができるかもしれない、と期待する気持ちもあるかもしれない。

 

そしたら、わしが奥さんのニーズを満たせばいいではないか。

腫れ物+ワイワイの蚊帳の外にいて、ずっとAの話をすればいいじゃないか。退屈させない、一人にしない。奥さんと一緒に涙すればいいじゃないか。

 

わしとAの友情の話をしよう。写真をもっていこう。手紙ももっていこう。そうやって奥さんのグリーフをケアしよう。わしのグリーフも解放しよう。

 

そう腹を決めた何日か後、バカ女「奥さんに断られちゃった!ざんねーん!」とのことだった。わし、ほっとしたなんてもんじゃない。奥さん、よく頑張った。よかった。よく断った。疲れただろう、クリスマスごろには訪ねてみようかな。

 

周りにセンスが真逆なのがいる場合、「こいつ、なぜだろう」とどんなに追及しても答えは出ない。仮に理由が分かったとしても、そいつがそういう奴な事実に変わりはない。真逆のセンスの輩と「わかり合おう」なんて、わしはさらさら思わない。こっちもわからないし、向こうだってわからない。

 

だったら、こいつの思考はこうなんだ、で終わらせて、あとはその余波や影響を食い止めたり、結果を変えたりできる方策を練る方がずっと早い。精神衛生上もいい。

 

そのあとの個人的な感想や評価は、口に出さなければないのと一緒。あのバカ女、よくあんなんで生きてこられたなあ、と思うのはココロの中では自由である。そして、そういう真逆のセンスに傷つけられる遺族はいっこうに減らないなあ、わしの努力は蟷螂の斧だとあらためて思い知った一件でもありました。

 

皆さま方にはよい一日を。

秋も深まってまいりましたです。

 

ricorico1214