死別悲嘆の重さ軽さの計りかた | ペーパー社会福祉士のうたかた日記

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社会福祉士資格をとるまでと、とったあと+α。浮世のつれづれ、吹く風まかせの日々。

グリーフケアをやってて感じることは、

死別悲嘆に関する知識というものが

想像以上に知れ渡っていないってこと。

誤解されていることもたくさんある。

 

誤解のうちの代表的な1つの例として、

どなたかが亡くなったときのとらえ方で、

悲嘆が軽い人は「冷たい人」で、

悲嘆が重い人は「優しい人」って公式。

 

たとえば、

会社で上司が亡くなったってときに、

部下の中でも、わっと泣いちゃう子と、

そうじゃない派に二分されますよね。

 

泣く子は上司思いの温かい部下で、

泣かないと冷たい奴って区分される。

男女差もあるかのように理解される。

 

けど、

いーえいーえそうじゃないんすよ。

個々人の性格の問題じゃないんです。

男女差でも年齢差でもありません。

 

悲嘆の重さは関係性と正比例すんの。

生前、関係が濃ければ悲嘆は重いし、

関係性が薄ければ悲嘆は軽くなるの。

 

わし、これを最初に習ったとき、

個人の性格の問題にしておいた方が、

まだ救いがあるかも…と思いました。

 

だって、なんというか、

「私、誰が亡くなっても悲しくない」と

ひとりごちる方々の解釈の方向として、

「そっか、私ってクールなんだ」なり、

「私って冷たいのかしら」となった方が、

悩みの底がまだ浅くて済む感じがする。

 

それが、

周囲の誰が亡くなっても、

悲嘆がサッパリわいてこないのは、

「その程度の関係性しかなかった」から。

 

薄~い関係しか結んでこなかったから、

突然の訃報に「驚き」はしても、

「悲しみ」は感じられないってことで、


つまりは

クールなアタイ♡と思ってた自己像が、

実はぽつーんと孤立してたって構図。


こりゃキツイ。。

今後にけっこうダメージを与えそうな…

 

で、

 

これをわしは研修とかで説明するとき、

悲嘆の軽い人を「冷たい」となじったり

悲嘆の重い人を「ヤワ過ぎ」と責めたり

そういうのは不毛だからやめましょう、

 

軽い人は重い人のケアをしてあげてね、

重い人は軽い人に頼ってくださいね、

相互理解の空気をつくりだしましょうね、

みたいなことを述べてきましたのですね。

 

ところが。

 

先日、大学時代からの親友を亡くした。

そのとき、悲嘆の重さ軽さっていうのを

目の当たりにすることになったわけ。

 

お別れ会と称した簡素なご葬儀の場、

見慣れた親友が棺の中で眠っている。

見ていると動悸、呼吸が上がってくる。

 

眼を閉じた顔を見るのは最初で最後。

きれいに整えた髪、いつもの上着。

こんな別れ方ってあるんだという事実。

 

大学時代から今までのことが文字通り

瞼を脳裏を走馬灯のように駆け巡って、

おさえてもおさえても嗚咽が止まらん。

 

が、

 

同じ大学で同じクラスの連中でも、

たとえば卒業してから会ってないとかさ、

儀礼的に参列した一派もいたわけ。

 

そうなると、

悲嘆なんてもなあ、まあ~軽い軽い。

ほとんどないに等しい。

 

焼香して棺の中しげしげ覗き込んで、

「え~ウソ~やっだ~実感わかな~い」

「ほんと、ぜんぜん変わんないよね~」

笑いはしないまでも、泣きもしない。

 

「大学のときの写真持ってきたんだ~」

「わー、見せて見せて~懐かしい~」

 

…もうね、どスンゴイ距離感ですよ。

 

こんなお久しぶり~の連中からすれば、

涙と鼻水でくちゃくちゃになったタオルを

握りしめ、折り返し、また折り返して、

ゴウゴウ泣き続けているわしって、

「なぜに?ああなる?」「どうしたの?」

 

チラチラ怪訝そうに遠巻きに見ているし、

わしはそっちに合流したくない一心で、

ダンナサンのそばを離れないしっていう、

同じ大学卒でもヘンにまとまりのない、

ぎくしゃくした空気にもなったわけです。

 

このとき自分が研修で、エッラソーに、

上からモノを言ってたことが、

思いっきりブーメランになったと痛感。

 

「悲嘆が軽い人が冷たいのではなく、

それだけの関係性だったということ」、

「悲嘆の重い人が優しいのではなく、

そういう濃い関係性だったということ」。

ゆえにお互い責め合わないように…

 

けどね、

実際にこういう差を見せられるとね、

受け入れるなんてできやしねーわむかっ

 

ワイワイ談笑している連中を見ていて、

こいつらなんて冷酷なんだろうっていう、

憤怒憤激が沸きあがってきて、

ギリッと睨みつけたくもなってくるのね。

絶縁なんて言葉もよぎったりするわけ。

 

人って勝手だなあ。

 

もとい、

 

私って勝手だなあ。

 

きっと、読書家で偏屈だった親友が、

棺の中からわしを見て、苦笑して、

そっと教えてくれていたんだと思う。

 

「机上の理論を語るのはいいけど、

現実に落とし込んだとき味わう苦悩も

一緒に話してあげた方がいいよ」と。

 

うん、わかった。

そうする。

 

わしのライフワークに、

こんなにも深くかかわってくれて、

ありがとう。

 

できればこの先も、少しずつ、

講義内容に説得力がついてくるわしを

みていてほしかったよ。

 

生きているときと同じように、

失ってからもその存在を大事にする。

それが遺族が行きつく安息の地。

 

もうすぐ親友の四十九日を迎える。

早いね。けど長い。会いに行こう。

 

10月半ばの急な冷え込み、

皆さまご体調にはお気をつけて。

 

ricorico1214