もう何年もの間、ずっと
 
深める方ばっかり
 
やってきた気がする。
 
 
 
 
「内省」で 考えたり
 
「原点思考」で 振り返ったり
 
「親密性」で 狭く 深く つながったり
 
 
そろそろ
広がるほう にも
目を向けていきたいような気がする。
 
 
自分の中のモードが
変わっている途中みたい。
 
 
広がりたい
わたしの世界を広げたい。
 
 
部屋の隅っこで 膝を抱えて
天窓の月を
見上げていたわたし。
 
ネイビー、深緑、深海のブルー。
 
 
 
 
 
世界の鮮やかさに
目を奪われて
 
もっと見てみたい、
すべてを感じてみたいと
憧れるわたし。
 
淡いイエロー、フラミンゴみたいなピンク、
ホワイト。
 
 
もっと、軽やかに
 
 
背中まで長かった髪を
ばさりと、短く切るみたいに。
 
 
 
深める わたしは、
基盤になる わたし。
 
広がる わたしは
新しいわたし。
 
でも、子どもの頃から
ずっと前から いた わたし。
 
ずっと前から
解放されたいと願っていた わたし。
 
 
 
鮮やかに
生きたい。
ぜんぶ見てみたい。
ぜんぶ感じてみたい。
 
 
何も成し遂げなくても
何者でもなくても
 
わたしらしさ、
なんて見つからなくても。
 
 
 
 
感じたままを 感じ切る
望んだままに 動いてみる
 
それで
思いっきり
笑おう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
最後までお読みくださり
ありがとうございました。
 
明日もあなたが笑顔でありますように。
今日は立春
 
昨日は節分でしたね。
 
 
息子が通っている子ども園でも、
毎年節分で豆まきをするのだけど
今年はどうやら、趣が違ったみたい。
 
「泣きむし鬼」
「よわむし鬼」
「怒りんぼ鬼」
 
3つのうち、どれかを選んで
壁に掲げた鬼の絵に向かって
豆を投げるんだって
 
 
去年までは、
先生が鬼のお面をかぶって登場。
 
泣き叫ぶ園児が続出しつつも
なんとか恐怖を乗り越えて、豆を投げつける
って光景だったんです…。
 
 
 
聞けば、小学生の娘のクラスでも
「自分が退治したい鬼」を選んで、書いて
そこに対して豆を投げるんだって
 
娘は、「片づけめんどくさい鬼」を
退治したそうです。
 
(それ、日常的に母から
 片づけなさいって言われてるからか…)
 
 
 
なんだろうね、
鬼は
「自分の内側に在るもの」だって
 いつからか 変わったのかな。
 
 
 
鬼 = 怖い存在、怖さを乗り越えるべき対象
 
と位置づけるなら、
たしかに
成長の段階における試練として
乗り越える必要は出てくるのかもしれない。
 
 
 
だけど、
 
じゃあ
 
 
鬼 = 悪?
 
 
鬼に心はあるの?
 
 
っていう問いには
突き当たってしまう気はするな。
 
 
 
未だに
鬼滅の刃は読んでませんが…
 
 
 
 
 
なまはげみたいな、
どこか人を超越した
畏敬すべき大きな存在が
愛を込めて叱ってくれるのはいいんだけど
 
 
 
 
 
鬼 = ?
 
 
その対象を、見誤った時に
 
異形のもの、
自分達とは、身体的特徴が異なるものを
 
簡単に
迫害する方向に
行きはしないだろうか。
 
 
 浦沢直樹バージョンの絵です。泣かされる…
 
 
 
 
 
 
 
鬼に、心はあるの?
 
 
 
 
 
 
じゃあ、そもそも節分における
「鬼」の起源って何?
 
と思ってGoogleさんに聞いてみたら
 
 
・仏教では「鬼は煩悩と呼ばれる人の欲望や悪い心に住み、それが災いとなる」と考えられていることから、寺院で節分の豆まきが広まった
 
・そこから、分かりやすく鬼を追い払い、福を内に入れるという形に変化していったと考えられる
 
 
 
…ということは。
 
 
冒頭の、
「怒りんぼ鬼」
「片づけめんどくさい鬼」を退治するって、
 
めちゃめちゃ
仏教の本来の意味に回帰してない??
 
 
子ども園、小学校教育
すごいかも。
 
 
なんて。
 
 
 
節分の鬼から、
思いがけず
仏教の思想までたどり着いて
煩悩について思いを巡らせる立春。
 
 
 
 
ちなみに私の退治したい鬼は……
 
「家事めんどくさい鬼」
 ですかね………真顔
 
 
 
 言うほど退治する気ないけどね…
 
 
 
 
 
最後までお読みくださり、
ありがとうございました。
 
またどうぞ、お越しくださいませ。
 
だいじょうぶだよ。
夕あかりの国では
しんぱいすることはないんだから。


そんなことへいきだよ。
夕あかりの国では
なんでもないんだ。




ヨーランは部屋の中で一人きり
ベッドの上でふさぎ込んでいる。

ママが話している声が聞こえた。
あの子はもう、これからずっと
歩けないかもしれない。


そんな彼の部屋の、アパートの4階の窓を
不思議な格好をした小さなおじさんが
ノックしている。
彼は窓をすり抜けて入ってくる。



夕あかりの国へ行きたい子どもを
探しているんです。




そのまま2人は空を飛び、街を抜けて

夕あかりの国までやってくる。

そこで冒頭の台詞が何度も繰り返される。


だいじょうぶだよ。
夕あかりの国では
しんぱいすることはないんだから。


車やバスの運転も、なんてことはない
諦めていた魚釣りだって、
なんだってできる。王様にも会える。

子グマがやってきて、
レモネードを飲んでお喋りする。

なんだってできる。
なんだって、起こる。



素敵な空想の世界、
色彩も柔らかくて優しい。なのに
わたしは読みながら
ずっと不安な気持ちでいっぱいだった。


 彼は、戻って来られるのだろうか?



ピーターパンでも、
かいじゅうたちのいるところ でも、
めっきらもっきらどおんどおん でも。

空想の世界に迷い込んだ子どもたちは
必ず最後には
自分の家に戻りたいと願って
物語はそこで終わる。


この、夕あかりの国の物語の
主人公である彼は

そのまま空想の世界に
溶けていってしまうんじゃないか?


そんなことを連想したのは、きっと
夕あかり、という言葉に対応した
どこか寂しげな色彩。

逢魔が時にも通じるような。

そして彼が、物語のはじめから
ある意味での喪失を抱えていたから。





けれど、そんなことはなく
ヨーランは何事もなかったように帰宅して
次の日も、
その次の日も
夕あかりの国へ向かう。


寓話的なものは、何もなくて

空想の世界は
少年の日常と、ただ並行して存在している。

そのことを、物語は受け入れている。


それで、よかったなぁと思う。
どんでん返しがあっては、いけないのだ。
きっと。




空想の世界では、果てがなくて
どこだって飛んでいける。

想像の世界で
どこまでも羽ばたける、翼。



もしも
寂しかったり
何かを失ったり
安心できる場所でなかったり

もしも、
"その子" が今置かれているのが
そんな環境であったなら


空想の世界を
自分だけの秘密基地にして
そこで思いきり
翼をのばして、遊んでほしいと願う。



なんでそんなことを考えたのか、
自分でもよくわからないけれど。


この絵本が持つ
そこはかとない寂しさと
それを包みこむ優しさが

それを必要とする、すべての
子どもたちと
おとなたちに

正しく届いたらいいな、と願う。



* * * * * * * *

作者は、「長靴下のピッピ」で有名な
スウェーデンの絵本作家
リンドグレーンさんです。

この絵本は、
大人になって初めて 手に取りました。

6歳の時の自分に、もし手渡したなら
彼女はどんな印象を持っただろうな。
寂しさと色彩の柔らかさを
きっと気に入っただろうと思うのです。




最後までお読みくださり、
ありがとうございました。
またどうぞ、お越しくださいませ。