A Votary of V4V -5ページ目

A Votary of V4V

映画 V FOR VENDETTA にハマってしまった自分のための備忘録(ネタバレ)

先日、Vの首振り人形が発売される~と書きましたが、知らないうちにもう1アイテム増えてた!


これ!

「日本でもお馴染みのボビングヘッドメーカー、ファンコ社のポップで可愛いデフォルメフィギュアシリーズ」だって。
サイズは9cm、1,500円(予約価格1,200円とのこと)
2012年1月頃発売予定だそうです。
http://www.blister.jp/item21517.html?r=1


ちなみに先日紹介したのはこちら。

同じ会社のだけどこっちはリアル。(といっても2頭身だけど)
こちらは高さ18cm、2,100円(予約価格1,700円)
2011年12月頃発売予定だそうだけど、まだ発売されてはないのかな?
http://www.blister.jp/item21236.html


こういうグッズにはさほど関心はないのだけど、Pop!の方がかわいすぎる!リーズナブルだし!ちょび髭がクチみたいに見えるww

でも「買ってどうすんだ」という感じもするし・・・
でもこういうのをちゃんと買っておくことが今後もV FOR VENDETTAが市場に出たり話題になり続けたりすることに繋がるのかもしれないし・・・

ああ。
どうしようか。

拷問に耐えたイヴィーを開放したV。独房を開け放って、シャドウ・ギャラリーに戻ってきたイヴィーの前に手袋をはめながら現れる。

"Hello, Evey."
第一声がやけに明るいVに対して「おいおい!ハロー!じゃねーだろっ!」と突っ込んだ人も多いのでは無いでしょうか?私はこれぞVの狂気の現れかと思いました。あんなヒドイことしておいて、そんなテンションでハロー♪はないでしょう?と。

この「ハロー♪」のときのVって、どんな心境だったのかしら。

ジャジャーン!実は私だったのだよイヴィー!!ビックリしたかい?!

なのか?

疲弊しきっているだろうイヴィーを労って元気付けてあげるつもりだったのか?

拷問したことに対する後ろめたさを取り繕って、あの妙な明るいテンションになったんだろうか?

自分がしたこととは言え、まさか最後まで耐え切るとは思ってなかった拷問をイヴィーが乗り切ったことを、Vは喜んでたんだろうと思うなあ。よくやった、おめでとう、という気持ちはあったんだろうと思うわ。

イヴィーが自分に対してどんなリアクションをするかはVにだって分かっていたと思う、イヴィーが自分を憎み、許すことが出来ないだろうことも予想してたと思うけど、Vは自分がしたことが正しかったのだという自信があったこともあって、敢えてあの声のトーンになったんだろうか。

でも、生まれ変わったイヴィーの力強い眼差しで責められるのが、思いのほかキツかったんかな、V。イヴィーの非難を受けて、仰け反るようにピアノの向こう側へ回り込み、そのとき手袋をした手でピアノを撫でる様子がまたセクシーなのです。

イヴィーの呼吸が乱れてきたとき。喘息の発作でしょうか?Vは苦しがるイヴィーに手を差し出しながら近付く。激しくVを拒絶していたイヴィーも、Vに右手を伸ばしてその腕を握るのです。その様子がとても自然で、二人が本能で互いを求めている事実の現れのような気がして、好きなのですよー。

床に座り込んでイヴィーと同じ目線で語り掛けるV。口調も柔らかくなって、その黒革手袋の手がイヴィーの顔を撫でる様子にウットリ…!艶かしすぎる!!

私は気付かなかったけど、Vがイヴィーの手を取って膝をつくとき、Vのパンツのお尻の部分が破けて下着が見えてるんですよね!改めて観てみたら…確かに黒いパンツが破けて赤っぽい色が見えてるー!!文字通り、セクシー…!!


Vのしたことは狂気じみているけど、V自身は自信を持って取り組んでいたのだ。きっとこの行為が正しい結果に繋がるのだと彼には自信があったのだ。じゃないとあんなヒドイことをイヴィーに対して行うことはなかったろうし、だからこそあの拷問のあと、真摯に熱心に、それから小説によく出てくる表現で言うと「辛抱強く」、イヴィーを諭すことが出来たんだ。

決して、イヴィーの裏切りに対するお仕置きとしてあの拷問を施したのでは無いと思う。

初見ではこのシーンでは、『拷問をしていたのがVだと分かってショック!なんてヒドイことを!イヴィーだってそりゃ怒り狂うわ!イヴィーのためだとは言えこんな事ができるなんてまともじゃない!』と思い、でもイヴィーがVに諭され落ち着くところで『アレ?イヴィーも許してしまうの?』と意外に思ったような気がする。これは実際に経験したVとイヴィーにしか理解できない感覚、悟りなんだろうと思った。


Vのマスクの顔からは表情を読み取ることは出来ないのだけど、でもその瞳はまっすぐにイヴィーを見つめていることは分かる。きっとその眼差しはあたたかい。イヴィーを支えるその腕は力強く、肌を撫でる指は優しいのだ。Vは全身でその真摯さを表してくれる。

ウットリしてしまいます…。
『バットマン ビギンズ』を観てみたのだ。

もともとはやたらと評価の高い『ダークナイト』が気になっておりましてね。でもちゃんと調べてみるまで『ダークナイト』がバットマンなんだと知らなかったよ…。それほど興味が無かったのです、わたし。でも、バットマンはV FOR VENDETTA と同じDCコミックということもあって観てみたくなったのです。バットマンに関してほとんど知識が無いんで『ダークナイト』の前に『ビギンズ』を観た方が良いのかなと言うことで、今日は『バットマン ビギンズ』鑑賞。

面白かったよ、かっこよかった!渡辺謙が出てたんだねぇ、それすら知らなかったよー。そんであのおじいちゃん執事、アルフレッドだっけ、のキャラがとっても良いね。

アクションシーンが多くて派手で長いので、観てるうちに何がなんだか分からなくなってしまうんだけど、マントを翻しながら屋根のフチに佇む姿とか、翼のように広げて滑空するところとか、カッコいいですね。やっぱマントを良いよ!マント!!

「バットマン」て、コウモリの格好をしたヒーローだから名前がバットマンだなんて安直過ぎるし、コウモリ自体が身近な生き物じゃないから何のイメージも湧かないし、それにイイ年こいた大人がそんな格好して戦う意味が解らないわ?

そう思っていたんですよ、私。だから全然興味が湧かなかった。「子ども向けのヒーローモノ」としか思ってなかったのです。あれは恐怖の象徴としてのコウモリ姿だったのねぇ。

彼もマスクで顔を隠して悪と戦うわけだけど、なぜマスクを着けると声まで変わるのかしら。ウォッチメンのロールシャッハもそうだったけど。


「正義」
「復讐」
「恐怖」
「シンボル」

V FOR VENDETTA と同じ言葉が繰り返し出てきて、観ていてなんだか不思議だった。ヒーローってのは、常にそういうテーマを抱えて活動しているもんなんかねぇ。スパイダーマンも苦悩しながら戦ってたもんね、まあ彼はいきなり特殊能力を得てしまったようだから余計かな?

しかし、バットマンはあっさりとヒロインに正体を明かしてしまうのですね。レイチェルはそれを理解したのかしなかったのか、受け入れたのか入れなかったのか、微妙な返答をしていたけど。

バットマンもスパイダーマンでもそうだけど、彼らにはヒーローになる前の素の姿というのがあって、ちゃんと普通の名前もあるし普通の生活もあるのですよね。だからこそ、普通の人間としての自分とヒーローとしての自分の狭間で苦悩することもあるのでしょう。

Vの場合は、彼はVであってV以外の何者でも無く、彼には過去も、素の姿というものも無いのですよね。バットマンのアルフレッドみたいな協力者もいないし、幼馴染のガールフレンドもいない。Vは孤独で、20年間復讐のみを考えて生きてきたんだ。バットマン ビギンズで「復讐は正義じゃない」というセリフが出てきたし、Vも最後には地下鉄のレバーをイヴィーに委ねて復讐を手放すのだけど、そう教えてくれる人がVにはずっと長い間、居なかったのだ。

Vの狂気じみた曖昧な正義感は、孤独からくるもんなんだろうなぁと、今日の『バットマン ビギンズ』を観て再認識しました。そしてこの「孤独」がVの魅力なのだろうということも。


さて、バットマン。最後にジョーカーのカードが出てきた。ジョーカーってあの口が耳まで避けたような白塗りの悪役だよね。次の『ダークナイト』で出てくるのですな?しかしこのジョーカー、書いてみて思うけど、白い顔、不気味な笑顔。なんだかVに似ているな?


V FOR VENDETTA を観ていなかったら、きっと私、一生バットマンなんてまともに観ること無かったかも知れない。Vに感謝です。

"V BEGINS" って…無理かな?!
さて、気を取り直して映画の考察。


逃げ出したイヴィーを再び保護したV。彼女をこのまま、恐怖心でいっぱいの弱い人間のままにしておくことは出来ないと思ったんだろうか?

他に選択の余地無く始まった共同生活だけど、Vには、自分の庇護下にある限りイヴィーを絶対に危険な目に遭わせない自信があったのだと思うのです。だからこそ、プロセロを殺害するときにもイヴィーのIDを使ったんだろう。イヴィーはすでに警察に追われる身であったし、シャドウ・ギャラリーに居る限り絶対に安全だ。Vはその自信があったからこそ、イヴィーのIDを使ったはずなんだ。(しかも無断で)

両親のように強い人間になりたい、恐れずに生きたいと言うイヴィーの言葉を真摯に受け止めたVは、イヴィーに協力させることにした。手伝わせることで、イヴィーに達成感を与えたり恐怖心を克服させたりすることが出来るだろうと、Vは考えたんじゃないだろうか。このときも、イヴィーを決して危険に晒さないという自信がVにはあったはずなのです。Vの完璧な庇護の下でイヴィーに課した実地訓練だったんだろうと思う。

なのに逃げ出してしまったイヴィー。
イヴィーの弱さを再認識したV。

ゴードンが逮捕されるだろうことを察知したVは、彼自信や彼の計画、シャドウ・ギャラリーなど、Vに関するあらゆる情報がイヴィーから政府に渡るのを防ぐために、イヴィーを再び保護した。それと同時に、Vはイヴィーをこれからどう扱うべきかを考えたのだと思う。

恐怖心を克服できないままのイヴィーは、これからもどうにかしてVから逃げようとするかもしれない。その度にV自身も危険に晒されることになる。政府に植え付けられた恐怖心を克服させなければ、イヴィーは何も変わらない。自分にはイヴィーを鍛錬する義務がある。Vはそう考えたんだろうか?自らの決断でイヴィーを巻き込んでしまった経緯もあって、使命感のようなものを感じていたんだろうか。

だから、あの拷問を施した。
Vを裏切ったことに対するお仕置きとかでは無いと思うわ。

自分と同じ経験をさせれば彼女も生まれ変われるかもしれない。途中でギブアップしてしまうかもしれないがそれでも仕方ない。というかVは、イヴィーが拷問を耐え切るとは思ってなかったようすです、拷問後のVのセリフによると。毎日イヴィーの我慢強さに驚きながら拷問を続けていたんでしょうか。

もし、イヴィーが途中でギブアップしてしまっていたら…?ウェストミンスターから逃げ出したイヴィーの弱さを理解し許したように、Vはまた許したと思う。仕方ないと諦めたかもしれない。だけどその場合、イヴィーは恐怖心を克服できず怯え続けることになるし、拷問を施したVを憎み恨み、もし脱走すれば間違いなくVのことを喋ってしまうだろう。なのでVはイヴィーの監禁体勢を厳しくしなければいけなかったかもしれないですよね。イヴィーがあの拷問に耐えて覚醒したからこそ、Vはイヴィーがシャドウ・ギャラリーを去るのを止めなかったんだ。また、イヴィーがギブアップしていれば、Vがイヴィーに恋をすることも無かったと思う。Vにとってイヴィーはただ「庇護すべき弱者」のままで終わってたんじゃないかな。

「毎日自分を責めた」「毎日終わりにしたいと思った」と言いながらもイヴィーを拷問し続けたV。やっぱこの辺のVの感覚はとても独特で、狂気がかった徹底っぷり。監房を作っちゃってたこともね。イヴィーの前では冷徹で残忍な尋問者であったVも、独房を離れて"V"に戻ってからは溜め息をついて頭を抱えたり、なんとか早く拷問を終える手段はないかとウロウロしながら考えたりしたんだろうか?

あの拷問のシーン、初見でも「あれ、これVじゃないの?」と思いはしたけど、イヴィーが解放されてシャドウ・ギャラリーに戻ってくるシーンでは混乱しました。なぜ監房とシャドウ・ギャラリーが繋がってるのか?!と。いくらなんでもVがシャドウ・ギャラリーにあの監房の完璧なセットを作っていたなんて、ちょっとやり過ぎじゃないか?!とも思いました。だけどきっとVは、イヴィーを監禁・拷問する以外にもあのセットを何かに使っていたんだと思う。原作ではプロセロを拉致してシャドウ・ギャラリー内の偽ラークヒルに閉じ込めるシーンもあるから、きっと同じようなことを他のラークヒル関係者にもやってたんじゃないかね。

重くて辛いシーンだけど、私としてはVがスーツを着てる姿を想像すると萌えますw マスク姿でスーツ着てくれたら良かったのにー、できればスリーピースのね。
昨日読んだ記事のことをまだ引きずっているのです。アラン・ムーアさんのコメントについていくつもの批評サイトが記事を書いているようだけど、だいたいのところが映画をけなしているのですーーー。悲しい。みんなしてそんなに言わんでもいいんじゃないの!?

色々考えてみたけど、やはり思い入れの深い原作ものほど、映画化って受け入れられにくいものですよね。私にも身に覚えがある。好きな漫画や小説の映画化やドラマ化って悪い予感しかしないもの。

原作ファンが観ても「はあ?!」
原作を知らない人もが観ても「ええ??」
ってなるような、「誰もハッピーじゃない映画」ってたまにありますよね…残念ながら。

V FOR VENDETTA は、きっと原作ファンからすると、Vのキャラもなんか変わってるし色々設定も作り替えられてるし、Vの革命の目指すものすら変わってるやないかい!と怒りや失望を感じるのかもしれない。けど、原作を知らずに映画を観た人にとっては、映画としてとても面白い作品になってると思うの!

だって、あちこちのレビューサイトで★をつけられているけど、けっこう良いスコアですよ。映画を楽しんでる人や映画のファンもきっと多いんだよね!私の身の周りにいないだけで…。

原作ファンは、とても思い入れが強くて、何年経っても他に何作品を読んでも、ずっと根強いファンなんだと思う。でも映画ファンって、それよりもっと浅いというか。確かに面白かったし良い映画だったし好きだけど、数多あるお気に入りの中の一つに過ぎず、言われてみたら「ああその映画面白かった!好きだよ!」って思い出すけど何も無ければ記憶の奥深くに、その他の映画作品と同じレベルでしまい込んでしまうんだろうと思う。違うかな?

私はこの映画が大好きだけど、でもいつか、もう少し時間が経ったら、同じように脳みその片隅にしまいこんでしまうのかもしれない。きっとそうなってしまうだろうから、この熱い想いを忘れないようにこのブログに書き留めることにしたんだけど… いつかその日が来るだろう事を考えると、自分のことがひどく薄情に思えて辛い。


映画ファンは、その原作に対しては頭が上がらないというか、いくら映画の方が好みだとは言っても、その原作がなければ映画も生まれなかった訳だし、原作に対しては敬意を持つ人が多いんじゃないかな。できれば、原作も理解して、好きになりたい。そうしてやっとその作品を深く理解して濃く愛することが出来るような気がするんじゃないだろうか?

でもきっと、原作ファンの人はそうじゃないんだろう。映画化されたものが満足行くものでなかった場合、それをもっと理解しようとか好きになろうとか、そういう思いは生まれないんだと思う。

私ももっとV FOR VENDETTA を理解したいから、原作コミックを読んだし、1度じゃ足りなくて3度4度読んだ。映画版と違ってクールで人間らしさが薄いような気がする原作のVになかなか愛着がわかなくて、幼いイヴィーにもなかなか感情移入できなかったけど、何度か読むうちに原作コミックの良さが分かって来たような気がした。原作ファンが映画に満足できない理由も何となく分かってきたような気がした。

この作品や原作者やファンたちへの理解の深まりを感じて嬉しかったのだ。そしてなお、映画は映画で素晴らしかったし、私は映画が大好きなのだ。

それでいいんだ。
人の意見を気にする事はないんだ。
わかってるんだけど落ち込んでしまって…

自分の感性に素直になろうと思います。悶々としたときにこうして吐き出せる場を持っていてよかった!