あれから10年ということで。。。
早いものですね。
(お借りした画像は本文とは関係ありません)
当時、私はS市内でヘルパーをしていました。
担当していた利用者さんが時々「ステイ」でここを利用していたそうです。
利用者さんのお母様は
「もし、日にちが違っていたら…うちの子も被害者だったかも知れない」
…と、おっしゃっていました。
当時は「障がい者は社会の目につく場所には出さない」から
「障がい者も普通に生活を送ろう」という方向に向かっているところだったので
「優生思想」とか「意思疎通が取れない人は有害」と犯人が語ることで
せっかく良い方向に向いていた流れが変わってしまうのではと恐怖しました。
根本的に理解できません。
私は「強面」なので先ず初対面の人には避けられる存在です。
そんな私に普通に接してくれるのが利用者さんたちなのです。
私の外見など気にせず、自分の気持ちにストレートに行動します。
そんな利用者さんの行動に、少なくとも私は救われていました。
それだけでも存在価値はありますよね。
私が介護を始めたきっかけは親が高齢になった事でしたが
気が付けば「高齢者介護」ではなく「障がい者支援」の道に進んでいました。
利用者さんの癖や性格、症状も千差万別です。
中にはなかなか笑顔を見せない利用者さんもいます。
そんな利用者さんと打ち解けて仲良くなって、笑顔を引き出せたときは感無量です。
「隣に住んでいる人の顔も性格も知らない」なんて事が普通になっている昨今
利用者さんとの関りによって何か人を知るヒントになるのではと思っています。
「出来ること」「出来ないこと」「意思疎通」という点を考えると
健常者でも出来ること出来ないことは在るし、意思疎通だって難しい。
いや、噓をつく分だけ健常者の方がたちが悪いと思います。
そう考えると誰しも障害を持っていると言えるのではないでしょうか。
「意思疎通が取れない人は有害だから」という言葉が残っていますが…
なぜ理解する努力をやめてしまったのでしょう。
生きている限り、必ず何かのサインを出しているのが人間です。
それを発見できる楽しさを継続できるか…出来ないか…。
その辺に事件のヒントがあるような気がします。。。
「ともに生きる」
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()




























