中国で反日デモが起こった時、私はちょうど中国にいた。しかも、デモがおこった街にいた。その時、NHKの衛星放送を見ていたのだが、その誇張ぶり、大げさな報道ぶりに驚いていた。ほとんど身の危険は感じなかった。しかし、あの報道をみていると、毎日デモが起こっているようであった。

 今回も全然、全体像が見えてこない。


>チベット仏教の最高指導者のダライ・ラマ14世が初めて会見し、「暴動は文化的な虐殺だ」として国

>際的な調査を求めました


 とのこと。暴動を起こしているのは、誰なんだろう?この彼の発言だけだと、暴徒が虐殺を行っているととれるが・・・?しかも「文化的虐殺」とは?何?

 

>日本人観光客:「一般の地元の人もすべて(デモに)加わって、女の人もナイフを持ったりとか。漢

>民族のお店も建っているが、そういうお店をがんがんに壊して、窓を壊して、中にあるたんすやらを

>すべて外に出して放火して。


 という目撃談もあるので、一般民衆による暴動・略奪と思われますが・・・・暴徒を鎮圧するのは当然の事だと思う。そのやり方の是非はあると思うが。

「民主化への政治的デモに対する中国の弾圧」という形ではないのでは?と思えて仕方がない。

 マスコミは、やはり今回も煽り立て「民主化への政治的デモに対する中国の弾圧」という雰囲気を作り出そうとしているのではないか?

 聖書の中に、「2億の軍勢が・・・・」とあります。それを読んで、未来の事に思いをはせ、聖書解釈をし、云々するのは別に悪いことではありませんが、実生活とつながっていない気がします。

 2億⇒数が多い⇒(イスラエルの)東で数が多い⇒中国(共産主義だし)という単純極まりない話をしているクリスチャンがいますが、日本がその軍隊の中に入る可能性についてとか考えないのでしょうか・・・?

今、13億くらいいる内の2億が軍隊ってありえないでしょ。6.5人に1人が軍人で、イスラエルまで行くんですか・・・・?中国そんなに金ないし。

 連合軍と考えた方がいいと思います。となると、日本の軍事力・資金力が関係ないはずがないのでは?

となると、憲法が改悪される ⇒ 海外に派兵する ⇒ 連合軍にはいる ⇒ イスラエルを囲む ⇒ 日本人が再臨のイエス様に・・・ というストーリーを考えてしまいます。

 そういうことを考えると、やはりクリスチャンは聖書預言の観点からしても、憲法改悪、自民・公明党に反対するべきなのではないかと思ってしまいます。

妻の話を聞くのは、意外と苦にならない方なのですが、やはり時として、わけのわからん会話もあるので、その会話で一体何を求めているかと何度も妻に聞いて、分かってきた事は、「感情の共有」だということ。「感情の共有=同意」ということらしい。具体的には、「そうなんだぁ。大変だね(お疲れさま/ありがとう/よかったね等)」という言葉が必要らしい。ということです。

そこで、先日、教会である中年の姉妹が「もー大変だったの!あれがあーで、これがこーで、もーしっちゃかめっちゃかで・・・!!」と言っていたので、試しに「そーですか。それは大変でしたねぇ。」といったら、ぴたりと止まり、なにも言わずどこかへ行っちゃいました。何も言わずにどこかにいっちゃう感じに驚きましたが、どうやら、満足したらしいということが分かりました。

 是非、お試し下さい。

注1:女性は本当に同意してくれているのかどうか、わかるようです。口先だけの同意は火に油を注ぐことになります。

注2:「この人は分かってくれる!!」と更に感情の共有を求めてとりとめもない話をし出す可能性もあります。

イエス様がエルサレムに入場した際は、
エルサレム中が大喜びして迎えた。
しかし、その方が、自分の期待通りのことをしないとわかった時、
大喜びして迎えた人間は、十字架につけろと叫ぶものになった。

安部さんが、就任した際は、支持率が70%という驚異的数字。
そして、彼が辞任した際は、不支持率が同じくらい。
たった1年の間である。

たった一週間で、イエスを十字架に付けろと叫ぶ大衆の
変心ぶりがまったく理解できなかったが、今はよくわかる。
人間はどこも、いつの時代も同じだ。
とにかく人間は、「自分の期待通りに動いて、
自分に仕えてくれる王・神」が欲しいのだ。

(因みに私は、はなっから自民党は嫌いなので、
支持するはずもありません。)

結婚で学んだこと。


神は人を創造され、いのちを創造されましたが、人を創造し、それに手を加えて男性や女性にしたのではなく、
人を創造したとき、それは既に男性で、女性を創造したとき、それは既に女性だった。
いのちを創造された時、直接、男性、女性を創造されたのですね。
つまり「いのちと性」は切っても切れない不可分なものであり、いや、もっというと殆どイコールであり、三位一体の神が不可分なほど、いのちと性は同一だったのですね。

ようやく、何故、神が姦淫をきらわれるかその意図がわかりました。
性の商品化、それはすなわち、いのちの商品化、いのちをモノと扱う行為であり、まさに殺人なのですね。

ポルノを見る、楽しむは殺人を見て楽しむ行為であり、自分を殺す行為に等しいのだ。

性を扱うことは、いのちそのものを扱うことだったのです。