“KYブーム”が読めていない、2つの空気
2007年の流行語である“KY(けーわい)”は、「空気が読めない」の略だ。「空気が読めない人」とストレートに言うのがはばかられるのか、陰で「あの人はKYだ」というように使われる。昨年は特にこのKYが忌み嫌われ、“空気を読むこと”が重要視された年でもあった。
この一種の“KY批判ブーム”は、日本人独特のコンセンサスの取り方とも関連がある。
多くの日本企業では、物事を平和裏に決定するため、暗黙のうちに「そこには触れないでおく」というルールを作る傾向がある。日本独特の“根回し”は、その重要なツールでもある。
会議の前にひと通りコンセンサスを取りたい点を根回ししておき、物事が穏便に決まるように段取りを整える。結果、会議は形式的な決定の場になる。だから、そこで誤って異論を挟もうとすれば、その人は「KY」だと認定されてしまうのだ。
僕のような経営コンサルタントというのは、この“空気”を利用する仕事でもある。空気を読みながらコンセンサスを作りにいく場合もあれば、空気を読んだうえで、あえて波紋を投げかける場合もある。いずれの場合も「空気を読む力」が仕事上、非常に重要だ。その意味では、「空気を読む力」が世の中で意識されるようになるのは、良いことだと思う。
しかし、なぜ今、このKYがブームになっているのか。
この点を考えてみると、2つの恐ろしい事柄に思い当たる。この2つに目を向けないままKY批判を続けていくことは、実は、日本人にとって危険なことかもしれない。今日は、その話をしたいと思う。
1つ目の話は、なぜ今、KYに脚光が当たっているのかということから始まる。
今、日本では重要視されているKYも、例えば米国のビジネスパーソンにはあまり縁のない話だ。実際、米国の友人にKYの話をすると、「アメリカでは逆だ」と断言する。米国のビジネスシーンでは、空気を“伝える”能力が無い人間の方が、問題視されるからだ。それも、基本的にはっきりと口に出して伝えることが、一番良しとされている。
米国のように異なる文化を持つ人々が集まり、「人種の坩堝(るつぼ)」と呼ばれる社会では、空気を読むことを相手に期待する方がビジネスパーソンとして無能だということになる。問われるのは、はっきりと自分の意見やスタンスを伝えたうえで、コンセンサスを取りにいく能力だ。それは米国社会が「自由を重視する」という、1つの前提条件の下に成立しているからである。
逆にいえば、空気を読む技術が必要な環境とは、“抑圧された環境”ということだ。
例えば、映画『ロッキー4/炎の友情』に、こんなシーンがある。
モスクワに出向いた主人公のロッキーは、旧ソ連の政治局のトップの前でロシア人の宿敵をノックアウトする。この試合を政治的な宣伝の場にしようとしていた政治局員は、味方の敗北に凍り付く。ほかの政治局員たちも、この失態にどう対処すべきか一斉に書記長の顔色を伺った。そこで、書記長は会場の“空気を読む”のである。
会場には、ロッキーの激しい戦いに感動し、興奮するソビエト人民の姿があった。その空気を読んだ書記長は、ゆっくりとロッキーに対して拍手を送り始める。それを見たほかの政治局員たちも拍手を始め、最後には宣伝を目論んでいた政治局員もその空気に同調し、拍手を始める。
旧ソ連の政治局のように、激しく冷たい政治闘争が行われているような場では、空気を読む能力が重要になる。オープンな議論などは望むべくもなく、自分の立場を明らかにすることすらリスクとなる。空気を読むために少しだけ場を揺らし、それで周囲がどう反応するかを確かめてから、自分もそれに同調する。そういった技術が必要となる。
「裸の王様」のエピソードにも、空気を“読まなくてはならない”お国の事情が垣間見える。まだ空気を読むことを知らない、それを言ったら自分がどうなるかすら分かっていない子供だから「王様は裸だ!」と叫ぶことができるのだ。 いずれも抑圧された社会だからこそ、空気を読む技術が必要とされる。
小泉政権が終わり、今、世の中がKYを問題視し始めた裏側には、我々の社会が再び“抑圧”の方向に向かっているという、別の空気が存在している。
もう、“日本をぶっ壊す”時期は終了した。壊し切れない、大き過ぎる問題がたくさん存在しているのだから、その空気を読んで行動しろという社会へと、揺れ戻しが始まっているのだ。
KY批判ブームの裏にある1つ目の問題とは、空気を“読まなければならない”抑圧された空気――我々は、このことに気付かなければならない。
さて、さらに重要なもう1つの問題がある。
先週、僕のクライアントの1人が、こんな問題を投げ掛けた。僕自身、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた発言だったが、かなり事実を言い当てているかもしれないと、直後に思った。
彼女は「最近、我々は社会現象について、自分の意見を持たなくなりつつある。意見を持つ前に、グーグルで意見を“検索”するように変わったのだ」と言ったのだ。
確かに我々は最近、何か事件が起きるたびにWebで意見を検索する。最初に事件を耳にしたときに自分が抱いた不快感、正義感、高揚感などの気持ちは、Web上の意見を見ることによって修正されていく。
自分以外の多くの人たちも「同じ不快感を持っている」という結果がサーチできれば、「それは間違っていることだ」という意見を強くする。逆に、サーチ結果で多くの人が「それは仕方ないことだ」という論調であった瞬間に、自分の意見もまた、「それは仕方ないことだ」に変貌を遂げるのだ。
インターネットが普及した結果、世の中の空気は“集計”しやすくなった。
ヤフーやマクロミルなどが公表しているアンケート結果を見れば、世の中の空気は定量的に把握できる。ブログを斜め読みしていけば、知らない人たちの論点や多数意見がざっと掌握できる。SNSの中の意見を眺めれば、自分の周囲の空気も読める。そして無意識のうちに、大なり小なり、それらの意見に自分の意見を“合わせ”てしまう。
サーチの結果、世の中の大多数が同じ意見を支持していることが分かれば“祭り”が始まる。絶対的多数意見を背景に、ネット上のKYは犠牲者となり、その“愚か”な行為は徹底的に攻撃されるようになる。
一方で、意見が二分されていれば攻撃は泥仕合になる可能性がある。空気を読む能力者ほど、無用な戦いは避けたほうが賢明だと知っている。最初は自分も強い意見を持っていたとしても、その意見を持ち続ける必要すらない。これが今の“IT社会”である。
実際、現実の世界でも、自分独自の意見を持つということは、しんどいことである。特に、世の中の空気と違う意見を持っていると生きにくいものだ。馬鹿にされたり、ひどいときには攻撃されることさえある。KY扱いされることもあるだろう。
そういうしんどい思いをするよりも、きちんと他人の空気をサーチして、それを自分の意見にしてしまえばいい。そうすれば、楽に世の中を渡れるようになる。
だから、「自分の意見を持たない人」「他人の意見をサーチする人」が今の日本には増えている。それが2つ目の問題である。
「KY」という言葉が流行したこと自体、そこに“楽しい”いじめの要素があるのも一因だ。バラエティ番組などでは出演者の誰かをKYとして認定すること自体で笑いが取れる。しかも、多数派の空気を読む技術を持っていない少数派を「あいつはKYだ」と名指しするのは単に面白おかしいだけではなく、安全でもある。なにせ相手は“少数”なのだから。
そんな事情からKYが流行した理由は分かるのだが、そろそろKYはやめにしてはどうかと僕は思っている。面白いからと浮かれていると、その裏にある、もっと重要な“2つの空気”を読み忘れてしまうからだ。
我々は今、さらに抑圧される方向に向かっている。そして自分の意見を持つことが怖いと感じる方向に向かっている。この“2つの空気”は、日本の未来にとって、非常に危険なものだ。
そして、これら2つの空気は同様に、企業の未来にとっても危険である。
社内の議論を、KYを理由に抑圧しているうちに、社員の誰もが自分の意見を持たず、他人の意見をサーチする会社に変わってしまう。そうなる前に、経営者は行動を始めるべきではないだろうか。面白さを優先するバラエティ番組からKYを撲滅するのは難しいかもしれないが、経営者には、社内からKY批判を撲滅するだけの能力があるはずだ。
ということで、今年は大企業経営者は率先して「企業内のKY批判禁止」を打ち出してみてはどうだろう。世の中に先んじてKY批判を封じていけば、自分の意見を持たない社員が増えていく競合他社に対して、「社員力」で一歩、抜きんでるチャンスでもあると思うのだが、どうだろうか
元ネタ
全く仰るとおりだと思いました。何の分析・考えも無く、空気を読めない人間をからかっていたと思います。私がおろかでした。全く情けない限りです。
悔改めたいと思います。