【大阪市】大阪五新地を歩く「松島新地」 | 日本あちこちめぐり”ささっぷる”

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休日に街をあてもなく歩き回って撮った下手糞な写真をだらだらと載せながら綴る、お散歩ブログ。
東京や近郊メインも、ごくまれに遠方にも出かけています。
観光案内には全くなっておりませんのであしからず。

【大阪市】松島新地

 

【大阪五新地を歩く】

飛田右差しこちら

松島右差し今回

今里右差しこちら

信太山右差しこちら

滝井右差し次回

 

大阪五新地のうち、飛田と双璧をなす規模を誇ってきたのが今回の「松島新地」

こちらも飛田と同様、戦前から存在していた遊廓から戦後の赤線を経て、現在に至っている。

しかし、その歴史は飛田とは対照的に香ばしいものであった。

 

*  *  *

 

 

最寄り駅は地下鉄中央線(あるいは阪神なんば線)の九条駅で、そこから歩いて5分足らずというアクセスの良さだ。

「松島料理組合」のゲートがあり、そのが件の松島新地だが、住宅やら町工場やらが混在していて、普通の街並みの中に料亭が溶け込んでいるという感じ。

料亭ばっか集まっている飛田とは好対照だ。

 

 

松島新地の誕生は古く、明治元年に遡る。

大阪川口に外国人居留地ができ、そこに隣接する形で生まれた外国人向けの遊廓が始まり。

一度は娼妓解放令で衰退するも、港に近いことで船に乗る兵士らに便利だったこと、他の遊廓と違って一見さんを歓迎していたことも相まって、関西随一の遊廓に成長する。

但し、当時の遊廓があった場所は現在と異なる。

 

 

上の地図でざっくりとピンク色で塗られているエリアが戦後、つまり現在の松島新地

では、戦前はどこにあったかというと、薄い青色で塗られたエリアが戦前の松島新地となる。

「松島」という名前からして元々は島だったわけで、「木津川の大渉橋下の三角州が即ち松島」 (全国花街めぐり)だった。

「遊廓は松島一、二丁目、仲の町一、二丁目、高砂町一、二丁目及び花園町に跨り」 という記述からエリアは広大で、現在の千代崎にあたる箇所が当時の遊廓地だったらしい。

確かに、新開地特有の区画がされているのが地図で読み取れるかと。

戦前と戦後で遊里の位置が変わった例としては、東京の玉ノ井(東墨田)が代表的で、やはり空襲の被害による。

 

 

この松島新地は大正の終わりごろ、政界をも巻き込んだ松島遊廓疑獄事件で注目を集める。

遊廓の移転に際して賄賂が云々という事件なのだが、この事件のドサクサで生まれたのが前回取り上げた今里新地だった。

『全国花街めぐり』の著者、松川二郎はその事件の舞台となった松島新地を

「名こそ西区だが松島遊廓は発展したる大大阪の中心地に位する所から、いつも移転が問題となり、最近に於ては政界の宿老箕浦翁にまで御苦労を相かけるに至つた市政上の癌である」

とまで評している。

 

 

昭和2年当時の様子を、その『全国花街めぐり』から抜粋。

 

欧州戦前後から此の方面の急激な発展ぶりは素晴らしいもので、松島から西へ九条通りにかけた一帯の地は、第二の千日前と云はれる程の賑ひであるが、明治元年十二月松ヶ鼻の新開地を松島町と改称して、市内の所々に散在せる小遊廓を取払つて此に移したのが始めで、東京の吉原に模して廓の中央に桜の樹を植付けた。が、家並は大小さまざま新旧またとりどり、その間には小料理屋、飲食店、八百屋まで介在してるといふ具合で、混然又雑然、甚だしく花街としての美観を欠いてゐる。然し、昭和二年十二月末現在の統計に依れば、大阪府下の娼妓総数八千百五十五人中その約四割を此の一廓で占めてゐるといふ、府下随一おそらく日本第一の大遊郭である。

貸座敷 二百五十九軒。

娼妓 三千七百〇一人。

芸妓置屋 八軒。

芸妓 百三十三人。

 

 

一方、昭和5年発行の『全国遊郭案内』によれば、「貸座敷は目下二百六十軒あつて、娼妓は約三千七百人居る」 とある。

書いている内容は前述の『全国花街めぐり』とほとんど同じなので、恐らく編者がそれを参考にしていたのだろう。

 

 

しかし、この松島新地は大阪大空襲で焼失、戦後は現在の地に移転して復活する。

昭和30年当時の様子を『全国女性街ガイド』より抜粋。

 

「意気な三尺、尻垂れむすび鼻嗅ぷいぷい九条ゆき」……という歌が流行った頃は、妓楼二百五十九軒、娼妓三千七百一名という日本一の大遊廓〈吉原の全盛期で三千名〉だったが、現在はやっと百四十八軒に千百二十名ほど。

熊本、福岡、広島、岡山の出身者が圧倒的。大阪の人は飛田を避け松島へ行くので馴染客が多く、すれていないかわり、何度行っても前のに逢えず、次々と新顔ばかりに泊る仕儀に相成る。ばたふらい・ぼういには最適......

 

 

昭和33年に売春防止法が施行され、表向き赤線は廃止されるのだが、松島も他の新地と同様に"料亭"街として今も現役遊里として存続している。

料亭内でどんな遊びができるかは......ココでは敢えて書くまいw

 

 

因みに、大阪には条例により"特殊な"お風呂屋さんは存在していない。

従って、大阪の好事家たちは飛田やら松島といった新地まで足を運ぶわけだ。

表向きは"料亭"で、その中で営まれているのは「仲居との自由恋愛」という形になっている。

 

 

で、歩いたのはやはり早朝。

一度戦災に遭っているエリアなので、残っている料亭は戦後のものがほとんどだ。

それでも、戦前からではと勘違いするほど趣を残している料亭が多い。

まあ、上の写真にある突き当りのやつは別としてw

何だか口を大きく開けて待ち構えているみたいだ(笑)

 

 

赤線街を歩いているとき、こうした豆タイルに出くわすと何だか安心してしまう。

 

 

現役色街ゆえにどうしても撮れる写真も限定的になってしまうが、歩き甲斐のある遊里だったのは事実だ。

 

 

市松模様のタイル装飾が鮮やかなこちらは料亭をやめて、現在ダイニングとして使われている。

松島も徐々に変化が生まれている例だ。

 

 

微妙に"料亭"街から外れたこの場所にも遺構らしきものが見られる。

某政党の事務所が入っているこちらは転業アパートだ。

 

 

周辺の路地はシブい飲み屋街になっている。

かつては青線的な店が並んでいたのだろうか。

 

 

で、駅を挟んで反対側の九条側もいい感じの街並みを残している。

 

 

タイル装飾がされている美容室。

新地内の女中さんもお得意さんだったろうか、と想像してしまう。

 

 

こちらには円窓が。

果たして遊廓との関係はどうなんだろうか。

 

 

因みに、この近くには近年まで「九条OS劇場」という劇場が存在していたのだが、建物ごとなくなっていた。

どんな劇場だったかは......察してくださいね。

ある意味色街の名残りともいえる劇場ではあった。

 

 

アーケードの入口にはその「九条OS劇場」の看板が残っていた。

まだ残ってるんだろうかね?

 

さて、これで過去に訪問した今里と松島を取り上げたが、次回は直近に訪問したもう一つの新地、「滝井」へ。

周辺の商店街や非戦災地区ならではの街並みも併せて綴ります。

 

 

(訪問 2016年7月)